"IT革命第2幕"を勝ち抜くために
第47回「"新・この国のかたち" 【3】通信と放送の垣根論争の行方(上)」
出典:Nikkei Net 「BizPlus」 2004年6月10日
第46回では、コモンズの上のダイナミックな競争について概観してみた。今回は、「通信と放送の垣根論争の行方」について考えてみたい。最新の技術革新により「放送」そのものは、「通信」の伝送路で可能である。可能という意味は経済性の観点からも、という意味だ。コンテンツの送信という観点からは、放送は通信の一形態とみなすことができる。いまだ両者の間に法制度上の垣根があることは、経済合理性、ひいては消費者または国民への利便性の観点からは不自然である。
(1)通信産業での目覚しい進展
情報通信技術(IT)の進歩のおかげで、広帯域(高速)かつ高品質の映像までが低価格で消費者に提供されるようになってきた。テレビ映像やビデオ映像ぐらいは、通信網を使ってパソコン(PC)に映し出すことはそう難しいことではない。2Mbps程度の帯域が確保されているクローズな、つまり他ネットワークからのノイズなどの影響を受けにくい通信網であれば実用に耐えうる。例えば、ソフトバンクBBの「BBケーブル」では、何の遜色も無くハリウッドなどの映像を楽しむことができる。筆者は実際「BBケーブル」を体験してみた。また、実質数十Mbpsの帯域をもつFTTH(Fiber To The Home:家庭までの光ファイバー)網であれば、なんら問題はない。
(2)悠長な放送産業とそれを打開する水平分離
それに引き換え、放送市場の動きは何と悠長なことだろうか。
放送市場においては、通信市場ほどのダイナミックな競争がない。少なくともわが国にはない。米・英・ドイツなどではダイナミックな展開が進んでいる。わが国の場合、地上放送はキー局を中心にローカル局はこれまで通り、今手にしている権益を守ろうとしている。衛星放送市場においても、JSATと宇宙通信の 2社による寡占状態が続いている。もちろん、通信市場においても、レガシー(旧来)キャリアであるNTTグループやKDDIなどにおいても同様の行動原理が働いている。既得権益を持つ者はそれを守ることが大概ビジネスゲームの必定である。
(注)◆「キー局」:関東広域圏を放送対象地域として放送を行う地上テレビジョン放送局のこと。◆「ローカル局」:キー局以外の地上テレビジョン放送局のこと。
放送市場での今の問題は、ソフトバンクBBのような挑戦者が出現しないことだろう。ただ、放送市場と通信市場とでは同じアナロジーを置けない。電波(周波数)の希少性ゆえに、消費者に対して一定の品質を保持したサービスを提供するためには、それなりの条件を満たしていることが求められる。つまり規制当局からの免許を取り付ける必要がある。従って、自ずと参入企業数には限りができ、制度上、実質寡占市場となる。周波数の再分配を行えば、参入数を増やしより競争的な市場をつくることができる。
放送市場では、現在、放送設備(ハード)と番組などのコンテンツ制作(ソフト)が一体かつ垂直的に行われている。ここが通信市場とは異なる。通信の場合、通信網と情報加工などのビジネス上の主要機能が、必ずしも特定の企業から一体提供されているわけではなく、アンバンドリング(分離)されている。ソフトバンクBBやイーアクセスなどの新興企業トップ(孫正義社長や千本倖生社長)が、政府の委員会などでうるさく言って、規制緩和を実現したからだ。その点、放送市場はハードとソフトの分離が不十分である。
なぜアンバンドリングや水平分離を主張するのか。それは、次の2つの点でイノベーションが促進され、ひいては消費者への利便を増すことになり、消費が増えればその産業も発展するからである。当該市場がより成長するからだ。
【a】市場参入者が多様な方がより競争的になる。
【b】上下またはハード・ソフトが分離されていれば、ハードとソフトにおいてそれぞれのサービスの組み合わせも可能になる。
つまり、参入者の数が増し、かつ分離されたハードとソフト上での経営資源の組み合わせによりサービスの種類が増大する。携帯電話市場を考えればよく分かる。携帯電話会社のハード層(通信網およびその上のプラットフォーム)とは別にソフト層(各種アプリケーションやコンテンツ)が分離されているため、特にソフト層においてさまざまな参入者が出現している。CP(コンテンツプロバイダー)のインデックス社やサイバード社などは、この領域で躍進している。また、携帯電話サービスは実に多様である。着メロ、eコマース、ネット広告、ネットゲームなどの市場は拡大し続けている。
