日本における排出権取引制度の本格的な検討は、2008年2月の経済産業省と経団連の方向転換から始まった。官邸・経済産業省・環境省のそれぞれで検討を進めた結果、2008年5月には、環境省から4つの試案が示され(参考:クローズアップテーマコラム「【2008/5/19】環境省より国内排出権取引制度の試案が示されました」)、経済産業省からは、厳しい条件付きではあるが、排出権取引制度の導入を検討する旨の報告書骨子が示された。
このように排出権取引制度の導入に向けて様々な動きが始まりつつある。日本においては、これまで排出権取引制度について、踏み込んだ議論がされていないため、中期的な温室効果ガス排出削減のための手法としての妥当性の様な政策寄りの検討から、誰がどの程度の損・得になるのかと言った企業への影響度までの幅広い論点についての検討が同時並行で進められている。そのため、排出権取引制度が日本全体の中期的な温室効果ガス排出削減において、どの部分を担うのか、と言った議論が深まらないままに排出権取引制度を導入したい「官邸・環境省」と導入したくない「経済産業省・経団連」が綱引きを繰り広げるだけとなっている。
企業の側に立てば、追加的なコストが発生する排出権取引制度は、出来れば避けたい規制である。しかも自分が対象となるのか否かも不透明なまま、制度を導入する・しないの議論が進んでいる事から、無条件に反対する心情は理解出来る。しかし、中期的な温室効果ガス排出削減において、本当に排出権取引制度が必要なのか、必要であるならそれはどのような効果を期待して導入するのかについて、各企業に一定の理解があった上で賛成・反対をすべきである。
今回のコラムでは、排出権取引制度に関する議論を正しく理解するために、日本において排出権取引制度はどのような「かたち」で実施される可能性があるのか、企業が最も関心を持っている「排出権取引制度の対象となる事業所はどこか?」を切り口に解説する。
具体的には、「地球温暖化対策の推進に関する法律(以後、温対法とする)」に基づいて、先日公開された、2006年度の事業所別の温室効果ガス排出量データ(注1)を用いて、実効性・カバー範囲の面から「排出権取引制度の対象となる事業所」について考える事にする。
1. 規制区分・排出規模による分析
温対法は、大量に温室効果ガスを排出している事業者に、温室効果ガス排出量の算定・報告を義務付けた制度である。温室効果ガス排出量の報告は、自己申告ベースではあるが、世界的に見ても高いカバー範囲となっており、温対法に基づいて公開された事業所別の温室効果ガス排出量データは、14,225事業所・7,505社分となっている。具体的な公開対象は、「エネルギーの使用の合理化に関する法律(以後、省エネ法とする)」の規制対象事業所等であり、概要は以下の通りである。
区分 | 概要 | 事業所数 |
省エネ法における、第一種エネルギー指定管理工場 | 年間エネルギー使用量が原油換算3,000KL以上の事業所 | 7,586 |
省エネ法における、第二種エネルギー指定管理工場 | 年間エネルギー使用量が原油換算1,500KL以上・3,000KL未満の事業所 | 6,376 |
その他 | エネルギー起源のCO2以外の温室効果ガスをCO2換算3,000トン以上排出している事業所 | 263 |
一般的に第一種エネルギー指定管理工場(以後、一種工場)は、発電所・製鉄所・化学工場・セメント工場等の比較的規模の大きい工場であり、第二種エネルギー指定管理工場(以後、二種工場)は、ビルや製造業の工場が対象となっている。また、一種工場の中でも発電所や製鉄所は、一つの事業所からの温室効果ガス排出量が100万t-CO2を超えるなど、一種工場の中でも、温室効果ガス排出量には大きな差が存在している。
今回は、実効性とカバー範囲から「排出権取引制度の対象となる事業所」を検討するために、どの程度までの事業所を含めれば、十分なカバー範囲となるかを規制区分(一種工場or二種工場orその他)や排出規模(排出量上位orそれ以外)にて分析する事とした。
(1)「一種工場」と「二種工場+その他」

出典:「温対法 特定事業所排出者データ」より日本総研作成
事業所数では1,000箇所程度多い一種工場が、温対法対象事業所の温室効果ガス排出量の93.8%を占めており、一種工場のみでも日本における温室効果ガス排出量(13.4億t-CO2)の42%を占め、十分なカバー範囲となっている。
(2)「温室効果ガス排出量上位100事業所」と「100事業所以外」

出典:「温対法 特定事業所排出者データ」より日本総研作成
温室効果ガス排出量上位100事業所が、温対法対象事業所の温室効果ガス排出量の50.6%を占めており、これらの事業所のみでも日本における温室効果ガス排出量(13.4億t-CO2)の23%を占めている。上位100事業所の排出量は約97万t-CO2以上。
(3)「温室効果ガス排出量上位200事業所」と「200事業所以外」

出典:「温対法 特定事業所排出者データ」より日本総研作成
温室効果ガス排出量上位200事業所が、温対法対象事業所の温室効果ガス排出量の60.8%を占めており、上位100事業所から10.2ポイントの増加となっている。これらの事業所のみでも日本における温室効果ガス排出量(13.4億t-CO2)の27%を占めている。上位200事業所の排出量は約39万t-CO2以上。
(4)「温室効果ガス排出量上位300事業所」と「300事業所以外」

出典:「温対法 特定事業所排出者データ」より日本総研作成
温室効果ガス排出量上位300事業所が、温対法対象事業所の温室効果ガス排出量の65.8%を占めており、上位200事業所から5ポイントの増加となっている。これらの事業所のみでも日本における温室効果ガス排出量(13.4億t-CO2)の30%を占めている。上位300事業所の排出量は約24万t-CO2以上。
(5)「温室効果ガス排出量5万t-CO2以上の事業所」と「5万t-CO2未満の事業所」

