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Business & Economic Review 2001年06月号

【OPINION】
環境問題の解決には、個人の環境権の確立を

2001年05月25日 調査部 環境・高齢社会研究センター 藤波匠


環境保全の前には、いつも経済発展という壁が立ちはだかってきた。1967年に制定され、93年に廃止された公害対策基本法には、調和条項と呼ばれる規定が明記されていた。調和条項とは、生活環境の保全は、経済の健全な発展との調和のもとで進められるべきものであると規定した条文である。すなわち、経済発展が環境保全に優先するということを、明記していたのである。

調和条項自体は70年に削除され、明確な文言として調和条項的表現は見当たらなくなったが、それ以降も、環境保全に対し婉曲的に経済発展や経済的権利を擁護する条文が、他の法律に散見される。例えば、騒音規制法にみられる小規模事業者に対する配慮や、絶滅種保存法、自然環境保全法にみられる財産権の尊重もその典型といえる。

また、日常の生活の中で、経済的制約により環境保全が図られない例にいたっては、枚挙に暇がない。古い例では、明治期のごみの焼却が挙げられる。当時は、江戸から明治へと時代が移り、都市化の拡大とともにごみの集積による環境汚染がはじめてクローズアップされた時代であった。都市の衛生状態を保持するために制定された汚物掃除法(1900年)では、焼却処分が推奨、その後義務化されたものの、資金的な問題からほとんど根づくことはなかった。最近の例では、地球温暖化問題に関し、温室効果ガス削減を目指した京都議定書から、アメリカが経済問題を理由に離脱しようとしていることが挙げられるし、国内においても、温室効果ガスの抑制は経済発展を阻害するものであるとの意見は、産業界を中心に根強い。

このように、環境保全は経済発展とたびたび天秤にかけられ、多くの場合軽んじられてきた。それは、憲法第29条に規定される財産権などを根拠として経済活動の自由が保障されている一方で、環境保全はその根拠となるものが見つけにくい状況にあるからと考えられる。環境破壊によって心身に障害を受けた場合には、人格権や生存権を根拠に救済することはできる。しかし、景観の保全やおいしい飲み水の供給といった積極的環境保全を、経済発展より優先させるためには、その根拠となるものが希薄であるといえる。そこで、優先されがちな経済発展に一定の歯止めをかけ、環境保全を図るため、筆者はそのよりどころを、個人の環境権におくべきであると主張する。国は、個人の環境権を確立させ、それを環境行政に反映させるべきである。

環境権とは、60 年代にアメリカで提唱された考え方で、72年ストックホルムで開かれた国連人間環境会議で採択された人間環境宣言(ストックホルム宣言)に、人間の基本的権利であると明記され、国際的に認知度が高まったものである。具体的には、原則として「人は、尊厳と福祉を可能とする環境で、自由、平等及び十分な生活水準を享受する基本的権利を有する」とされている。生存可能であればよいというのではなく、一定レベルの環境が保たれた状況で生活することが、人間に与えられた権利であるとしているのである。

国内に目を向ければ、日本の環境行政の基本法である環境基本法に、それに相当する文言を見いだすことができる。第3条に、基本理念として「環境の保全は、-(中略)-、現在及び将来の世代の人間が健全で恵み豊かな環境の恵沢を享受するとともに人類の存続の基盤である環境が将来にわたって維持されるように適切に行われなければならない」と記述され、それが国の責務とされている。
「環境の恵沢を享受する」を分かりやすく直せば、「環境からの恩恵を受ける」ということである。全体としては「現在、将来全ての世代が環境からの恩恵を受けるため、環境保全を適切に行うことが国の責務である」ということになる。

現憲法に環境に関する記載はない。通常、人格権や生存権に、環境の保全を求める権利も含まれると考えるのが一般的である。しかし、実際に環境の悪化が生命を脅かし、裁判により損害賠償や差し止め請求が認められた場合でも、過去の判例に見る限り、その判決は環境権の侵害ではなく、人格権が侵されている、あるいは不法行為があったとの判断に基づいている。例えば、昨年判決が下りその後和解が成立した尼崎公害訴訟は、実際に健康に被害が出ており、それが道路管理者の落ち度(瑕疵)であるとして、国などの責任を追及した例といえる。

では、国内において個人の環境権を確立するには、どのような手段が考えられるであろうか。一つには、上記した環境基本法の第3条を国が厳格に運用することである。以下に示す憲法の改正を行わなくても、国民に対する国の責務として、個人の環境権を環境行政や司法の柱とすることは十分可能と考える。

二つ目として、憲法を改正して、新たに環境権という文言を明記することが考えられる。この方法のメリットは、環境権がその他の基本的人権と同列におかれることで、環境の恩恵を受けることが正当な基本的人権であると位置付けられることである。同じ憲法で規定された財産権を根拠とする経済活動に対し、強い楔を打つことが可能となる。
憲法改正のデメリットは、憲法改正自体の実現が不確かで、しかも今後長期間の議論が交わされることが確実なことである。実現不確かな憲法改正を期待するより、まず行政が環境基本法の基本理念を尊重し、個人の環境権を実効性のあるものとすべきである。

次に、環境保全の正当性を謳う場合のほか、環境権を確立することのメリットには、どのようなことが期待されるのか考えてみたい。

【教育的効果】
現在、学校教育を中心に環境教育が注目されている。環境教育を受けるものにとって、環境を保全することの重要性を認識するための根拠として、基本的人権としての環境権があることの意義は大きい。根拠を個人のモラルに求めている現状では、環境保全を人の意識の根底に根づかせるのは難しい。特に初等教育において、基本的人権のひとつとして環境権があるということを学ぶことは、将来の環境保全意識の形成に有意義と考えられる。

【義務の形成】
前出のストックホルム宣言には、権利だけではなく義務も明記されている。すなわち、「人は、-(中略)-、現在及び将来世代のために環境を保護し改善する厳粛な責任を負う」と謳われている。環境基本法でも、第3条の基本理念は、国だけではなく地方自治体や事業者の責務となっているとともに、国民の努力目標ともなっている。すなわち、人は適正な環境で暮らす権利を有するとともに、その環境を保全する主体ともなることを意味する。

【予防効果】
個人の環境権を確立するメリットとして、最後に予防的効果を挙げたい。現状では、環境の汚染などが健康被害を生み出した場合に限り、司法上の救済が行われているが、個人の環境権を確立することで、健康被害が発生する以前に環境の汚染にストップをかけ、さらに良好な環境を生み出す努力を促すと考えられる。上水道の供給を例に取れば、有害な物質を除去することに主眼が置かれていたものが、おいしい水を供給するという一歩先んじた取り組みが必要となるのである。

最近、環境権を憲法に明記すべきであるとの意見が目立つようになっているが、環境権を確立するということは、何も憲法に明記することに限っているわけではない。日本国憲法の解釈や環境基本法の適用により、十分対応が可能であると考える。国は基本的な理念として、国民の環境権を確立させ、環境行政に反映させていくべきである。

この環境権という考え方は、行政、企業、国民の意思決定プロセスを、根底から覆すものとなるかもしれない。これまでほとんど顧みられることのなかった、「よりよい環境の創造のため」という判断基準が、より高い優先順位に位置付けられるからである。環境問題が局所的な公害から全国規模へ、そして全地球規模へと拡大していく中で、個人の環境権擁護を根拠とする環境行政や国際社会へのアピールが、今の日本に求められている。
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