オピニオン
【人的資本についての戦略的な発信に関する現状と今後の動向】
第3回「海外企業におけるHuman Capital Reportの特徴とポイントの整理」
1.はじめに
本連載第1回においては、Human Capital Report(以下、HCR)を発行する企業が、徐々に現れている状況について、続く連載第2回ではHCRの構成要素について解説した。
第1回、第2回で述べた通り、現時点でHCRの国内企業の事例は限られる。一方で、海外においては、投資家による非財務情報に対する関心の高まりや、SASBスタンダード(※1)やGRIスタンダード(※2)、ISO30414等(以下、「国際基準」)の基準設定の動き、非財務情報の重要性を踏まえた法規制の動きなどを受けて、2020年頃から人的資本に関する情報開示に、積極的に取り組む企業が増えている。そこで、連載第3回である本稿では、海外企業のHCRの事例から、情報発信の傾向別解説をした上で、日本企業に対する示唆を示す。

2.海外企業におけるHuman Capital Reportの事例解説
本稿では、海外企業のHCRを、「国際基準に準拠したモ二タリング指標の開示」「ESG投資やSDGsへの対応との連動」「ダイバーシティの取り組みのトレンドを反映した情報発信」「従業員や求職者を意識した情報発信」の4つの傾向に分類して、紹介する。

上記は情報発信の傾向別のサマリーであり、以下ではこれについて詳述する。
●国際基準に準拠したモ二タリング指標の開示
海外では先に述べたように人的資本開示の取り組みが先行している。国際基準に準拠したモニタリング指標を開示するHCRでは、人的資本経営のストーリー(経営理念や会社の目指す方向性と人事施策が連動していること)と、人事施策および施策の進捗や結果を示す各種指標を提示することで、複数企業の比較を行う投資家の要望に応えている。例えばISO30414は、労働力の多様性、エンゲージメント指数などの非財務指標に加えて、人的資本ROI(※3)などの財務指標を含んでおり、この指標を活用した開示は多い。
事例:Deutsche Bank(以下、ドイツ銀行)
ドイツ銀行(※4)は2013年からHCRの作成・開示を行っており、2021年にはISO30414を取得した。同社のHCRの構成は、人材戦略上の目標設定、目標達成の手段、人事施策の測定指標・データの掲示と、他社にも共通する標準的な内容であるが、これは同社が早くから開示を行ってきたために、他社の手本となったものと考えられる。
特筆すべきは人事施策の測定指標・データの豊富さである。例えば最新のHCR 2022では、「パートスタッフを含むフルタイム当量でのデータ開示」や「人的資本ROI」など、日本企業では開示が少ない指標も含め、ISO30414に準拠して情報が開示されている。それに加えて、「ハイブリッドの働き方」、「ウェルビーイング(社会、経済、身体、精神的側面から定義)」など、世間動向を踏まえた開示をしている。

メッセージの中で、経営理念や会社の目指す方向性と人事施策の連動を示している。

同社では、パートスタッフを含むフルタイム当量でデータを開示している。

同社の考える人的資本ROIについて言及している。

同社で導入されている、ハイブリッドな働き方について言及している。

同社における、社員のウェルビーイング(社会、経済、身体、精神的側面)実現を目指す取り組みについて言及している。
(出所:ドイツ銀行「Human Capital Report 2022
」P.15 参照日付:2024/6/10)

●ESG投資やSDGsへの対応との連動
海外では、ESG投資に対する対応が積極的に進められている。これは、投資家や金融機関がESG投資に高い関心を持ち、関連指標を重視した投資判断が一般的になっているためである。また、2015年に国連総会で採択されたSDGs(持続可能な開発目標)は、これを後押しする動きとして機能した。ESG投資やSDGsへの対応と連動して情報発信をするHCRでは、人材に関する課題を明示して、その改善過程について情報開示をすることで、投資家の要望に応えている。
事例:Schneider Electric(以下、シュナイダーエレクトリック)
シュナイダーエレクトリック(※5)は2020年に、自社が2025年までに達成すべき目標を掲げ、課題解決に向けた取り組みを行っている。同社は、目標達成に向けた取り組みをSSI(Schneider Sustainability Impact)として記載して、その進捗をSSE(Schneider Sustainability Essential)として、定量的KPIと定性的情報を用いて説明している。
SSIとSSEは人材に限らない広範な目標を扱っているが、同社はこの中から人材に関連した項目を抜粋した情報発信を2021年から行っている。最新の「Human resources report 2022」では、目標達成までの進捗を、目標、実績、基準年比較の3つの数値情報によって開示して、項目によっては他の比較数値を交えながら説明している。
例えば、SSE#24では、「従業員のエンゲージメントを高めること」を取り上げているが、エンゲージメントスコアを指標に、目標と実績に加えて、前年同期比や、グローバル平均ベンチマークとの比較を開示している。同レポートではフランス支社の「Next Normal」を取り上げて、エンゲージメントスコアを取りまとめたままにせず、社内コミュニケーションの材料として活用している点を好事例として紹介しており、興味深い。

