1.はじめに
昨今、欧州や米国を皮切りに、企業に対して人的資本情報に関する開示要請が強まっており、日本国内の上場企業においても同様の潮流が見られる。このような流れの中、経済産業省が2020年9月に「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会報告書〜人材版伊藤レポート〜」(以下「人材版伊藤レポート」)を発表したことを契機に、「人的資本経営」への関心が急速に高まっている。
もちろん、「人的資本経営=情報開示要請に応じること」では当然ないが、では、人的資本経営とはどのようなものだろうか。人的資本経営という言葉は流布されていても、その要諦についてはいまだ十分な整理がなされていないように思われる。筆者は「人的資本経営とは、人材を企業価値創出の原動力(=資本)と位置づけ、人への投資を戦略的に行いながらROI(Return On Investment:投資利益率)を最大限高めていく経営の考え方である」ととらえているが、その実態を一言で伝えることは困難を極める。
そこで、「シリーズ:人的資本経営」と題し、人的資本経営とはそもそもどのような考え方なのか、その実践に向けて企業は今後どのようなことに取り組むべきなのかといったことについて、体系的に述べることとする。第1回となる本稿では、人的資本経営の全体像について、従来の経営スタイルとの比較を通じて理解を深めたい。
2.なぜ今、人的資本経営が求められているのか?
まずは人的資本経営が求められている背景を2点簡単に押さえたい。1点目は、『人的資本に関する情報開示の動向(前編)』でも述べたとおりであり、本稿では詳細な説明は省略するが、ISO 30414に代表されるように、外部からの要請として人的資本情報の開示が迫られていることが挙げられる。2点目の背景としては、企業内部で進展する人材の多様化が挙げられる。
現代は「先行き不透明で将来の予測が困難な時代」としてVUCAと表現されるが、コロナ禍によってその不確実性はより一層高まっている。このような状況下では、将来を見通しづらいからこそ打ち手それぞれの効果をモニタリングする必要があり、人的資本についてもROIをより高めるための戦略を議論することが重要となる。
また、従業員に占める女性や高齢社員、外国人の割合が年々上昇するなど、人材そのものにも構造的な変化が生じている(※1)。労働者に占める非正規雇用の割合も今や約40%に上り(※2)、フリーランスや副業・複業人材も増加傾向にあるなど、働き方は一層多様化している。これらを踏まえると、「男性中心の正社員×終身雇用」という従来の働き方を前提とした人材管理、すなわち画一的な採用・活用・育成は限界を迎えており、今後は、一人ひとりの働き方に合わせた管理として、「個に迫る」人的資本管理が求められるといえよう。
3.従来の経営スタイルと人的資本経営の違い
次に、人的資本経営と従来の経営スタイルとの違いについて考えたい。まず、人的資本経営について世間一般ではどのように考えられているのだろうか。人事・採用の最終決裁権者300人を対象とした日本総研の調査によると、73.7%が「(人的資本経営は)人を大事にする経営と同義であり、何か新しいことを行う取り組みではない」ととらえている結果になった(図表1)。つまり、人的資本経営とは従来までの経営の考え方の延長線上にあるもの、と考えている企業が多くを占めることが明らかになったのだ。
しかし筆者は、人的資本経営は従来の経営とは一線を画すものととらえている。冒頭で述べたとおり、人的資本経営とは「人材を企業価値創出の原動力(=資本)と位置づけ、人への投資を戦略的に行いながらROIを最大限高めていく経営」といえる。ここで重要なことは、人材へのROIを最大限高めるために、採用や育成等の投資を「感覚的に」行うのではなく、「戦略的かつ科学的に」行っていく必要があるということだ。すなわち、経営戦略と連動した人材戦略のもと、人事・人材領域で達成すべきKPI(Key Performance Indicator:重要業績評価指標)を設定し、都度、モニタリングや改善に向けた施策検討を行うことで、ROIを高めていく必要があるといえる。
さて、ここまでの内容について「すでに取り組んでいる」あるいは「これまでの経営と何が異なるのだろう」と感じている人も多いのではないだろうか。そこで、より具体的に人的資本経営の考え方に迫るべく、人材の調達や配置、人材育成の考え方を例に挙げてみたい。
まず、人材の調達について、従来の「戦略連動レベル」では、経営戦略を「意識した」人材施策を展開するレベルにとどまるケースがよく見られる。一方、人的資本経営では、事業戦略・人材戦略の粒度を高め、必要人材の質と量まで「具体的に」展開することが重要になる(図表2)。
