"IT革命第2幕"を勝ち抜くために
第49回「"新・この国のかたち" 【3】通信と放送の垣根論争の行方(下)」
出典:Nikkei Net 「BizPlus」 2004年6月24日
第48回では、「次々に登場する通信と放送の融合ケース」、「インフラ(伝送路)の共通化が望ましい」、および「双方向コミュニケーションに将来の市場性はないか」について概観してみた。今回は、「行方の鍵を握るのは著作権処理型の管理のあり方」や「拝借(Rip)型コンテンツの流通」について考えてみたい。
(1)行方の鍵を握るのは著作権処理型の管理のあり方
コンテンツに関する著作権問題は、今後の通信と放送の行方を見通す上で重要な問題だ。基本的なスタンスは次の通りである。
【A】現行著作権法を尊重、つまり著作者または著作権者の著作物(コンテンツ)の取り扱いにおいて、両者の利益を損なうことのないよう厳格な著作権処理が施されるべきであること。
【B】一方で、緩やかな著作権の管理のあり方、すなわち管理や処理が緩やかであることで、時代の潮流に合致し、より大きな経済的な利得を関連業界全体が享受できる術を模索すべきではないかということ。
前者【A】については多くが既に語られているので、本稿ではコンテンツ(情報の中身)とコンテナー(情報の容器)の違いや、最近事件として報じられたWinnyのケースに触れたい。
コンテナーに関する新旧入れ替わりの代表的なケースとして、次のようなものが挙げられる。
(a)音楽レコードやレコード針あるいはカセットテープは、CD(コンパクトディスク)に駆逐された。真空管アンプでアナログのレコードを楽しむユーザーは一部のマニアに留まる。
(b)また、当時は画期的で便利であったFD(フロッピーディスク)やMO(Magneto-Optical disk)が、USB(Universal Serial Bus)メモリに代替もしくは駆逐される日も遠くないだろう。
これら新旧入れ替わりにおいて、情報の中身(コンテンツ)についての著作権の問題はない。前者(a)では、情報の容器(コンテナー)が変わっただけだ。従って実質、著作権ビジネスを行う音楽業界が一時的な混乱を除けば大きな影響を被ったことはなかったであろう。また後者(b)においても、媒体(メディア)というコンテナーが替わっただけであり、その利便性と記憶容量の大きさは格段の差があるものの(FDの1MバイトがUSBメモリであれば今や256M バイトは普通)、メモリメーカーが損失を被った訳でもなかろう。
もちろん両者において技術革新の流れにふるい落とされ、新旧交代の機会に需要をうまく捉えることのできなかった供給者は淘汰される。これは単なる市場競争のルール(ゲーム)の帰結である。
問題は、盗人行為である。例えば、Winnyのケースである。これは、供給者側(ソフト作成者)にも需要側(最終利用者)にもいえる。現行の著作権を破壊せんとしたWinny作成者がそのソフトを配布したのだから、その罪が問われるのは当然である。この場合、作成者と配布者は同じであるため、その犯罪性はシンプルである。両者が同一でない場合、例えば、Winny技術そのものは別のビジネスモデルに組み込まれるなどして、社会・経済面で、すなわち消費者の効用を増進するものであれば何ら問題ない。一方、そのソフトの犯罪性を知っている配布者がそれを配布した(世間に撒き散らした)場合、その配布者の罪が問われるべきである。
さらに、最終利用者もその犯罪性(現行著作権法を犯すこと)を知った上での利用、つまり音楽コンテンツなどのファイル交換などを行った場合には、それが私的利用の域に留まるものであっても罰則対象であろう。間違っているだろうか。
(2)拝借(Rip)型コンテンツの流通
後者【B】はどうか。もっと緩やかな流通形態または管理形態とすることで、業界のイノベーションが進展することもあるのではないか。もちろん、"緩やか"ということが盗人行為であってはいけない。
文化的価値のあるコンテンツは、著作者の才覚と努力の賜物であり、通常の経済原則のみではかられるべきではない。文化と経済は別ものであるからだ。著作者には相当の敬意(リスペクト)が払われるべきである。その上で「Rip(拝借する), mix(自分のものと混ぜる), burn(媒体に焼き付けて流通させる)」となるべきであり、この一連の流れがイノベーションを生起させる。これはジャズなどの黒人音楽の隆盛プロセスでもある。ジャズが隆盛したことで、その作曲者やその演奏者には経済的な恩恵が大いにもたらされた。この例は、博報堂フォーサイトチームが言及しているものでもある。
(注)◆ 「Rip, mix, burn」:米国アップルコンピュータ社が、CD-RWドライブとiTunesを搭載したiMacを発表した際に、CDを"吸出し、編曲し、焼き付ける" ことで、オリジナルミュージックCDの作成が可能になることを示した。これがオリジナルな意味である。
つまり、1つのジャズ音楽(コンテンツ)が、オリジナル作成者へのリスペクトのもと他人に流用されることで、次々と新たな(あるいは少しだけ工夫が乗った)コンテンツまたはジャンルが生み出され、正のフィードバックループを形成するに至った。ここにヒントがあるのではないだろうか。
このプロセスの例に見られるものは、ゲーム理論風に言えば、お互い相手を出し抜かない(裏切らない)ことで、囚人のジレンマの状態に陥ることなく、ともに大きな利得を手にすること、となる。つまり、これは一定のコミュニティの中でともに信頼(Trust)感が醸成されている時に初めて成り立つ。21世紀は国を超え、人種を超えたトランスナショナルな世界になることが予見される。そこは、異なる国の都市と都市、あるいはコミュニティグループ同士が結びつく世界であろう。そこで生まれる音楽、絵画、文化などの共通的価値感を基にしたコンテンツがやり取りされる。互いのものを拝借(Rip)する型のコンテンツが流通する世界である。このような緩やかな流通・管理形態を許容する仕組みは幻想的であろうか。
流通・管理の仕方を管理することで、新しい著作権処理の仕方が成り立つのではないか。DVDなどにはコンテンツ(本編)に加え、演奏者、制作者などの関係者についてのメタデータ(属性編)が含まれている。このようなデジタルメディアの流通においては、コンテンツがより一層自由に流通される。
こうなれば、これまでとは異なった市場を創出できる。その市場は国内に限らない。とりわけ漢字文化や親近感を相互に持ちやすい音楽や映画などの素材を共有した、東アジア地域でのグローカルまたはトランスローカルなコンテンツの流通をビジネスにできる可能性がありそうだ。期待を込めて、こうした可能性を模索することの意味を強調しておきたい。読者はどのようにお考えだろうか。
上・中・下にわたり「"新・この国のかたち"【3】通信と放送の垣根論争の行方」について考えてみた。"この国のかたち"を創るにはこの垣根論争に早く決着をつける必要がある。次回では【3】の「中」(第48回)で示した「インフラ(伝送路)の共通化が望ましい」という点について、「【4】情報通信インフラ供給会社のガバナンス」としてさらに踏み込みたい。経済波及効果ならず投資効果の点で、投入量よりも効果の方が大きい場合には、情報通信インフラを国からのバックアップを受けたかたちで整備する意味が出てくるのだ。