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第2部 パネルディスカッション
「幸福な最期」を選び取るために


(紀伊) 「医療を断つ」というお話がありましたので、佐々木先生にお聞きします。とはいえ、「最初の看取り」については、介護士もご家族も、いろいろ不安もお持ちだと思うんですが、どんなふうに気をつけて接していらっしゃいますか。介護士やご家族への医療としての向き合い方について、後の二つ目のパートでもお話はお聞きするんですが、今の段階で少しお話しいただけますか。
(佐々木) 「何のために医療をやるのか」をまず考える必要があると思うんですね。私たち人間は、いつか必ず死ぬという宿命があって、治らない病気や障害になって、だんだん弱って、最終的に命が維持できなくなっていく。介護というのは、その最後の5年とか10年というプロセスなんですよね。
 元気な私たちは、救急車で病院に行けば、何とか命がつながることはありますが、歳をとって弱っていくのは、病気ではありません。では、病院に行って何かいいことがあるのかというと、ないのは何となくわかっているんだけど、このまま見ているのが漠然と不安なので送ってしまう。
 なぜそうなったかというと、先ほどの下河原さんのデータにもありましたが、死というものがいつの間にか日常ではなくなっているというか、病院で亡くなるのが当たり前になってしまっているからだと思います。目の前で自分の親族が弱って死んでいくのを、多くの人は見たことがないんですね。そうすると、「こんな状態で置いておいて大丈夫なのか」みたいな話になって病院に送ってしまう。
 病院に送ったほうがハッピーだという人もなかにはいるかもしれませんが、やはり家でみてあげたほうが幸せな人が現在は多い。では、どうやったら家でみられるかということに関して言うと、やはり「覚悟を決める」ということなのだと思いますね。何とかなるものだったら努力をすればいいですが、何ともならないものは、もう「受け入れる」しかないですよね。
 だから、「どうやったらこの人たちができるだけ少ない衝撃で受け入れられるのか。この人がいかに軟着陸できるのか」といったことを医療職や介護職、下河原さんのような人たちと、みんなで連携してやっていきます。ただ、あまりここで医者がでしゃばると、結局、最後は医療で管理することになってしまう。医療というものは、命を救うために本来は機能してきたものですから、先ほど、下河原さんもおっしゃった通り、人生の最後に近づけば近づくほど、医療でもとに戻せる余地がだんだん少なくなっていくんです。
 相対的に「弱っていくと医療依存度が高くなる」と多くの方は思っていらっしゃるけれども、逆ですね。死期が近づけば近づくほど、医療でやれることはどんどん少なくなっていく。最期までその人の「生活」を、安心して納得して過ごせるようにサポートしていく。つまり、ケアですね。医療の役割が相対的に低下して、最終的に亡くなる直前は、もうケアだけでいい。死亡診断書を書くときだけ医者が行く感じじゃないかと思います。
 だから、お医者さんがでしゃばると何となくうまくいかないこともあるので、僕らはなるべくケアする人たちが安心してケアできるように、介護職に対するエンパワーメントと、家族に対して、今の選択が本人にとって最良だという確信が持てるようにバックアップをする。このあたりが僕らの仕事だと思います。
(紀伊) ありがとうございます。やはり「最後は医療よりもケアなんだ」ということなんですね。そこは、医療側も今までの価値観を変えないといけないかもしれないし、私たちも意識を変えていく必要があるかもしれませんね。
 「ご家族に納得していただいて」というお話もありましたので、角田さんにお聞きしたいと思います。銀木犀みたいな高齢者の住まいが日本全国にあるのかというと、まだなかったり、あるいは佐々木先生のような在宅で診ていただける先生もまだ少ないなかで、ご家族も最期が近づくと悩まれたり不安になったりすると思います。また、「親を施設に入れるなんて」みたいな抵抗感をお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。そのあたりのご家族の心理について、今までいろいろ相談を受けたなかでお感じになっているところがあればご紹介いただきたいんですが。
