オピニオン
部下に主体的に動いてもらうには、、、
2024年12月24日 井上岳一
日本総研では2022年に武蔵野美術大学との共同研究拠点「自律協生スタジオ」を開設、以来、武蔵美の先生方や学生達と共に研究・実践活動を行っている。右脳(非言語、感覚、感性)に強い美術大学と、左脳(言語、論理、分析)が優位のシンクタンクの力を合わせて次の社会に移行するための基盤をつくっていこうという、新たな試みである。
共同研究のテーマは「自律協生社会の実現」としている。自律協生社会とは、自他が力を合わせることで、1+1>2となるような社会のことを言う。自律協生社会においては、個は自律的・主体的に振る舞いつつも、他と力を合わせることでより自由で創造的になり、自他の境界が溶け、一人では実現できなかったことを実現できるようになる。一人ひとりに居場所と出番が生まれ、それぞれがそれぞれに本領発揮できるようになる。そういう世界の実現を自律協生スタジオでは目指している。
こういう話をすると、自律的・主体的に振る舞おうと部下を鼓舞する管理者が必ず出てくる。そして、自律的・主体的なコミットメントを部下に求め、評価の要素にも加えたりする。こうなると半ば強制的に自律や主体性に仕向けられるわけで、「自律協生」というより「自律強制」に近い状況が生まれてしまう。
「自律強制」の弊害を考える上で参考になるのが、武蔵野美術大学の学生A君の体験である。A君は、大学のプログラムで、宮崎県美郷町の過疎集落に1ヶ月滞在したのだが、この滞在期間中に、彼は大きく変化した。
もともと彼は、人とのコミュニケーションに苦手意識を持っており、人前ではほとんど話ができなかった。だが、その彼が、美郷町では、初めて出会った人の家にあがりこんで話し込んだり、集落の飲み会で皆の前で歌を歌ったりと、東京にいたときには考えられない積極的な行動を始めたのである。毎日、集落に行き、集落の人とコミュニケーションをとり続けていた彼に、どうしてそんなふうに振る舞えるようになったのかを問うたら、東京ではコミュニケーションに失敗するのが怖くて話せなかったけれど、美郷の人達は、そんなこと関係なく向こうから話しかけてくれるし、腕を引っ張って、無理矢理舞台にあげるようなこともしてくれる。そういう人達と接していたら、気づいたら話せるようになっていた、と言うのである。そして、自分は話すのが苦手なのではなく、ただ失敗を恐れて踏み出していなかっただけだということに気づかされたとも言った。
A君の話を聞いて思ったのは、一口に語られがちな自律と主体性の相反的な関係だった。東京は自他の境界が明確で、よくもわるくも個が自律的に振る舞う社会だ。だが、その分、自己責任も問われやすい。自律=自己責任の世界だ。一方の、美郷は、自他の境界が曖昧で、人がどしどしと自分の領域に入ってきたり、引っ張り上げられたりして、行動に駆り立てられる世界だ。それは、能動(自律)でも受動(他律)でもなく、哲学者の國分功一郎の言う中動態的な世界である。中動態的な世界では、個は責任の主体にならないから、気づいたら安心して自分を出せている、自分から行動できている、となりやすい。つまり、自他の境界が曖昧な、中動態的な世界のほうが、主体的に振る舞いやすいという逆説があるのである。
となると、管理者が部下の自律を言い過ぎるのは逆効果だということになる。それは自己責任でやれ、と自律を強制されているかのように映るからだ。だから、自律を言う前に、いつでも同僚や上司に頼れる関係性をつくり、失敗があっても責任を個人のものに帰さず、ここは自己責任の世界ではない、という安心感をつくることを優先すべきなのだろう。自律協生で言えば、協生(力合わせできる関係)を自律に先立たせるのである。自律と主体性はセットで語られがちだが、ほとんどの人は、自分で決めて(自律)、自分で動ける(主体性)ほど強くはない。強い個を前提にせず、弱い個を前提に、どうしたら主体的にふるまってくれるかを考える。そういう態度が自律協生社会の実現には必要になるのだろう。
※記事は執筆者の個人的見解であり、日本総研の公式見解を示すものではありません。