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オピニオン メディアビジネスの新・未来地図 その4

【ブログパワーは、どこから来てどこへ行くのか】
ユーザーを守りブログを本気でコントロールするために、法制度は必要

2010年07月05日 須田 伸(サイバーエージェント コミュニケーションディレクター)、倉沢鉄也、今井孝之


(倉沢)ユーザーと運営者の持ちつ持たれつの関係の中で、媒体側はブログユーザーをどう守っていくのでしょうか。具体的には「炎上の消火」という場面でのプロバイダー責任ということになると思いますが、管理者としての課題は現在どういう論点なのでしょう。

(須田)「炎上」の定義も難しいですが、ユーザーを騙そうとするもの、うそを言っているもの、はやはり原因となりますので、発信源がユーザーでも広告主でも、他のユーザーから後で指摘されるようなことはあらかじめしないようにしましょう、そのための勉強は事前にしておきましょう、という、言わば防火活動が最大の消火活動ですね。
火がついたものをどう消すかはケースバイケースです。場合によってはブログ運営側にいわれのない、意図的なケースもありますので、場合によっては警察への通報という対処も、またとりあえずの「時間薬」で日がたつのを待つという対処も、ともにありえます。
もちろんユーザーの人にも、自らが火事を起こさないように意識してもらう、必要なら勉強もしてもらう、という働きかけをすることも必要かもしれません。いずれにしても、炎上を起こさないようにみんなで気をつけることが最良の方法だと思います。
プロバイダーの責任として火種は削除することになるのですが、これも実態としてはいつ消したのか消していないのかが、Googleのキャッシュとして残ってしまうので、サイト上は削除された事件を評論しようとする無意味な論争なども含めて、よく考えて行動することが個人ユーザーも運営側も必要でしょう。

(倉沢)ですので、私が述べた「商売臭さ」というのは、そういう管理責任を全うするビジネスの臭さをどこまで出すのかというのも実は含まれています。広告主とギリギリの線を目指すところと、通信の中身に触れないことと、管理責任を行使することと、のさじ加減は、1対nの仕組みのWebサイトに比べて、制御不能な要素が多く、本当に難しいですね。

(須田)そうですね。ケースバイケース、あるいは時代によって判断が変わってくる、非常にデリケートな問題です。

(倉沢)サイバーエ-ジェントを含めてほとんどのプロバイダーにとって、憲法に定められた「通信の秘密」が足かせないしは盾になって、通信の中身にはタッチできない、という物言いになるのですが、同時にビッグプレイヤーになるほど、通信の中身で起こった事件の管理結果責任を道義的に問われるような報道がなされてしまいます。
具体的にはドコモやauの動きが顕著ですが、通信の秘密はさわれない、でも結果責任では自らをきつく縛らねば、だからコンテンツプロバイダーもきつく縛ってすいません、というアプローチになっていて、それを私のほうから、「通信者や通信内容について、気づいてから削除する管理責任だけではなく、事前にチェックする制作責任のスタンスも、自主的な取り組みとしては必要なのではないか」と申し上げました。
とくにケータイでのブログについて、最後の縛りをかける権限を持っている彼らとはどう向き合っていくのでしょうか。

(須田)一定の規制は、少なくともアメーバブログにとって必ずしもマイナスではないです。一方でコンテンツの善し悪しの判断は、誰が見てもクロ、誰が見てもシロ、グレーゾーン、の3種類に分かれて、グレーゾーンの部分の判断が主観的になってしまう点で、過ぎた規制は歓迎できません。
ケータイキャリアを含めた回線事業者については、コンテンツへのしばりが恣意的にできてしまうフェーズではもうないでしょう。コンテンツの内容についてある程度健全な競争状態が保たれれば、おのずと悪いものは淘汰され、健全な方向に向かっていくと思います。まさに商売臭さ、あるいは経済競争原理が、内容の健全さも担保することを期待して、動向を注視している状況です。

