IT時評:「次の一手を読む」
第14回「“国際競争力”って、そもそも何?」
出典:日本経済新聞「NIKKEI NET」 2007年5月30日
バブル崩壊以降、日本の国際競争力の低下が叫ばれ、さまざまなところで俎上(そじょう)に載っている。政府の経済財政諮問会議(議長・安倍晋三首相)がこのほど(4月25日)正式決定した「成長力加速プログラム」でも、国際競争力強化が大きな目玉になっている。
安倍政権の成長戦略の中核政策となる同プログラムは、1人当たり労働生産性の伸び率を5年間で1.5倍に引き上げるという目標を設定。そのため、最先端技術の創造や教育・研究の向上など、国際競争力強化に向けた新たな施策を盛り込むとともに、成長力の底上げにもつながるIT革新とサービス産業の生産性向上、地域・中小企業の活性化などに重点的に取り組むとしている。これらの政策のバックボーンは詰まるところ、「生産性を向上させれば、国際競争力も強化され、ひいては(あるいはその両方により)経済成長を押し上げる」というロジックに集約されよう。
国際競争力をめぐる懸念・誤解・妄想
気鋭の経済学者である米プリンストン大学教授のポール・クルーグマンは、1990年代半ばに著書「良い経済学 悪い経済学」(日本経済新聞社)などで、「競争力に対する懸念は、実証的にみてほとんど根拠がない。国の競争力と企業の競争力を同じように考えるべきではない」「国の政策を考える際には、競争力は意味のない言葉だ。競争力という妄想にとらわれるのは、間違いでもあるし、危険でもある」と指摘し、大きな反響を呼んだ。
しかし、日本でも冒頭のような議論の場において、いまだに「国際競争力」という言葉が定義を示されないまま一人歩きしており、国と企業が明確に区別されることは驚くほど少ない。しかも、「国の競争力は生産性で決まる」「強い国際競争力が経済成長をもたらす」といった仮説が、検証することなく信じられている。成長力加速プログラムの一部である「ICT国際競争力懇談会」のワーキンググループや内閣官房関連など、私がかかわってきたいくつかの政府の委員会や研究会でも、勘違いをしているのではないかと思える議員や官僚、学者、企業幹部が少なくなかった。
現実には、「生産性」と「国際競争力」と「経済成長」の関係は、そう単純ではない。「生産性」を引き上げることは、デフレ下では逆の効果をもたらしかねない。また、「国際競争力」については、国の話と企業の話が混在しており、必ずしも「経済成長」に大きく寄与するものではない。誤解や思い込みに基づく議論は、不毛であるばかりか、時には有害でさえある。今回はそのことを明らかにしたい。
貿易は「勝ち負け」ではない
国レベルで国際競争力を計る基準と言えば、単純に考えれば、輸入以上に輸出できる能力、すなわち貿易収支(=輸出と輸入の差)ということになる。仮にMBAの知識しかなければ、これを企業でいう当期損益とみなすのかもしれない。
しかし、クルーグマンも指摘するように、国は企業と違い、貿易を通じて「勝つか負けるか」の競争をしているわけではない。国家間の貿易は、「比較優位」に基づく、互いを利する「交換」だ。各国は自国内の他の製品や産物に比べて効率よく生産できる製品・産物(比較優位財)を輸出し、それ以外は外国から輸入することで、それぞれより多くの製品・産物を消費することができる。
例えば、日本が得意の自動車やIT機器を輸出する一方、ガーナ共和国からはカカオ豆、中国から衣料品、豪州からは牛肉やワインを輸入する。国の問題を消費者個人に置き換えるのは正確さを欠くが、輸入品を衣食住に関するものと考えれば分かりやすいかもしれない。日本が輸出するものばかりでは、あなたの生活は成り立たないこと、輸入消費財のおかげで、生活が格段に豊かになっていることが実感できるはずだ。
言い換えると、労働力など生産資源に限りがあるなかで、各国がそれぞれの得意分野に特化して交易するほうが、自国だけですべてを生産するよりも効率的なのだ。貿易を通じた国際分業が双方の国を豊かにすることは、経済学の原理である。
しかも、わが国の輸出または輸入が国内総生産(GDP)に占める割合(名目)は、過去ざっと10%前後であり、貿易収支(財貨・サービスの純輸出)は、同1~2%にすぎない。内需の方が圧倒的に大きいのである。米国のような他の先進国であっても、この構造はさほど変わらない。したがって、国の生活水準や経済成長を決めている大部分は、世界市場での競争(外国との生産性伸び率の違い)ではなく、自国の生産性伸び率そのものであり、自国の競争環境や技術の変化といった、国内要因だ。「国際競争力」が経済成長をもたらすわけではない。
国レベルで国際競争力を論じるのはナンセンス