(角田) 仕事と介護を両立していると、本当にそれが長きにわたるので、疲れ切ってくると思うんですね。本当に疲れてしまって、私が実際に受けた相談でも、「もう親に死んでほしいと思ってしまう」とか、朝起きたときに親御さんが生きていると、「あ、まだ生きていると思っている自分がいる」という。そこまで思い詰めていらっしゃる事例がありました。
 もうこのままでは仕事をやめなければいけないかもしれない。でも、その方は独身だった事もあり、仕事をやめてしまうと自分の将来が不安だから、ケアマネージャーさんと相談して、お母様を施設に入れました。
 家でみていたときは、とにかく時間に追われて忙しくて、お母さんの顔なんて見ないし、会話なんてなかった。でも、施設に入れた後は、面会に行くと、ケアはプロの方にやっていただけるわけだから、やることがない。そこで、初めてゆったりした気持ちでお母さんと向き合って会話ができたそうです。
 その施設がよい施設かどうかは別問題にしまして、「お母さん、施設に入れちゃってごめんね」とか、「今、私が仕事を続けられているのは、お母さんが施設に入ってくれたおかげなの」という、そういう何か「負い目」みたいな、あるいは感謝のような気持ちが湧いてきて、お母さんに対して、一緒に暮らしていたときはぎすぎすしていたんだけど、ゆったりいい感じになったそうです。「あ、これでこのまま看取っていくほうが私には幸せかな」みたいなことをおっしゃっていました。
 本当にいい施設に入れられたらもっとハッピーですよね。「私も入りたいような施設にお母さんが入っていてくれているわ」となったら、もっと幸せな向き合い方ができるだろうなと思いました。
(紀伊) ありがとうございます。下河原さん、ちなみに、銀木犀は、ご高齢の方ご本人が選ばれるのか、それともご家族が選ばれて入居されるのか、どちらのケースが多いですか。
(下河原) まだまだ、ご家族に「だまし討ち」で連れてこられるケースが多いですけど、最近、ご自身で選んで、という方も増えています。先日、「カンブリア宮殿」という番組に出た影響もあって、80歳、90歳の方から「私、ここで死にますから」と普通に電話がかかってくるようになって、時代の変化を感じています。
(紀伊) ご本人としても、銀木犀のようなところがいいという方が増えてきているんですね。
(下河原) 増えていますし、問い合わせのほとんどは、「最後は医療にかかりたくないの」という方ですね。国民の意識が完全にそっちに向いているんですね。でも、そっちに向いているのに、そういうふうにさせてもらえない環境がある。それを変えていくということが重要かなと思いますね。
(紀伊) プレゼンテーションのなかにあった、入居者が地域住民を楽しませる夏祭りとか、入居者が店番をする駄菓子屋なども非常に先進的な取り組みだと思うんですが、そういうもので入居者の方はすごく生き生きとされていらっしゃいますか。
(下河原) どうでしょうね。入居者のためにやっているというよりは、子どもたちのためにやっていますからね。お膳立てして、ずらっと高齢者を並べて、子どもたちを呼んで、お遊戯を一方的に見せるとかは、ちょっと「拷問」だと思うんですね。普通に地域の子どもたちがいて、「交流したきゃ、交流すればいいじゃん」という感覚です。家にばあちゃんがいても、いちいち「交流」しないじゃないですか。そういう、「ちょうどいい距離感」みたいなものが大事だと思っていますね。
 お祭りはすごく楽しいですね。皆さん、役割を持って、地域の人たちに対して、自分ができることについて、力を発揮してくださっているので、そういう機会が年に何回かあるだけでも生き生きするというのはすごく感じますね。
(紀伊) 勝又さんには三つ目のパートでまたお聞きしたいと思うんですが、こういう地域コミュニティに関して、武蔵野市での取り組みをお話しいただけますでしょうか。
(勝又) 市内の有料老人ホームの例ですが、入居直後なかなか施設になじめない認知症の女性がいらっしゃいました。当初、施設の職員さんは、その方の対応にかなり苦労されたそうです。対応について検討するなかで、その方は若いころから朗読が得意で、部屋にも絵本がたくさんあったことから、近くの保育園と交流をするプログラムで、その方に読み聞かせの先生になっていただくことにしました。