EU-ETSと同程度のカバー範囲(全温室効果ガス排出量の約37%)とするために、対象事業所を増加させ、カバー範囲を広げた。その結果、「温室効果ガス排出量5万t-CO2以上の事業所(1,199事業所)」と「5万t-CO2未満の事業所(13,026事業所)」とした場合、日本における温室効果ガス排出量(13.4億t-CO2)の36.6%を占め、約8.4%の事業所を対象とすれば良い事がわかった。
これらの分析から、以下の事が言える。
・一種工場のみを対象としても、二種工場とその他を含めた場合と温対法の対象となる14,225事業所から排出される、温室効果ガス排出量のカバー範囲に大きな差はない。
・温室効果ガス排出量上位100事業所のみを対象にしても、温室効果ガス排出量の50.6%がカバー範囲となっている。
・対象を上位200事業所・上位300事業所とすることにより、カバー範囲はそれぞれ10.2ポイント・5ポイントの増加となった。対象企業数の増加によりカバー範囲は広がるものの、排出量の少ない事業所が相対的に増加していく事から、カバー範囲の増加率は低減していく傾向にあった。
・EU-ETSと同程度のカバー範囲を実現するには、温室効果ガス排出量5万t-CO2以上の事業所を対象とすれば良い。その際の事業所数は1,199箇所であり、温対法の対象事業所に占める割合は約8.4%となり、大半の事業所を排出権取引制度の対象から外してもEU-ETSと同程度の削減対象を確保出来ると考えられた。
2. カバー範囲とコストをふまえた、対象となる事業所の検討
以上のように、温室効果ガス排出量のカバー範囲(日本全体の温室効果ガス排出量に対して23~42%)をふまえると一種工場のみ、排出量上位100~300事業所あるいは温室効果ガス排出量5万t-CO2以上の事業所を対象としても十分に実効性が有ると考えられた。
このようにカバー範囲を検討している理由としては、排出権取引制度の対象としても、相対的に温室効果ガス排出量が少なく、日本全体の温室効果ガス排出量削減に対して寄与率が低い事業所を除外することにより、排出権取引制度の費用対効果を高める事が挙げられる。EU-ETSにおいても、現在、規制対象になっている約11,500事業所について、排出規模とカバー範囲についての分析を行っており、排出量の少ない事業所については、除外しても問題ないとしている。
排出権取引制度は、その実施のために以下に示したような実施コストが必要になる。
・各事業所における温室効果ガス排出量の算定・記録体制の整備
・各事業所への排出枠の配分量を決定するための情報収集
・各事業所の排出枠および排出量を管理する登録簿システムの整備・運用
・第三者認証機関の育成
・第三者認証機関による、各事業所の温室効果ガス排出実績の第三者認証
・排出権取引市場の整備・運用
この実施コストは、排出権取引制度の対象となる事業所数が増えるほど増加する。特に第三者認証については、複雑な生産工程についても十分な理解の上で認証出来る、質の高い第三者認証機関が不足すると考えられることから、その育成に十分な費用と時間が必要になると考えられる。先日、ある認証機関の方にお話を伺った範囲では、日本において質の高い認証を行える認証機関は、10数社程度であり、300事業所程度であれば現状でも対応可能であるが、14,225事業所となると圧倒的に認証機関が足りないとのコメントであった。
実効性・カバー範囲と費用対効果、早期にトライアル的な実施をすべきことを考えると、排出権取引制度の対象となる事業所は、温室効果ガス排出量上位200~300事業所程度が妥当と考えられた。また、EU-ETS並を目指すのであれば、1,199事業所が対象となる、温室効果ガス排出量5万t-CO2以上の事業所も妥当性がある。いずれにしても、排出権取引制度の対象とならない大半の事業所については、省エネ法などの別の手段を用いる事で対処すれば十分であり、温室効果ガス排出量が3倍程度のEUが実施している、EU-ETSにおいて対象となる事業所数が11,500であることもふまえても、現状の一種工場・二種工場の全部を対象とする事は無意味であると考えられる。
今回の実効性・カバー範囲の分析により、排出権取引制度について、大半の事業所=企業は対象とならず、直接的には影響を受けない、あるいは制度に含める意味が少ない事はご理解頂けたと思われる。
排出権取引制度は、温室効果ガス排出量が多く、主に国内外において競争の少ない業種に温室効果ガス排出削減を進めさせ、そのコスト負担を広く薄く再分配するための仕組みとすべきである。そこに自社削減努力以外の削減手段である「排出権」が利用可能になる事で、柔軟性のある規制となっている。したがって、大半の企業にとっては、排出権取引制度がエネルギーコストや素材価格に転嫁される前提で、どこまでの負担を誰にさせるのか、事業者の負担と行政コストのバランス、他の政策(環境税や自主行動計画など)との比較、国際的な温室効果ガス削減に関する議論との整合性などをふまえた、冷静な議論が必要である。
注1 事業所別の温室効果ガス排出量データ:
公開資料名は「特定事業所排出者データ」。温対法に基づいて、2006年4月1日から、温室効果ガスを多量に排出する者(特定排出者)は、自らの温室効果ガスの排出量を算定し、国に報告することが義務付けられている。また、国は報告された情報を集計し、公表することとされている。今回の分析および作成した図表は国が公表した、2006年度の特定事業所排出者データに基づいている。