放送市場をハードとソフト分野に分離し、光ファイバーや無線通信(携帯電話や無線LANなど)との通信インフラ(ハード)のオプションを最終利用者へ与えることで、その利便性は大いに高まる。放送コンテンツも通信インフラで流せるようにする。NECの最新の成果である、1,000人が同時に参加できる双方向システムを用いれば大学のインターネット講義や電子株主総会もいよいよ本格化するだろう。
一方、わが国での放送コンテンツの最右翼は、やはりNHKが制作したものだろう。公共放送であるNHKには膨大なコンテンツ資産がある。また、わが国ではトップクラスの番組制作能力がある。NHKのハード(放送設備)とソフト(番組制作)の分離が行われると、ブロードバンド産業に不可欠なコンテンツの供給が大いに促進されるだろう。自ずと通信と放送の融合が進む。ここで注意が必要だ。この融合を進めることそのものが目的ではなく、利用者の立場からパソコンでもテレビでも、臨場感豊かな映像が楽しめる、ビジネスにも役立つ映像を取り込んだコミュニケーションが促進されることが目的であり、これが期待されている。これを適えようとすれば、自ずと融合が進む。逆にこの融合を阻むものがあれば変更する必要がある。
(3)放送に求められる旧来の枠組みと新たなビジネスモデル
かくして現在のブロードバンド産業において、障害になっているのは、放送分野のハードとソフトの分離問題である。もちろんこれだけではない。いろいろある。制度を変更すると、既得権益が失われることだけがクローズアップされ、どうしても守りに入る。しかし歴史は証明している。技術革新や世の中のもっと大きな流れを直視しなくてはならない。それは市場の声である。正確にいうと潜在性のある需要を引き出すこと。"プロダクトアウト"という言葉が最近流行っているようだが、それはこれを供給側から言い換えたものに過ぎない。市場の声を聞いててもちっとも儲からないという声も聞くが、それは勘違いである。市場の声にはそれなりの需要があり、それを引き出す努力が不十分であったか、あるいは大きな需要を引き出してもその企業が他社との間で競争優位性を確立できず、惨めなポジションに甘んじざるを得なかったからの結果である。要するにやり方が下手なだけだ。
例えば、安価にブロードバンドコミュニケーションができるようになることで、生活やビジネスに大きな利便をもたらす。これは市場の声だ。これらに逆行すると置いていかれる。最後には廃業に追いやられる(市場からの退出を迫られる)。放送事業者、とくにローカル局においても同様だ。変わらなくてはいけない。
2011年を目標に地上デジタルTV放送への完全切り替えが目下なされており、東京・秋葉原の量販店などでは、新・三種の神器のひとつである薄型テレビが今売れている。しかし、必ずしもこの動き(放送政策)との相関があるとも思えない。つまり、まだ7年も先のことであるし、消費者にとっては単なる買い替え需要に過ぎないとも考えられる。放送市場は依然、大きなブレイクスルーやイノベーションが起きそうにない。産業やビジネスの基本的な枠組みが変わっていないのだから当たり前だ。
放送のハード・ソフト分離問題は、既に次のような議論がなされている。
放送では「番組編集準則」などの規律を課されている。ただ「言論の自由」を守るため規制を最小限にとどめる必要があった。前述の通り、放送事業には周波数の稀少性と社会的影響力などの特殊事情があった。したがって、規制は主としてハードを対象にし、ソフトは緩やかにするという政策的見地からも、ハードとソフトを同一事業体が併せて提供することが、常態であった。しかしその後、通信衛星経由で放送番組を配信し、それをCATV局が受信することに加え、一般家庭でもアンテナで受信できるようになった。こうしてハードとソフトの分離が実際のものとなった。技術革新と市場の需要がそうさせたわけだ。そして、 1989年放送法改正により委託放送事業者(ソフト)と受託放送事業者(ハード)という機能分離ができるようになった。
しかし、肝心の地上波テレビのデジタル化に当たっては、衛星放送では行われた別法人としての受託放送事業者設立には至っていない。つまり、地上デジタル TV放送には6MHz(1チャンネル分)もの広帯域を割り当てられているにもかかわらず、分離前と変わらないビジネススキームになっている。これではイノベーションも期待薄だ。サービスも変わり映えするとも思えない。