このように、国レベルで見れば国際競争力というのは、非常にあいまいで中身のない概念だ。したがって、IMD(国際経営開発研究所)などの国際機関が定期的に実施している「国際競争力ランキング」などにはほとんど意味がない。一喜一憂することはないのだ。
あえて言えば、ICT産業のような、知識集積効果などが働く特定の産業に限れば、歴史的経緯や政府の役割、産業の集積によって(これを外部経済が働くという)、相手国との間で有利な貿易パターンをある程度人為的に生み出せる場合もありうる。例えば、米国のシリコンバレーでは、企業間で生じる知識のスピルオーバーによりさまざまな好循環が生じ、さらなるポジティブ・フィードバックが機能するような産業基盤(資金、専門家人材、補完財の供給者など)が形成された。こうした場合、ICT産業の強みがさらに強化され、国全体の強みとして広がっていくことがある。
しかし、この場合でも、「国(日本)の国際競争力」と言わず、「どこどこ企業の国際競争力」と言うべきなのだ。また、ミクロの問題に国がどこまでタッチするかという、国の役割の問題、さらには産官学連携などにおける、国が行うべきマネジメントの問題が別途あるということを記しておこう。
生産性の問題も一筋縄ではいかない
成長力加速プログラムが強調する「生産性」向上の取り組みも、デフレ下では特に注意が必要だ。ミクロの視点で正しいことでも、それが合成されたマクロの世界では、必ずしも同じ理屈が通用しない「合成の誤謬(ごびゅう)」の問題が生じることがあるからだ。
労働生産性は、「産出量/労働投入量」で定義される。これを引き上げるには、分子を増やすか、分母を減らせばよい。しかし、マクロでみると、後者(分母を減らす)は時短、賃金カット、究極は人員削減を意味し、短期的には逆の効果になる(分母を減らしても、それ以上に分子も減ってしまう)可能性がある。デフレで私たちの給料が7年間ほど下がり続けてきた折、ますます購買意欲が委縮してモノが売れなくなり、分子(総需要)も減ってしまうためだ。
日本のGDPの最大部門は、その6割弱を占める家計(消費)である。したがって、デフレ下での生産性向上には、分子の増大、すなわち消費を刺激し(総需要を増やし)デフレから早く脱却(景気浮揚)することが、その後の経済成長にとって一番重要なことになる。特定産業の生産性を上げてもさほど効果はないので、マクロの視点で考えることがここでも大事だ。
それでも国際競争力が問題にされるのはなぜか
では、なぜこれほどまでに、国際競争力が問題にされるのか。米国クリントン政権下では、経済が振るわなかった93年、大統領自ら、グローバル市場での競争力を確保するための行動を起こそうと、国民の愛国心を呼び起こす演説をした。また、当時大統領上級顧問を務め、経済政策の専門家とみなされていたアイラ・マガジナーも、競争力というイデオロギーに凝り固まっていた。ちなみに、彼は有名なコンサルティング会社(ボストン・コンサルティング・グループ)に在席していたことがあり、企業戦略の概念を経済政策に応用していたことで有名だ。
この米国の様子は、今の日本にも当てはまらないか。日本は米国ほど他国に対し競争をむき出しにしているわけではない。しかし、政府や産業界が、経済の不振を国際競争力の問題としてすり替える、あるいはそこに打開策を求めようとしている様子に、かなり似ていないか。
今求められているのはデフレからの脱却
物事を妄信すると、問題の核心部分が見えなくなる。国際競争力の問題は、マクロの視点でとらえないと、全体最適の発想ができなくなる。問題を取り違えたり、経済成長に全くつながらない政策を打ち出してみたり、国内政策をゆがめてしまう危険さえあるのだ。
まず減税など財政からの強力な刺激策を動員し、デフレを止めること、そして新たに総需要(消費)を喚起できるような規制緩和・競争導入のフレームワークを整備することのほうが、国としてとらえどころのない国際競争力強化に取り組むより、効果ははるかに大きい。最近の日本経済は金利も多少上がり景況感が上向いており、不況だとは感じない人もいるかもしれない。その場合には、ちまたの失業者、ホームレス、給料カットの実態、フリーターの数などを想い起こしてほしい。これらはデフレ下で起こる典型的な社会問題でもある。経済政策の舵取りを誤れば、もっと深刻なデフレに戻ってしまいかねない状況があるのだ。
成長力加速プログラムやICT国際競争力懇談会でとりまとめたことは、以降「企業レベル」あるいは「特定産業レベル」の競争力問題への解を模索すると同時に、こうした国内のマクロ政策をセットで実施しなければ、効果は期待薄なのである。グローバル競争以前の問題として、最大の国内問題であるデフレを止め、景気を上向かせること。それができれば、もちろん、中長期的なスコープでは生産性を向上させることに意味が出てくる。しかし、国レベルの国際競争力を強化することとは関係がない。そのような国際競争力幻想は捨て去らねばならない。