IT時評:「次の一手を読む」
第11回「放送業界にも新陳代謝が必要だ」
出典:日本経済新聞「NIKKEI NET」 2007年1月29日
竹中平蔵前総務相による通信・放送改革のバトンは、菅義偉総務相に渡され、2006年10月、「ICT(情報通信技術)国際競争力懇談会」がスタートした。「通信・放送の融合」問題は、わが国にとって象徴的な意味を持つ。これが主要産業の新陳代謝を促せるか、滞留したまま時代に取り残されるかの問題であり、その成否は、わが国のさらなる経済成長の鍵を握り、国際競争力をも左右するからだ。
通信業界の規制緩和は進み、道半ばとはいえ、新旧交替など大きな進展もみられる。一方、放送業界は「最後の護送船団業界」と呼ばれるようになって久しい。
強固な地位を築き上げた日本の放送業界
(1)伝送設備とコンテンツという資源の保有 : 米国ではテレビ放送業界は、ネットワーク伝送機能の大半をケーブル会社に依存してしまった。このため両者の力関係において、テレビ局はケーブル会社に劣後することとなってしまった。一方、日本では、テレビ放送会社が伝送設備を自ら保有し、制作機能と併せ垂直統合型ビジネスモデルを構築したため、今日のような強固な地位を築くことができた。
(2)制作会社の育成スタンスまたは存在感 : 米国では当初弱小だった制作会社が、政府の保護の下、発展を遂げ、ABCを買収したディズニーやCBSを買収したバイアコムをはじめ、巨大なコンテンツ制作・集積の場(ハリウッド)ができあがった。これに対して日本では、ケーブル会社は限定地域(県単位)に押し込められ、テレビ電波の届かない難視聴エリアを補完するような役割にとどめられた。また、実質的に制作会社にあると思われる番組の著作権が、テレビ局側に帰属させられるなど、いまだにテレビ局が制作会社の首根っこを抑えている。
こうした違いを背景に、日本の放送業界(民放)はこれまで、この世の春を謳歌(おうか)し続けてきた。ある企業や業界が自身に有利になるよう外部環境や業界構造を構築すること自体は、悪いことではない。経営戦略の要諦(ようてい)とは、自らの周りに独占状況を築くことだからだ。放送(以降主に民放)業界の競合業者またはステークホルダー(利害関係者)は主にケーブル会社や制作会社、そして政府(国)だが、この枠内において、テレビ局は自身に有利になるよう産業構造を築き上げ、強固な地位を手にした。
もはや時代遅れの"約束"と保護政策
一方、国(総務省)は結果的には(今となっては)、テレビ局を過分に後押ししてきた。テレビ局も総務省も、積極的には新規参入を促さなかった。それには理由がある。社会に役立つサービス(一般の報道番組、臨時の災害報道、文化の向上など)をテレビ局が提供する代わりに、総務省は彼らを保護するという“約束”を両者の間で交わしたとされる。このあたりは、吉野次郎氏の著書「テレビはインターネットがなぜ嫌いなのか」(日経BP社)に詳しい。
言い換えると、国は放送業界を育成すると同時に、業界利害関係者の地位を固定化(≒保護)してしまったために、イノベーションが起こりにくい業界構造になり果ててしまった。しかし、この“約束”は、テレビに代わるような媒体が無かった時代の特別なものであったといえよう。
携帯電話やインターネットの急速な発展により、テレビの地位はもはや特別ではなくなった。「災害時」における携帯電話の役割は、1995年の阪神・淡路大震災発生時にも注目された。当時の携帯電話の人口普及率は34%程度にすぎなかった。2007年度末には人口普及率で75%ほど、世帯普及率で90%に達する見込みであることを考えると、テレビの代替メディアとして十分な域に達しているといえるだろう。実際、国民にとっては「一般報道」の内容を、携帯電話やパソコンを通じ、いち早くインターネットで知る場面が日増しに増えている。
「文化の向上」にしても、それをテレビが促しているとは到底思えない。むしろ低俗な番組で、公共の電波を埋め尽くしている感がある。広告主をスポンサー、特定層(主に20歳~35歳)をテレビCMのターゲットとする現状の番組づくりには、おのずと偏りが生じる。さすがにその低俗ぶりを嘆く総務省幹部も多いのではないか。視聴者側の問題もあるが、民放テレビ局の番組のくだらなさは、もはや「文化の退廃」に近いものがある。
