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【その2】紙はいつまでも芳しいか ~新聞の今、これから~ 1. 新聞社インターネット事業十年余の歩みと、いま取り巻く環境

2009年03月19日 前田純弘氏 (朝日新聞社 グループ戦略本部 電波セクション 主査)、倉沢鉄也、、、西窪洋平、紅瀬雄太


メディアビジネスの新・未来地図
【その2】
紙はいつまでも芳しいか ~新聞の今、これから~


※08年12月に行われた討論会を編集・連載したものです。

<目次> クリックすると先頭に飛びます。週1回ずつ更新していきます。

1. 新聞社インターネット事業十年余の歩みと、いま取り巻く環境
2. 「ニューメディア事業」の教訓は、技術進歩を疑わないこと
3. 紙という端末ハードウェアの未来は暗い
4. 新聞報道のトータルコストを、ネット事業が背負えるのか
5. ネット広告の悲哀に耐えて、報道に見合う収益を得る、ということ
6. ローカルでの新聞の姿とは、ネットの時代にも「紙」か
7. 速報素材は、素人投稿でもいい。報道機関の生命線は「掘り起こし、選ぶ」こと
8. 記事を書き、選べる人材は、現場で書いて、選んで、育つしかない
9. 記事を「選ぶ」という、報道のコアコンピタンス;人気投票とは違う!
10. 人は、新聞の何に対価を払うのか;紙の「確定権威」の近未来
11. 報道にゆり戻すテレビ;コストダウンと中高年志向の狭間で
12. 既存資産のマネタイズの道は険し; 金に代えられないもの、金にならないもの
13. 女性、子ども、シニア‥‥セグメント化は増収につながるか
14. 新聞社の百年後?;残すコアコンピタンスと切り出すコストの行方


1. 新聞社インターネット事業十年余の歩みと、いま取り巻く環境

(倉沢)よろしくお願いします。
 日本総研のメンバーの準備運動として、前田さんには釈迦に説法ですが、少し新聞の現状についておさらいをさせてください。
 新聞の発行部数、決して落ちているとは言えず、横ばいで微減を続けている程度という状態です。ただし夕刊の減少はさらに進んでいて、これはインターネットに食われていると言った論点になるでしょう。市場規模もインターネット事業周辺ががんばっていて意外と下落していない、しかし広告収入は崩壊に近い状態になっています。俗に中央5紙と言われるところの経営状況を見ると、当期利益を見れば明らかに危険な会社が2つあるように見えます。
 国際比較で言うと、世界で日本人みたいに新聞をやたら読んでいる国民はいないというデータが出てきます。欧米は自社のインターネットサイトも初めから有料のケースもありますし、全面広告のような広告の出し方もあまりないです。日本の新聞ビジネスを欧米の潮流とだいぶ違うと捉える必要があります。スポーツ紙がこれだけ多数あるのも世界的には珍しいですが、ビジネスとくに発行部数では危機に瀕しています。
 報道を長らく担っていた新聞社には、何か社会的に大事な役割があるはずで、社会的正義を営利事業で支えるというのは一見矛盾するけれども、いずれの権力にも属さないということのために、営利事業として続けてきた歴史がありました。日刊新聞法によって保護されているという批判も、この報道の担い手という点から吟味する必要があります。
 歴史的経緯としてテレビ局設立に携わっていますから、新聞社には電波事業という名の子会社管轄業務がありますが、報道を含めた業務提携という側面は手薄です。
インターネット事業については、各社ベクトルが大きく違います。前田さんにはけんか売ってるような言い方ですが、「大安売りの読売」「何でもありの毎日、産経」「やりたい放題の日経」「孤高の朝日」そして「全く見てもらえない地方紙」と、私、大学生相手に講義なぞしております。ケータイ事業は大手ケータイサイトにいつ飲み込まれるかと思っていますが、現在は収益上は完全に横ばい安定状態です。朝日の「どらく」のように、中高年相手にPCでテキストをじっくり読ませる方向性は、非常にいいですね。

