オピニオン
小学校は何のためにあるのか?
2014年10月07日 井上岳一
小二の娘は、学校がつまらないと言う。何となく馴染めないようだ。「行きたくない」とは言わないが、「なんで学校にいかないといけないの?」と問われたら、何と答えるのかと自問する。なぜ、子どもを小学校に行かせないといけないのか?そもそも小学校は、何のためにあるのだろうか? 憲法第26条は「1.すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。2.すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育は、これを無償とする」と定めている。小学校に行くのは、児童の権利であり、行かせるのは、保護者の義務である。そして、この保護者の義務は、「病弱、発育不完全その他やむを得ない事由のため、就学困難と認められる者の保護者」でない限り、免除されない(学校基本法第18条)。 親は、子どもを学校に行かせないと憲法違反になるのだ。だが、親が負うのは、「普通教育を受けさせる義務」であって、「小学校に行かせること」とは書かれていない。ならば、その「普通教育」とは何か。 文部科学省の「小学校学習指導要領」(平成20年3月改定)によれば、小学校が目指すのは、「児童の人間として調和のとれた育成」である。そして、教育活動を進めるに当たっては、「児童に生きる力をはぐくむこと」を目指し,「基礎的・基本的な知識及び技能を確実に習得させ,これらを活用して課題を解決するために必要な思考力,判断力,表現力その他の能力をはぐくむとともに,主体的に学習に取り組む態度を養い,個性を生かす教育の充実に努めなければならない」とされている。今の「普通教育=義務教育」が目指すのは、「人間として調和のとれた育成」を行い、「生きる力をはぐくむこと」である。小学校はそのための場として存在する。 逆に言えば、それを小学校以外でもできるなら、わざわざ行かせる必要はないということになる。実際に、そういう理由で、子どもを学校に行かせない親達がいる。いじめや引きこもりなどで学校に行けない(=不登校、登校拒否)のではなく、あえて学校に行かないことを選ぶのである。 一般に、「ホームスクーリング」と呼ぶが、自分の周囲には、このホームスクーリングを選択している親が存外に多い。そして、その子ども達と話してみると、これがびっくりするほどしっかりしていて、魅力的な子が多いのである。ことに印象的なのは、自分の頭で考え、自分の言葉で話そうとする姿勢が身についていることだ。自分が感じていること・考えていることを大事にし、周囲に流されない。だから、初対面の大人にも、物怖じせず、本質的な議論をしかけてくる。読み書きソロバンのレベルはわからないが、「人間としての調和」がとれているように見えるし、「生きる力」も身についているように思える。 現在、どれくらいの児童がホームスクーリングをしているかは不明だ。文部科学省の調査では、平成22年度の不登校児童数は、小学校で22,463人(全体の0.32%)、中学校で97,428人(同2.73%)となっている(「平成22年度 児童制度の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」)。ただし、不登校の理由を見ると、そのほとんどは、何らかの問題があって学校に来られない・来ない場合である。唯一の例外が、「意図的な拒否」を理由にしている場合で、仮にこれをホームスクーリングの子達と見なせば、その数は5,391人(小学生1,098人、中学生4,293人)である。 ホームスクーリングが法的に認められている米国では、90年代後半からその数が急増し、2007年時点で、約200万人、全児童の約5%がホームスクーリングをしているという(National Home Education Research Institute調べ)。 日本では、ホームスクーリングは、法的には認められていない。しかし、教育の現場では容認されている。そもそも、今の公立小中学校は、一日も学校に行かなくても、ちゃんと卒業証書を発行してくれるから(!)、ホームスクーリングでも、何ら問題はない。 では、自分の子どもをホームスクーリングするかと問われれば、現時点では、しないと答える。だが、もし、子どもが学校に馴染めないまま元気をなくしていくようなら、その時は迷わずにホームスクーリングにしようと妻とは話している。無理に学校に行かせることで、「人間として調和のとれた育成」が阻害され、「生きる力」を失うならば、本末転倒だからだ。ちなみに、もう何年もの間、10~30代の死因のトップは自殺である。義務教育が、「生きる力をはぐくむ」ものになっているならば、そういう事態にはならないはずだ。 だから、子どもが小学校に適応できないことを恥じる前に、本当にそこが「調和のとれた育成」をし、「生きる力」を育む場になっているか、きちんと見極めるべきなのだろう。学校を批判するのはたやすいが、残念ながら、いくら学校を責めても、教育の質が簡単に変わるとは思えない。ならば、最後は、学校に行かせず、自ら教育するほかないだろう。そういう覚悟を持って、子どもと向き合っていくのが、親の義務ではなかろうか。 ※執筆者の個人的見解であり、日本総研の公式見解を示すものではありません。
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