オピニオン
死に向かう方がご自身の想いを発する機会を持つこと
2025年07月08日 齊木大
先月、仕事でつきあいのある方が亡くなられた。まだ60歳代後半とまだ若く、末期癌だった。彼は、高齢者福祉の分野で多くの発信をされてきた方であり、介護やケアマネジメントの質を高めることや地域包括ケアシステムの構築や発展など、様々なテーマで多くの意見を交換し、シンポジウムや研究会でも議論した。システムや制度よりもむしろ、実務の視点、なかでも介護現場で働く人や組織のキャパシティビルディングに目を向け、人手不足環境での介護職の負担にも配慮しながら、今後の更なる福祉ニーズの高まりを見据えて、どうやったらより良い介護、より良いケアマネジメントを普及・定着できるかに心を砕き、丁寧な発信を精力的に重ねた方だった。あらためてご冥福をお祈りしたい。
さて、このメッセージでは、死に向かう最期の時期の送り方、なかでもご本人からの発信から気づかされたことを取り上げたい。彼は研究者であり執筆家であり多くの講演・研修をしていたのでもともとたくさんの発信をしていたが、余命を告げられてからは、これまでの福祉分野で「支援する側の専門職の視点」から一転して「当事者の視点」での発信を増やした。彼との会話で印象に残っているのは、「どれだけ丁寧に現場を見てきても、それでもやはり、当事者の立場になってはじめて見える世界、感覚というものがある」ということ。とても小さなことだが、彼に教えてもらった一例を挙げる。
これからの日本は「多死」の時代に入る。その備えとして、死に向かう時期をどのように送りたいか何を大切にしたいかなど自分の考えを言葉にし、自分にとってキーとなる方々に伝えておくことが重要とされる。厚生労働省はこれを「人生会議」と呼び、終末期を本人の意思を汲んだものとするため推奨している。この「人生会議」を推奨するメッセージに「もしものときに備えて」、「自分が望む医療やケアについて言葉にして伝えましょう」といったものがある。一読しても違和感を抱く人は少ないのではないか。しかし、当事者となった彼は違和感を抱いた。「高齢者を考えれば、人は誰しも死に向かう。だから『もしも』ではなく『いつか』と言うべきだ」、「症状や余命を告げられたとき、自分の希望が見つからなかった。ただ、戸惑いと迷いがあり、分からない。『希望を言え』というのは専門職の論理に感じた」そうだ。こうして言葉にされてみると、いずれも極めて当然に感じられる。
彼はもともと発信者であり、言葉にする力があった。だから私も、当事者だからこそ感じられたことを知ることができた。しかし、言葉にする力が必ずしも強くない多くの当事者、例えば高齢者が抱く感覚を捉えられているだろうか。身寄りのない方や認知症のある方も増える。医療やケアの方針を決めるときだけ、突然、その方の意向を確認しようと思っても捉え切れるものではない。日常的に、あるいはほんの些細な感情・感想をお聞きする取り組みが必要であり、それはご本人が自ら想いを発する機会を豊かにする方向で実現すべきものだ。
今年2月、彼は「生前セミナー」と称して、関わりのあった多くの方々を対象とした会合を開催した。彼の妻をはじめ周囲で応援する方々が力を合わせて対面・オンラインのハイブリッドで数百人が参加する素晴らしい会だった。この会に対する彼の想いの一つ、自分がこれまでに培ってきたネットワークの人どうしが出会って新たな取り組みが生まれることにあった。私も、この会で初めて接点を持った方々もある。そこで彼の想いを私なりに受けとめ、ご本人が想いを発する機会を増やすことに私も取り組みたいと考えている。その際、周りが聞きたいことを聞くのではなく、あくまでご本人が発しやすい工夫とすることが重要だ。既にいくつかの事例もあるが、彼から頂いた学びを活かしこれから更に多くの実践を生み出していきたい。
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※記事は執筆者の個人的見解であり、日本総研の公式見解を示すものではありません。