(倉沢)生まれながらにしてパソコンとケータイが手元にある人たちはもう中学生ぐらいになってきていて、インターネットの世界を学ぶ機会は、学校教育にとどまらず、街を歩きながら、友達に感化されながら、自然と学ばなければならない時代になったのだと思います。ただし肝心の親や教師が十分に消化できないスピードで物事が進んでいくので、大人のほうでインターネットの世界を危険視しているのだと思います。
子どもたちが、自分たちのやりたいコミュニティーサイトがすでにフィルタリングで門前払いにされているのは嫌だ、親にネゴってフリーオープンにしてくれと言った挙げ句に、出会い系や詐欺商売にひっかかる、という話が出てきます。そうした諸刃の剣の部分は、若い人たちがうまく勉強できる機会があればいいなと思います。

(須田)テレビもゲームもそうだったと思いますが、新しいメディアが出てきたときに、大人が十分理解できないものは不健全だというものの見方が示されがちですが、時間をかけて成熟して定着していくものでしょう。ブログもその過程にあると思います。「PTAが子どもに見せたくない番組ランキング」などの話題があまり取り上げられなくなっているのは、大人もテレビを十分咀嚼して、成熟期を迎えているメディアだからだと思います。「見せたくない番組」が取り沙汰された時代よりもっと前には、きっと読ませたくない冒険小説、聴いてほしくないロック音楽、というものもきっとあったと思うのです。ブログに対する現在のネガティブな評価には、運営側としてあまりナーバスにならなくてよいものだと思っています。

(倉沢)子どもの時に、「8時だよ!全員集合」で、子持ち主婦がメインスポンサーの商品を買わないキャンペーンが起きたことがありました。メディアが成熟していくには、広告主のスタンスも大きくも関わってきますね。

(須田)そうした時代を経て、現在インターネット上に親が触れさせたくないコンテンツがたくさんあるということになっています。30年前のテレビ番組と同じで、インターネットは清濁合わせて魅力的な怪しい装置になっていて、子どもは無邪気に魅力を感じているのは当然でしょう。大人自身がかつてテレビやゲームに対してどうだったかを考えながらインターネットと相対してほしいです。
別の見方もあります。子どもはいつの時代も飲み込みが早いのです。ケータイ、パソコン、インターネット、という意識すらないと思います。たとえば先日図書館で、小さい子どもが親に代わって検索端末で本を探して、検索条件を変えたりしながら、「これあるよ」「これはないよ」と話していました。それはケータイにしてもゲーム端末にしても、新しいツールを自然に身につけることできて、それを大人がついていけないときに、不健全なのではないか、という感覚になるのだと思います。そういうせめぎあいは、永久に続くのだと思います。
インターネットは発信者が膨大だから規制は難しい、という考え方ではなくて、触れるにふさわしいか否かを、多少の無駄な手間が出てでも一定のボリューム感で取り組まないと、メディアとして成熟していかないと思います。詐欺や騙しは大人だってひっかかるのですから、大人も含めてリテラシーのレベルを上げていくことは必要だと思います。

(倉沢)漫画もテレビもゲームも、今の大人がかつて中学生や高校生として、生活を崩壊させない付き合い方を体得してきたわけです。ですから、インターネットのコンテンツ一般も、あるいはブログでのコミュニケーションも、いずれ子どもたちが体得し、大人になったときに説明ができるようになっていくのだと思います。
ブログの中のやりとりについても、ものの言い方のすれ違いで子ども同士がケンカやいじめに巻き込まれるというのは、それはリアル・コミュニケーションの世界では昔からあるので、Webのスピード感だけついていければ、普通の子どもでもこなせる倫理基準みたいなものになっていくのではないかと思います。
そしてそれらを支えるブログの運営が、先ほどからのご指摘のように、ほどほどにヘルシーなプロフィットによって支えられることが大事なのだと思います。

(須田)ぜひそうあってほしいなと思います。
明らかに刑法の体系に触れるものを除けば、倫理的にいいコンテンツか悪いコンテンツか、という判断に、法則性はほとんど何もないのです。さらに言えば、ビジネスとして売れるコンテンツか否かという尺度もいい悪いとはまったく違うのです。「何が売れるんですか?」「いいものです」という愚かなQ&Aは、コンテンツ業界の現場でいつの時代も出てきます。「いいもの」「売れるもの」は、消費者がぼんやり判断をし続けているもので、ブログコミュニケーションの中でもいいものは受け入れられるし、いいネタは受け入れられる、ということだと思います。

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