人材に関する課題を明示して、指標を設定した上で改善過程について情報を開示している。
(出所:Schneider Electric 「2022 Human Resources Report
」p.1、p.7 参照日付:2024年6月10日)

●ダイバーシティの取り組みのトレンドを反映した情報発信
ダイバーシティの分野では、性別・年齢・人種・国籍などの「属性に基づいた多様性の確保」から、「能力・経験・知識などの多様性の確保」、ひいてはこれら多様な背景をもつ従業員が「自らの背景(個性)を同僚に開示して仕事に活かす環境づくり」へと、企業に対する期待が変化している。海外事例では、この変化に呼応する形で、HCRにおける多様性指標に関する開示が進められている。例えば、能力・経験・知識などの多様性を示すものとして、教育や勤続年数、職歴、経験、スキルといった指標の開示が行われており、環境づくりの側面では、「働き方」や「キャリア」、「経験」といった項目について、コラム等を用いて語られている。人材のもつ多様な背景が活かされることで、価値創造が生まれるとの期待を投資家に抱かせる内容になっている。
事例:Serco(以下、セルコ)
セルコ(※6)は、全世界で50,000人以上を雇用している大規模な組織である。同社は、本社の所在する英国およびヨーロッパ、北米、アジア太平洋、中東の4地域に及んでいる。人材に関する状況は全世界共通ではないことを踏まえて、各地域や国別の労働市場における課題を反映して、状況改善に向けた施策を取りまとめ、施策の導入状況を数値化して開示している。
例えば「People Report 2021」ではアジア太平洋地域における、オーストラリアの先住民族へのポジティブアクションを取り上げて、先住民従業員数という指標でその状況を定量化している。他にも、中東地域ではアラブ首長国連邦における女性従業員の増加を目指し、従業員の男女比率を指標として状況改善に取り組んでいる。

(出所:Serco「People Report 2021
」P.27, 51 参照日付:2024年6月10日)

●従業員や求職者を意識した情報発信
海外事例では、日本企業と比較して、従業員の個人的かつ内面に迫るインタビューやコメント、仕事場での写真などを用いて、読者の共感や賛同を促すものとなっている。これを当社は、海外企業がHCRによるコミュニケーションの対象を、投資家から従業員ひいては潜在求職者に広げていることの表れと考えている。
近時の研究で、職場で安心して働けるか、同僚と良い関係を築けるか、私生活を含む健康・ウェルビーイングを実現できるかといった事項に対する従業員の満足度は、生産性の向上や従業員の仕事に対するモチベーションを高め、エンゲージメントを引き出すことにつながることがわかってきている。海外事例にみられる感性情報を用いた情報開示の工夫によって、読者である従業員や潜在求職者は企業を身近に感じる他、自らの体験と重ね合わせて、同社で働きたいとの思いを強めることにつながっていると考えられる。
事例:セルコ
セルコ 「People Report 2021」では、自社のビジョンや人事施策だけでなく、従業員個人の多様な経歴やストーリーに焦点を当てた紙面構成となっている。同レポートでは、例えばセルコと非営利組織が提携した障がい者の職業訓練プログラムと雇用の取り組みについて、当事者インタビューを織り交ぜながら説明している。従業員個人のストーリーや写真などの感性情報を載せることで、読み手の理解を深める例である。

(出所:Serco「People Report 2021
」P.35 参照日付:2024年7月17日)

また、同社が発表した最新の 「People Report 2023」では、財務アシスタントとして入社した社員が、ジョブがなくなったものの、同社で働き続けたいとの思いから、船の甲板員として再スタートしたエピソードが紹介された。一からのスタートであったが、企業からの支援を得ながら必要な経験を積んで、現在は英国海軍の航行標識と係留施設の管理責任者として活躍している。このように同社で働き続けることを選択した社員のエピソードが盛り込まれ、従業員本人のストーリーやコメントなどとともに開示することで、「企業が従業員に提供できる価値」をアピールしている。

(出所:Serco「People Report 2023
」P.24 参照日付:2024年7月17日)

