オピニオン
親をやめる
2025年07月23日 井上岳一
コロナ禍をきっかけに、小四の息子が学校に行かなくなった。それまでは他人事だった不登校が、突然、我が家の問題となった。それで、やはり子どもが不登校だったという友人に相談したところ、彼は、「僕は親をやめることにしたんだよ」と言って自分の経験を話してくれた。
「親をやめる」と言っても、育児を放棄したという意味ではない。親という役割、親であろうという気持ちを捨てたということだ。親は子どもにとってはウザい存在だ。ウザい奴の話を聞こうなんて子どもは思わない。だけど、仲間の言うことは聞く。だから、仲間と認定してもらえるような関係になれたらいい。それに仲間だと思えば、親だっていちいち注意せず、本当に大切なことしか子どもには言わなくなる。だから、親子でなく、双方が仲間と思えるような関係になったらいい。それが彼が目指したことだった。
確かに、自分の子だと思うと、この子をちゃんとさせるのは親である自分の責任だと力む。それで思わず注意したり、あれはダメ、これはするなと禁止したりする。だが、それは息子にとっては自己を否定されることを意味する。否定され続けたら、誰だって生きる気力はなくなる。じゃあ、褒めれば良いかと言えば、そういうことでもない。否定するのも褒めるのも、どちらも親の思うとおりに子を育てたい、という親の欲望の表れだ。その親の欲望が子どもをスポイルする。
友人の話を聞いて、そのことに気づかされた。だから自分も親であることをやめようと思った。とは言え、そう簡単にはいくはずもない。とにかく否定をやめ、禁止をやめ、指示をやめよう。朝起こすのもやめよう。何も言わず、介入せず、彼の好きにさせよう。ゲームをどれだけしても、何時に寝ても、何時に起きても、何も言わないでいよう。そう妻とも話し合い、とにかく彼の好きにさせることにした。
当然、生活は乱れに乱れた。習い事も全部やめ、寝ても覚めてもゲームという生活になり、昼夜逆転し、風呂も入らず、髪も切らずで、一時期、息子は完全な引きこもり状態になった。とにかく好きにさせようと腹を括ってはいたものの、さすがにこれはまずいんじゃないか?と内心は戦々恐々としていた。毎日が葛藤の連続だった。でも、大丈夫、彼の内なる力を信じよう。そう念じ続けた。
そんな時期がどれくらい続いただろうか。いつの頃からか息子の顔が柔らかくなり、よく笑うようになった。向こうから積極的に話かけてくれるようにもなり、あれをしたい、あそこにいきたい、これを食べたいなど、自分のしたいことを言うようにもなった。家に引きこもってゲーム三昧、YouTube三昧の生活に飽き、人や世の中への興味がわいてきたようだ。自分から外に出かけるようになり、家族旅行にも行くようになった。登山に行ったり、自転車で琵琶湖一周をしたりもするようになった。
そうやって小学校生活は終わり、中学生になり、どうするのかと思ったら、中学校入学を機に、不登校生活は忽然と終わりを告げた。4年生の途中からだから、正味2年半くらいだろうか。今も起きられなかったり、だるいと行って休んだりする日もあるが、基本、毎日行っている。部活にも参加し、学校生活を楽しんでいるようだ。
中学生になる直前だったろうか。急に息子が僕のことを「岳(たけ)ちゃん」と呼ぶようになった。昔は「パパ」だったが、それが「父ちゃん」となり、「父(ちち)」となって、その後、話をしない時期がしばらく続いて、突然の「岳ちゃん」である。息子の中で何がきっかけになったのかわからないが、やっと息子が仲間と認めてくれたということなのだろう。「親をやめた」と僕に教えてくれた友人も、子どもから「タカシ」と呼び捨てにされるようになったと言っていたが、親から仲間への移行は、呼称の変化として現れるのかもしれない。
親をやめることでやめたのは、息子を評価することだ。それまでは世の中の基準や自分の基準に照らして息子を評価していたと思う。その評価がどれだけ息子の人格を傷つけ、やる気を殺いでいたのか。評価=ジャッジには、それだけの破壊力がある。息子はそのことを身を持って教えてくれた。
僕達は学校や職場で常に評価にさらされている。だから評価し、評価されることが当たり前になっている。そして、それを家庭内にも持ち込んでしまっている。不登校が増えている背景には、学校や職場で評価され続けてきた親が、その評価基準を家庭内に持ち込んで、我が子を評価していることがあるのだと思う。評価の連鎖が、子ども達を息苦しくさせ、生きる力を奪っているのである。もう評価の連鎖で子ども達を縛りつけることをやめよう。そのための第一歩が、親をやめることだ。
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※記事は執筆者の個人的見解であり、日本総研の公式見解を示すものではありません。