オピニオン
聞くことの、その先へ 〜社員を野に放つフィールドワークの可能性〜 (前編)
2026年07月28日 井上岳一
「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない。」
宮澤賢治『農民芸術概論綱要』の中のこの一文に、ずっと引っかかるものを感じてきた。これは、自分の幸福より世界ぜんたいの幸福を優先すべきということなのだろうか。利他や自己犠牲を賛美した賢治がいかにも言いそうなことだが、世界がぜんたい幸福にならないと個人の幸福はありえないなどと言ったら、誰も幸福になれないのではないか。賢治は、本当にそんな世界を求めていたのだろうか。
この後には以下の文章が続く。
「自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する。この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか。新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある。正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである。われらは世界のまことの幸福を索ねよう。求道すでに道である。」(「農民芸術概論綱要」『宮澤賢治全集 10』ちくま文庫、1995年、所収)
「自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化」「銀河系を自らの中に意識して」という文章からは、賢治が求めていたものは、世界ぜんたいと自分とが一体だと思えるような意識の進化だったことが窺える。世界が自分と一体ならば、世界ぜんたいの幸福と個人の幸福とは同義となる。では、どうすれば世界ぜんたいと自分が一体だという意識を持てるのか。
『銀河鉄道の夜』の中の次の一文にそのヒントがある。
「このぼんやりと白い銀河を大きないい望遠鏡で見ますと、もうたくさんの小さな星に見えるのです。」
銀河は、無数の小さな星々から成る。その星の一つひとつが光っているから、銀河は全体としてぼんやりと光っているように見える。私たちは等しく、銀河の中の光る星なのだ。無数の星々のきらめきの一つひとつが私たちで、一人ひとりの私たちの輝きが銀河をつくっている。そう思えば「自我の意識は進化」し、「銀河系を自らの中に意識」するようにならないだろうか。銀河は多であり一である。世界もまた多であり一である。世界とは私であり、私とは世界だ。世界を銀河系のメタファーで捉える賢治には、「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない。」というのはむしろ自然な感覚だったのだろう。
長年引っかかっていた賢治の言葉を解釈し直すきっかけを与えてくれたのは、関西テレビ制作・フジテレビ系列で放映されたテレビドラマ『銀河の一票』である。タイトルに「銀河」とあることからもわかるように、このドラマでは、宮澤賢治の言葉や世界観が重要なモチーフになっていた。
6月29日放映の最終回で、都知事選に出馬した主人公のあかり(野呂佳代)は、上述の『銀河鉄道の夜』の一節を紹介した後、こう述べる。
「私、ずっと忘れてました。自分が一つの星だってことを。忘れようとしていました。(中略)ぼんやりとした白い銀河ってまとめられて、雑に扱われることを、何とか受け入れなきゃって。でも違う。違いますよね。(中略)
一つ一つの星、都民一人ひとりが、より輝くこと。輝くことを諦めも、手放さなくともいい。輝く気力をなくすこともなく、安心して、ほんとうのさいわいを見つけることができる。そんな世界を一緒につくりませんか?
何か困っていることはないですか。足りないものや多すぎるもの、不安なこと、ままならないことは何ですか。教えてください。教えてもらえるシステム、私たちつくります。(中略)絶対無駄にしません。たった一人のあなたが放つ、たった一つの尊い光。銀河の一票。」
あかりはスナックのママをしていた市井の人である。その市井の人が都知事選に出るというドラマの設定の中で繰り返し語られるのは、いかに市井の世界と政治の世界がかけ離れてしまったのか、ということだ。
政治は「世界がぜんたい幸福」になるための理想を語る。「世界ぜんたい」を見渡すために、そこで語られる言葉はいつも大きく、雄々しく、勇ましい。「市民」「都民・県民」「国民」「我々」「私たち」など、語られる主語も大きい。それは言わば「大文字の言葉」である。
一方、市井の人は、自分の身の丈のことしか語れない。主語も「私」が基本だ。政治の言葉が大文字なら、市井の言葉は小文字である。銀河が星々から成るように、本来、大文字の言葉の背後には無数の小文字の言葉があるはずだが、今の政治家が掲げる言葉は、小文字の言葉とはかけ離れてしまっている。それどころか、大文字の幸福のために、個人の幸福を犠牲にすることをも厭わない。だからこそ、政治を小文字の言葉で語ることからやり直さなければならない。「私」を主語にして、あくまでも「個人の幸福」を出発点にして、誰の幸福も犠牲にすることなく、「世界がぜんたい幸福」になる道を探そう。そのために、声を聞こう。一つひとつの星の視点から、政治を立て直そう。それが『銀河の一票』の主人公達が目指した政治改革であり、「世界がぜんたい幸福」になるための基本方針である。
聞くことから始めようというドラマのメッセージはシンプルだが胸に響いた。同時に、聞くことが単に情報収集と捉えられているのであれば、大文字の世界と小文字の世界に橋が架かることはないだろうとも思った。聞くことには情報収集以上の力があるが、聞くことの、その先に広がる世界に、どれだけの人が気づいているだろうか。
この数年間、市井の人々の世界に入り込み、話を聞くことを続けている。文化人類学や社会学で言うところのフィールドワークである。有り難いことにそれが仕事にもなっている。これまでとは違う方法で地域と関係をつくりたいというニーズを持つ企業の人々と共に地域に分け入り、フィールドワークをするプロジェクトが続いている。
フィールドに出て、市井の人の話を聞くことを繰り返す中で、聞くことには大きく3つの態度というか目的の違いがあるのだなと思うようになった。
一つ目は、情報収集である。これは特段の説明は不要だろう。フィールドワークは情報収集のために行うものだ。勿論、情報収集には目的がある。何らか探究のテーマがある。そういう意味では「テーマ探究のための情報収集」というのが正確な言い方になるだろうか。
二つ目は、自己の探究である。人の話、とりわけ人生のあれこれを聞いていると、「自分ならどうする?」「お前自身はどうだ?」と自己に向けた問いが湧き上がってくる。相手の話に触発されて忘れていた記憶を思い出したり、自分の感情や感覚の揺れに気づかされたりもする。話を聞くことが、いつしか自己の探究になっているのである。そして、数多くのフィールドワークをこなしていると、むしろこの自己の探究こそがフィールドワークの本義であり、価値なのだろうと思えてくるのである。文化人類学者の松村圭一郎も、「他者を知る学問」として始まった文化人類学が、今はむしろ「自分を知る学問」と認識されるようになっていると述べる(松村圭一郎『はみだしの人類学』NHK出版、2020年)。他者を通じて、あるいは或いは他者と共に自己を探究する技法がフィールドワークなのである。
そして、三つ目は、関係づくりである。フィールドワークをしていると、こちらが話を聞かせてもらっているのに、「こんなに自分の話を聞いてもらったのは初めてだ」と喜ばれ、感謝されることが多い。感謝されないまでも、最初は怪訝な顔をしていた相手が、話を聞くうちに打ち解け、最後は、「今度いつ来るんだ?次は酒を飲みながらもっと話そう」となる。相手の話を聞いていると、自然と相手が好感や信頼を寄せてくれるのだ。話を聞くことは関係づくりの有効な手段になる、というのがフィールドワークを重ねてきての実感だ。
(後編につづく)
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