人的資本経営では、まずは経営戦略のロードマップを基に各部門・ポストのミッションを明確にし、各ミッションを具体的な職務・役割・スキル定義まで展開し、「どの部門のどのポストにどのような人材が何人不足しているのか」を把握していく。このように、経営戦略を丁寧にブレイクダウンして必要人材の質と量まで展開し、人材調達施策へつなげていくところが人的資本経営のポイントとなる。
このように、経営戦略を起点として必要人材の質と量を導き出す人的資本経営では、言い換えれば、人起点ではなく仕事起点で物事を考えることになる。この発想の違いが、配置や人材育成のあり方にも大きく影響する。
これまでの経営では、図表3のように自社の人材ポートフォリオを組んだ際に、自社競争力にとっての重要度と難易度が低いノンコア業務に取り組む従業員が過剰であっても、「本人に大きな変化を迫ることが”可哀そうである”」という温情的発想のもと、「何もしない」ケースが少なくない。一方、人的資本経営では人的資本へのROIを戦略的に高めることを目指すため、人材ポートフォリオの変更が必須となる。先の例でいえば、ノンコア業務に従事する人材はコア業務に従事させるべく、会社が強い意志をもって配置転換を要請することになる。
また、そうした難易度のより高いコア業務へ配置転換するにあたっては、リスキルも必要不可欠である。換言すれば、育成の観点でも、これまでのような入社年次等による画一的な育成手法から、業務の重要度・難易度に合わせて、より投資対効果の高い育成対象を見定め、育成手法も個別に検討することが求められる。このように、自社の人材ポートフォリオを鑑みた上で、戦略的に配置転換や育成への投資を行うところが人的資本経営のポイントとなる。
このような人的資本経営実践のポイントは、人材版伊藤レポートでは「3P・5Fモデル」として整理されている。ここで紹介した「経営戦略と人材戦略の連動」や「必要人材の定量把握」、また、「人材ポートフォリオ」や「リスキル」というキーワードは、特に重要な視点・要素として挙げられている。
4.人的資本経営における「3P・5Fモデル」
3P・5Fモデルとは、人材版伊藤レポートによれば、「人的資本経営において、人材戦略に求められる3つの視点・5つの共通要素」とされ、全体像は図表4のように整理できる。3つの視点(Perspectives)は、人材戦略を検討する際にどのような視点から俯瞰すべきかを意味し、5つの共通要素(Factors)は、ビジネスモデルの別に関わらず、どのような企業の人材戦略にも共通して組み込むべき要素として提唱されている。3P・5Fそれぞれのポイントを要約すると、図表5のとおりとなる。
5.おわりに
本稿では、人的資本経営が注目される背景や世間一般的な誤解に触れたうえで、従来の経営スタイルとの比較を通じて、人的資本経営の特徴や目指すものについて述べた。しかしながら、3P・5Fモデルからもわかるとおり、その領域は多岐にわたっており、本稿だけでは実践的な理解を深めることは難しい。
そこで本シリーズでは、次回以降、3P・5Fモデルの要素をテーマ別に取り上げ、従来の経営スタイルとの比較や企業事例を交えて解説する。
(※1) 株式会社帝国データバンク『女性登用に対する企業の意識調査(2021 年)』、および内閣府『令和元年度 年次経済財政報告―「令和」新時代の日本経済―』による。
(※2) 総務省統計局『労働力調査 長期時系列データ(詳細集計)』による。
以 上
※記事は執筆者の個人的見解であり、日本総研の公式見解を示すものではありません。
関連リンク
連載:人的資本経営
・【第1回】 人的資本経営概論 ~従来の経営スタイルとの比較を通じた理解~
・【第2回】 人的資本経営概論 ~経営戦略と人材戦略の連動~
・【第3回】 人的資本経営概論 ~As is - To beギャップの定量把握~
・【第4回】 人的資本経営概論 ~動的な人材ポートフォリオの構築~
・【第5回】 人的資本経営概論 ~企業文化への定着、その意義と実践~
・【第6回】 人的資本経営概論 ~リスキリングに関する調査結果(前編)~
>>[動画] リスキリングの実態・ポイント解説(前編)
・【第7回】 人的資本経営概論 ~リスキリングに関する調査結果(後編)~
>>[動画] リスキリングの実態・ポイント解説(後編)
・【第8回】 人的資本経営概論 ~知・経験のダイバーシティ&インクルージョン~
・【第9回】 人的資本経営概論 ~人材の競争力向上に向けたプロアクティブ人材育成の必要性~
・【第10回】 人的資本経営概論 本連載を振り返る~人的資本経営の本質的実践と人事部門変革の要点の総括