3.海外事例から得られる示唆
これら海外事例から得られる示唆としては、何が考えられるだろうか。この点、「国際基準に準拠したモ二タリング指標の開示」に関しては、日本企業は海外企業に比較してデータの蓄積の程度や目標設定に改善の余地があるものの、数年前の状況と比較して意欲的な情報開示は増えており、今後に期待が持てる。一方で、「ESG投資やSDGsへの対応との連動」や、「ダイバーシティの取り組みのトレンドを反映した情報発信」、「従業員や求職者を意識した情報発信」に関しては、学ぶべきポイントが大いにあると考えられ、以下この点を中心に記述する。
「ESG投資やSDGsへの対応との連動」や「ダイバーシティの取り組みのトレンドを反映した情報発信」の事例で示したように、海外の事例では人種や宗教の多様性を確保する取り組みやマイノリティに対する支援策が積極的に行われ、情報開示されている。
一方、日本では、人種構成や宗教等のバックグラウンドの多様性確保に関する課題意識の低さがあって、この点の取り組みは進んでおらず、情報開示は限定的である。国内投資家のみを相手とする場合は十分かもしれないが、海外の機関投資家を意識した場合には不十分と言わざるを得ない。グローバルに展開している日本企業であれば、海外拠点での取り組みを中心に情報の透明性を高めるべきであるし、主に国内に展開する企業であっても、海外投資家を意識して、この問題に関する企業の認識を説明すべきである。
また、今回は人的資本の論点のうち(※7)、いわゆる価値向上の観点に重点を置いた調査を行ったが、リスクマネジメントの観点も引き続き疎かにすることはできない。人々の間での差別・ハラスメント問題への関心の高まりを受けて、海外投資家は企業の差別・ハラスメントや、児童労働・強制労働などの人権問題に敏感な状況にあり、その範囲は企業本体にとどまらず、サプライチェーンを含んでいる。グローバルにビジネスを展開する大企業においては、以前から重要とされてきた事柄である一方で、近時これを疎かにしたことでトラブルが発生していることから、今一度この点の確認をし、情報開示をしていくことを強く勧めたい。
「従業員や求職者を意識した情報発信」の事例で示したように、海外の事例では、従業員のエンゲージメント、能力開発、組織文化を重視することで、企業価値向上を目指す取り組みが進められている。近年、日本企業も健康経営やウェルビーイングに着目した従業員のエンゲージメントを高める取り組みが行われているが、それに関する情報発信は十分とは言えない状況にある。日本企業はもともと、長期勤続を促すための取り組みに積極的な傾向があり、階層別研修を中心に企業主導での教育に取り組む企業も少なくない。教育プログラムや社内公募制度の導入などの取り組みをまとめ、一貫したメッセージのもとに情報発信をすることは、むしろ特徴的な取り組みとして海外投資家に好意的にとらえられるものと考えられる。
加えて、海外事例にみられる従業員や潜在的求職者に対する情報発信の動きも参考になる。そもそも欧米の労働市場は人材流動性が高く、絶えず人材確保に向けた情報発信の必要性があるが、日本の労働市場においても、人材の流動化は増加傾向にある。HCRを介した情報発信は、従業員に対する社内メッセージの補完として機能するとともに、潜在的求職者に対して会社の魅力を伝える手段の一つとして有効である。この点から、採用から入社後のオンボーディングについて、あるいは具体的なプロジェクトでの活躍、職場におけるスキルアップやキャリアの形成について情報発信を充実させることが望ましい。
4.まとめ
当社の調査では、現時点で先行する海外の事例においても、経営戦略と人材戦略の連動性を持った説明が丁寧になされている例は確認できなかった。一方で、「海外事例から得られる示唆」の項に示したように、海外企業の事例は、人材をめぐるグローバルでの課題意識と取り組みの傾向を反映した情報発信が意識されていて、最新の動向を学ぶ良いきっかけとなる。また、海外ではストーリー性やイメージを重視したレポートの構成や、従業員や求職者を主要な読者として想定した情報発信といった新しい動きも注視したい。当社は今後も同様の調査を継続予定であり、新しい動きがあれば追って報告する。
今後HCRの発行を検討している企業においては、本稿で触れてきたように、国内企業事例のみならず、海外企業事例から得られる示唆も参考に、自社の掲載内容についてご検討頂ければ幸いである。
(※1)SASBスタンダード:Sustainability Accounting Standards Board Standards
(※2)GRIスタンダード:Global Reporting Initiative Standards
(※3)人的資本ROIの定義は企業によって異なる。例えば経常利益÷人的資本コストによって算出されている。
(※4)Deutsche Bank 「Human Capital Report 2022」
(※5)Schneider Electric 「2022 Human Resources Report」
(※6)serco 「People Report 2021」、serco 「People Report 2023」
(※7)経済産業省「サステナビリティ関連情報開示と企業価値創造の好循環に向けて 『非財務情報の開示指針研究会』中間報告」より
以上
※記事は執筆者の個人的見解であり、日本総研の公式見解を示すものではありません。
関連リンク
人的資本についての戦略的な発信に関する現状と今後の動向
・第1回「人的資本に関する発信媒体の最新動向」
・第2回「国内企業におけるHuman Capital Reportの構成・発信内容の整理」
・第3回「海外企業におけるHuman Capital Reportの特徴とポイントの整理」