 最初はその認知症の方のケアから始まりましたが、それが定例的に実施されるようになり、その方が楽しみにしてくださるということに加えて、園児がお母様にその方を紹介したり、卒園し小学1年生となった子どもがランドセルを背負ったまま挨拶に来る、等地域のなかで交流が広がっていったという例があり、非常に印象に残っています。
 その方には「読み聞かせの先生」としての役割があり、そのために練習をしたり、子どもたちが来るときにはおしゃれをして待っている、というお話を聞くと、活動の成果を感じますし心温まる話だと思います。多世代交流など地域に根づいたものというのはそういうところが大事だと思っています。
(紀伊) 「生活」というのは、3食ちゃんと食べているかということ以上に、役割とか楽しみみたいなものをいかに自然に持てるのかという、そのあたりが非常に大事ですよね。ありがとうございます。
 西沢さん、ソーシャルインパクトボンドの話も含めて、高齢者住宅で最期を迎えてもらうほうが結果としてコストがかからないというお話もありましたが、社会保障の観点から見て、下河原さんのお話を聞かれてどうですか。
(西沢) 私は社会保障制度を研究しています。皆さんお感じだったと思いますが、本日登壇される皆さんは、特別な方だと思うんです。私も「銀木犀に入りたいな、病気になったら佐々木先生に診てほしいな、武蔵野市に行きたいなとか、wiwiwに相談したいな」と思います。皆様、すばらしい方です。これから高齢者人口が増えて、年間160万人が亡くなっていくなかで、果たして、皆が皆、こういった方にめぐり会えるかという視点で、コメントをさせていただきたいと思います。
 そうしたなかで、下河原さんのサービス付き高齢者向け住宅は、税金に依存しないという意味で非常にサステナブルだと思っています。介護サービスと、住宅=ハウジングを切り分けられていることで、下河原さんのビジネスは住宅のところで成り立っているので、過剰に介護を提供しようとしないですし、そういった意味で、非常にすばらしいと思います。
 1度、浦安にある銀木犀にお邪魔させていただいたんですが、先ほどのスライドの通り、非常にセンスがよかったです。駄菓子屋さんや1階のフロアに浦安の子どもたちがいて、正直、結構やかましいなと思いました。でも、そのやかましさも含めて「生活」ですよね。フロアの飾り棚に小さく、「お互いを尊重しましょう」みたいなことがかわいい字で書いてあったんですが、きっと煩わしい人間関係も「生活」の一部だと思うんですね。住まいとは、単なるスペースなのではなく、そういったものなのだと非常に気づかされました。政府の議論では、例えば床面積何平方メートルであるとか、介護士を何人配置というふうに外形的に決めますが、決してそうではない「住まい」というものを気づかされました。
 銀木犀のレストランのテーブルや椅子は無垢の木材でできていて、これもまた非常にセンスがよくて、昼食時には近隣の方にランチを提供されるそうです。近所のお母さんが赤ちゃんを連れてきたりもするのでしょう。そうやって「地域の方が普通に隣にいる」ということが、「生活」であるわけですが、これはなかなか、普通は発想できないなと思った次第です。
 そこで生活のなかでお掃除されたりお料理されたりすることで身体も元気になりますし、それによって、自分がどういうふうに死生観を持っているかということが銀木犀のスタッフの方に伝われば、最近では終末期の指示書のような話もありますが、あえて書かずとも分かってくれているかもしれません。
(紀伊) 下河原さんにもう一つ確認なんですが、最初のスライドでも、「これからは多彩な共同住宅が必要な時代」とお書きになられていましたし、「住宅」とか「住まい」という言葉にすごくこだわりをお持ちなのではと思ったのですが、いかがでしょうか。
(下河原) 「高齢者施設」というと、「施設」ですよね。「高齢者住宅」というと、ちょっと次のフェーズに行っているような気がして。でも、自分自身が高齢者住宅を運営していながらも、高齢者だけが集中していることに違和感を感じてもいます。もはや普通の賃貸住宅でいいじゃないか、と。そこにお住まいの方々がみんなで支え合うような、現代版長屋をつくってみたいという思いがあって、そんな時代になったらうれしいなと思っています。
(紀伊) ありがとうございます。最期まで「生活の場」をいかに確保し続けるのか、ここが非常に大事だという気がいたしました。



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