 最後に、新聞はビジネス的にはつらくなっているとはいえ、いまだ日本人は新聞を読んで安心するというメディア認識は十分あって、それは文化として当分続くでしょうが、しかし紙というハードウェアの一覧性、携帯性、速読性に安穏としているわけにはさすがにいかないでしょう、そうしたことを踏まえて根本的な見直しが必要な論点を取り上げていこうと思います。
 私が話しすぎましたので、さっそく前田さんに、これまでのご経験を踏まえての問題提起をいただいて、そこから放談をさせていただければと思っています。

(前田)簡単に自己紹介します。
電子電波メディア部署、部署名は何度か変わっていますが、ここに1996年以来ずっと関わっています。1999年からインターネット事業の企画開発まわり、2001年から出資先テレビ局の株主総会対応などの仕事をする電波セクション、2005年から再びインターネット事業の企画開発、2007年から再度、電波セクション、という異動をしています。
 電波セクションの仕事では、確かに自ら業務提携の当事者になるという動きは少ないですね。車載端末向けの情報提供で何かしようという動きが昔ありましたが、目立ったのはそれくらいでしょうか。

 それ以前は、記者をしていました。地方支局で5年、大阪本社で経済部記者になって、のち東京に移って、「ウィークエンド経済」の編集部にいました。そこで、経営者を長時間インタビューして、来し方行く末を語ってもらうという、「ビジネス戦記」というコーナーを担当した際、ソフトバンクの孫さんやCSKの大川さんといった方から「日本でもインターネットが来るぜ」という手の話を熱く語っていただいたわけです。1995年前後のことでしたので、「新聞記者もいいけれども、個人的にはインターネットの潮流の当事者になってもいいかな」という感覚を持っていました。 
 一方で1995年に朝日新聞は電子電波メディア局という部署を立ち上げるとともに、8月10日にニュースサイト「asahi.com」をスタートしました。この部署自体は、それまでも行っていた電光ニュース向けのニュース配信や、テレビ局・ラジオ局向けのニュース配信や、切り抜きの保管や資料管理などのデータベース部門、などを統合したものですが、中核はインターネット事業に置いていました。
 その翌年に、インターネット事業部門から部員1名の社内公募という、当時の朝日新聞としては画期的な試みがあって、「取材活動でインターネットの風に触れた、行ってみたい」と手を挙げたら、選ばれました。電子電波メディア部署にはそれ以来ということになります。
 1997年から1年半ほどサンノゼ事務所に行きました。asahi.comの立ち上げに際して、当時の企画開発部門がアメリカを視察していて、特にサンノゼ・マーキュリー・ニュースという、シリコンバレーでは知られた新聞社と親しくなり、いろいろなアドバイスを得ていました。その縁で、シリコンバレーの息吹、アメリカの新聞社のインターネット事業の勢いに触れるという体験もしました。
 ネットの部署を1年半ほど前に離れましたので、変化の早い分野ですから、「歴史的視点」ということになるかもしれません。

(倉沢)インターネット事業の、吹けば飛ぶような存在感の時代から、収益の一角を支える存在の現在まで、すべて見てこられたということですね。

(前田)朝日に限らず、1995年当時は、インターネットの影響力など想像もしていないというのが新聞社内の一般的な雰囲気だったのではないでしょうか。「パソコンの画面でニュースを読むんだろうか?」という物言いですね。1999年に入ってiモードなど携帯電話向けのニュースサイトを開設しましたが、その時も「この携帯電話の小さい画面でニュースを読むのか?」という物言いがありました。実は私も半信半疑でした。2000年にBSデジタルの独立データ放送が始まったときも同じです。これはBS朝日に朝日新聞が出資していて、データ放送によるニュースの配信という可能性も示さねばならないという事情もあったのですが、やはり「テレビの画面でニュースを読むんだろうか?」でしたね。もちろん、その後の経過を見ると当たっているケースもありましたし、逆に私自身、ネットや携帯の利用がここまで拡大するなどとは、予想できたはずもないです。

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