「新陳代謝」なくして成長なし
所轄府省幹部の間では、近く「放送持ち株会社」の設立を解禁する「放送法の大改正」をもくろんでいる節がある。従来の外資規制に加え、国内の特定企業・個人に対しても、放送持ち株会社への出資比率は20%未満に制限される。新興IT企業(あるいは既存の通信会社)を排除する法改正だ。
この背景には、ホリエモン騒動(ライブドアによるニッポン放送やフジテレビとの攻防)や、楽天によるTBSとの経営統合の動きなどがある。新参者を苦々しく思っているゆえのことだろう。しかし、これでは放送業界を今後もいたずらに保護し、さらに固定化することとなる。このようなことでよいのだろうか。
いまわが国に必要なことは、放送業界にも新陳代謝を促すことであるはずだ。「通信・放送の融合」における「通信」市場では、旧来の固定電話サービスから携帯電話サービスが生まれ、最近では無線を用いた新たなサービスが次々と登場している。競争も進んでおり、価格は下がり、全体として通信市場は拡大基調にあるといえよう。一方、放送市場、特に民放(地上波)では新規参入はなく、市場のパイも飽和している。米国などでは放送(ケーブル)会社とメディア企業間のM&Aを通じたダイナミックな動き(新陳代謝)が見られ、メディア・コングロマリット(複合企業体)も誕生している。
産業の新旧企業の新陳代謝が進まないことが、わが国における長い不況の主因だとの研究もあるようだ。安倍政権の経済成長を促す「上げ潮政策」の柱は、TFP(全要素生産性)の向上と言い換えてよいだろう。技術進歩、IT普及度合い、イノベーションなどが、TFP向上となって現れる。新陳代謝とTFP向上には密接な関係があるはずだ。放送業界における新陳代謝促進には、保護政策を葬り去り、新規参入を促することだ。2000年前の昔も今も、「新しい葡萄種(新旧交替の芽)には、新しい皮袋(法制度・仕組み)」が必要なのだ。
テレビ局に突きつけられた「忘却と借用」のジレンマ
当のテレビ局自身は最近、新たな試みを始めている。例えば、インターネット上の動画共有サービスとして最近ブレイクした米国の「ユーチューブ(YouTube)」に対抗すべく、同様なサービスである「ワッチミー!TV」(フジテレビ)などの動きがでてきた。しかし、上述のような業界構造のままでは、小手先に終始する可能性が高い。
テレビ局はそのビジネスモデルを巡る、「忘却と借用」(米ダートマス大学教授ビジャイ・ゴビンダラジャン)という二律背反の問題を突きつけられているといえよう。新たなイノベーションを生み出すには、「忘却」と「借用」のバランスをとることが重要だ。「忘却」とは、既存事業の事業定義(顧客、提供価値、提供方法)や既成概念(競争力、必要資源に関する概念)を捨てること。一方、「借用」とは、新興の独立系企業に比べ、既存事業の資源を活用できる優位性を活用することだ。
視聴率頼みの広告収入を柱とする既存のビジネスモデルを「忘却」しない限り、インターネット時代のいまのビジネス競争環境を乗り越えることは難しい。「視聴率」はもはや当てにならない。CMが流れているときは、トイレに立つときのようなもので、CMは実質視られていない。視聴率という危うい物差しの上に、いまのビジネスが成立している。しかし、この幻想(=まやかし)はいつまでも続かない。
一方で、放送会社自身の経営リソース(設備資産、コンテンツ制作力、ブランドなど)を「借用」しない手はない。国民の財産でもある電波を使った放送設備は、光ファイバーに置き換えることもできる。そうなれば電波の有効活用ができる。モバイル・ワイヤレスビジネスの広がりの可能性は大きい。コンテンツを送り届ける伝送媒体が問われなくなる時代がそこまで来ている。必然的に、最大の経営リソースとして後に残るのは、コンテンツ制作能力だけとなる。この能力を前提にしたインターネット時代への本格的な準備の差が、今後の競争優位を左右するだろう。
「忘却と借用」間の経営上の解を見つけることは、そう簡単ではない。民放会社は果たしてそれができるのか。今後の舵取りを見誤ると、今の地位からの転落が待ち受けているだけだ。保護産業がいつまでも続いた例は他にない。今年の放送メディア業界を引き続きウォッチしたい。