現在の民放ではCM付き無料放送ビジネスモデルが基本であるが、2005年度にもWOWOWやNHKが始めるとされる蓄積型放送では、これまで難しかった本格的な有料放送の道が開けよう。これなら利用者がたくさん付くだろう。400時間も番組を録画できるDVDレコーダーの普及により、視聴者の好みに応じて、リアルタイムではなく自分の生活スタイルに合わせて好きな時間に番組を楽しむことができる。これはニーズがあるだろう。時代は"パーソナル"がキーワードになってきているからだ。
余談ではあるが筆者は原稿をよく休日のタリーズかスターバックスで書く。後者では決まって、「ダブル・アメリカーノ、お湯7割、紙カップで」ということになる。たかがコーヒー1杯を注文するのにと思われるだろうが、されどコーヒー1杯ということになる。香りのよいアメリカンのフレッシュなコーヒーで、それを2倍の濃度にして、かつ通常のお湯の量を3割減らしてさらに濃くする。紙カップにはふたが付いているのでさめにくい。この店ではこれが好みだ(豆は前者の店の方が断然うまいが)。コーヒーショップの客たちも、それこそさまざまな注文の仕方をしている。また店員は常連客の味(注文の仕方)を覚えているものだ。価格は少々高くてもそれでまた足を運ぶ。こうしたサービスが受けている。これがビジネス(商売)というものだ。それに比べると、今の放送コンテンツは旧態依然であることが分かるだろう。
(4)求められるているのはキラーコンテンツではなく"バリューコンテンツ"
どこのチャネルも低俗で画一で見たくもない放送コンテンツを見せられるのは耐え難いものだ。筆者はここずっと、民放番組をほとんど見ない。見たい番組がないからだ。ちゃんと視聴料を支払っているNHKの特別番組やスポーツ番組をたまに見るくらいだ。民放では、見ても天気予報か即時性の高い時事ニュースぐらいである。読書をしたり音楽を聞いたりしている方がよっぽど豊かな生活を満喫できる。それに子供にも見せたい番組も少ない。長崎県佐世保市で小学生が同級生を殺してしまった事件が起きた。インターネットや携帯電話が、無防備な子供にとって害毒でしかないのは明らかだ。メディアというのは、時に人々を麻薬のようにつなぎとめる。しかし、劣悪有害なコンテンツが蔓延するなか、放送事業者のみを責めることもできない。その奴隷(スレーブ)になり果てている視聴者もいけない。
本来、商品やサービスを購入しその価値を享受するには、対価を支払うべきである。見たくもない広告に甘んじてそれで低俗な番組を見せられる。敗戦後60 年も経とうしているなか、二重に嫌なことを拒否する視聴者もかなり増えているのではないか。これも市場の声だろう。対価を払うからこそ、そのコンテンツにもこだわりを持つ。もはや、規格化された大量生産消費型の社会ではない。視聴者が主人(マスター)となって、つまり番組を自ら選んで、楽しむタイプの蓄積型放送は、私達の社会をより健全にするのに一役買うと期待したい。それには、豊富な質の高いコンテンツが求められる。今の日本の放送業界にはこれを生み出す力がない。キラーコンテンツがないのは、コンテンツ供給力が不足しているからだ。
一方、パーソナル化が進んでいるのだから、多くの大衆にとってキラーとなるような何かを求めること自体がおかしいともいえる。問題の設定の仕方が間違っているのである。これからは、キラーではなく、視聴者各人にとって価値のある"バリューコンテンツ"だろう。それは、スポーツでも芸術作品でもよい。歴史ものやサイエンスもの、博物もの、大学の講義、地域自治体での議会の様子などなど。新たなバリューコンテンツを発掘するのだ。加えて、これらコンテンツを視聴者各人が好きなように組み合わせて楽しめるようにする。ニュースや天気予報など以外ではリアルタイムである必要は必ずしもない。
では、バリューコンテンツをいかに生み出すか。これは制度または仕組みの問題である。旧い時代に設計された制度が桎梏となっている(行動の自由をさまたげている)のだ。パーソナルな視聴者のニーズをとらえるには、コンテンツ制作側(委託放送事業者)が、ターゲットとする視聴者に対して、その放送網以外の提供手段(ハード)をもつことが不可欠となる。携帯電話でコンテンツを受ける、あるいはパソコン、プレステ(PS2)で受ける。コンテンツにおいても放送番組だけではなく、地域特有の情報(天気予報、地元の大学カリキュラム、道路トラフィックなど)を自在にキャッチできる。こうした時代の流れに合致するためにも、ハードとソフトの分離は重要なのだ。
次回では、「次々に登場する通信と放送の融合ケース」について、そして「インフラ(伝送路)の共通化が望ましい」こと、および「双方向コミュニケーションに将来の市場性はないか」ということについて述べたい。