■FOIPの進化:自由貿易から経済安全保障重視のルール形成へ
高市首相は、2026年5月のベトナム・豪州訪問で、日本外交が経済安全保障を重視していることをより鮮明にした。とくに、日本が主導する「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」の進化が、その方向性を顕著に示すものであった(注1)。提唱から10年を迎えたFOIPでは、元々の理念にある「ルールに基づく経済秩序」の維持・拡大に加え、新たに(1)エネルギー・重要物資のサプライチェーン強靱化、(2)官民一体での経済基盤の共創とルール共有、(3)安保分野の連携拡充、という重点分野が掲げられた。これらは、経済、社会、安全保障での自律性や強靱性を同志国と連携して実現するための取り組みと定義されている。一方、進化版FOIPでは「自由貿易の推進」という表現は維持されたものの、政策の主眼がサプライチェーン強靱化や安全保障協力へ移るなかで、その相対的な位置付けは後退している。以下にみるように、①経済安保重視の世界的な流れ、②経済安保に政府介入が不可欠という現実、がこうした動きを加速させたといえる。
■自由貿易・市場原理重視から経済安保重視という世界の流れ
FOIPが提唱された当時は経済面において国有企業支援や市場介入といった問題で中国が強く意識されたが、今や米国も関税措置や輸出規制などを外交手段として積極的に用いるようになった。二つの大国がそれぞれ異なる形で経済を武器化する時代に入っており、高市首相が述べた通り「環境は大きく変わった」のである。
元来、貿易による経済の結びつきは、戦争などの国家間の争いを生む確率を低下させる(戦争をすることの費用が高まり、避けようとするインセンティブが働く)との考えが主流であり、データに基づけばそうした見方が妥当とする実証分析も多い。しかし、近年は政治対立が貿易制約につながる場面が増え、その前提は揺らいでいる(Keynes [2026])。米中による経済的圧力が常態化するなかで、もはや市場原理だけでは経済秩序を支えきれない、との見方が広がり、世界において「自由貿易が平和と安定をもたらす」という発想は、今、「経済安全保障を強化しなければ必要な貿易は維持できない」という考えへと転換している。FOIPも自由貿易よりも、安全保障、すなわちシーレーンの確保や経済的威圧への対抗を重視する方向へとシフトせざるを得ないのが現状である。
■重要鉱物への対応が示す「政府介入不可避」の現実
経済安全保障の強化のための対応の多くは、市場原理では限界があり、政府の強力な介入が必要となっている。とくに重要鉱物はその代表例である。高市首相の今回の外交では、豪州との重要鉱物協力において採掘から精錬・下流製造までを含むサプライチェーン全体での連携が示されたことは大きいが、中国依存を是正するにはさらに踏み込んだ対応が不可避とも言える。
背景には、中国が精錬や加工プロセスで圧倒的なコスト競争力を持つ現実がある(野木森[2023])。環境規制の違いなどもあり、市場原理だけでは中国以外のサプライチェーンを構築するのは容易ではない。そのため近年では、価格の下限設定など、政府による市場介入を通じてサプライチェーンを維持すべきとの議論が強まっている(注2)。米国のグリア通商代表部(USTR)代表も中国以外から調達する重要鉱物に対して「国家安全保障プレミアム」を支払う必要性を訴えており、経済合理性だけではサプライチェーン強靱化を実現できないとの認識が広がっている。
■経済安保時代に必要となるIPEF型枠組みの再考
もっとも、こうした政府介入による対応は、サプライチェーン強靭化には有効となったとしても需要側にコスト負担を強いるほか、市場の歪みや保護主義の拡大につながる恐れがある。この点において、FOIPが掲げる「ルールに基づく経済秩序」の在り方は、今まさに変容を迫られている。
自由貿易の位置付けが後退するなか、こうした安全保障のための介入がもたらす弊害をいかに最小限に抑え込み、「ルールに基づく経済秩序」を維持するか。過去、その具体的な試行錯誤の動きとして、米国主導の「インド太平洋経済枠組み(IPEF)」があった(注3)。バイデン政権下の2022年に発足したIPEFは、FOIPを経済面で具体化する枠組みとして、サプライチェーン協力に加え、労働・環境分野の共通ルールを通じて非市場的競争への対応を目指していた。特に、特定産業を直接保護するのではなく、強制労働の排除や環境基準の強化といったルール形成を通じて、公平な競争条件を確保しようとした点に特徴があった。しかし、トランプ政権下ではIPEFの議論は停滞し、推進力を失っている。
今後、経済安全保障を重視する以上、一定の政府介入は避けられない。しかし、政府介入は市場の歪みや各国間の対立を深める恐れもある。そのため、共通のルールを強化するようなIPEF型の枠組みは不可欠となろう。日本には、FOIPの理念を維持するとともに、IPEF型のルール形成枠組みを推進、または再構築し、同志国の連携を強化する役割が期待される。
(注1)外務省ウェブサイト「自由で開かれたインド太平洋」 https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/page25_001766.html
(注2)2026年1月13日付日経新聞「レアアース、中国依存低減 G7財務相、資源国交え協議」 https://www.nikkei.com/article/DGKKZO93717630T10C26A1MM0000/
(注3)今回の外交では「環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定(CPTPP)」の推進も示された。しかし、同協定は高度な自由貿易協定であり、供給寸断や経済的な威圧への対応ができるわけではない。もっとも、CPTPPにサプライチェーン協力や環境分野などのルール強化などが組み込まれ、さらに米国復帰などがあれば、IPEF以上に強力な経済秩序形成ツールとなり得る。
【参考文献】
Keynes, Soumaya. [2026]. "Does trade cause peace? Ask an economist," Opinion Global trade, Financial Times, Apr 30 2026.
野木森稔[2023]、「重要鉱物供給網再編のトリレンマ ― 脱中国依存と脱炭素の追求が高める経済リスク ―
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