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第1部 問題提起「多死社会が抱える課題」
「”明るい孤独死”が迎えられる社会へ」


 こんにちは。このたびは弊社主催のシンポジウムにお集まりいただき、ありがとうございます。リサーチ・コンサルティング部門、齊木乃里子でございます。
 私の持ち時間は15分と短いですが、今後の日本を考えるうえで大事な「死というものにどう立ち向かっていくのか」「死をどういうふうに受け入れていくのか」という点に関して、一つの考え方を、本日、ご提示させていただければと思います。



 なかでも大きなテーマが「孤独死」です。先ほど、もう一人の齊木がお話しいたしました通り、多死社会になると、毎年たくさんの方が亡くなっていかれます。多くの方が亡くなっていかれるということは、当然、お一人で死の瞬間を迎えられる方も増えるということです。
 このテーマをお話しさせていただくきっかけとなったのは、私がコンサルタントとしてある介護事業者様とご一緒した際に、在宅看護、訪問看護をされている現場の方からのお声でした。それは、在宅看護を利用されている方が亡くなられたときのお話です。ご担当者は毎週のようにご利用者のお宅にご訪問されるわけですが、ある日伺ったら、すでにお亡くなりになっていた。そのときに、むしろ、すがすがしいというか、「この人は生き切ったのだな」という思いがよぎったと仰いました。
 結局は、その方がどういうふうにその死を迎えたのか、その死の瞬間よりも、むしろ、その人が死を迎えるに当たり、「最後の人生をどう生きてこられたのか」ということが、周りの人をも感動させ、幸せにする、そして世の中の学びとなる、ということなのです。
 そういう意味で、その看護師さんは、社内勉強会のなかで、「私たちは考え方を変えないといけない。私たちは、一人で亡くなった人のことをかわいそうと言ってはいけない」とはっきりおっしゃったのです。
 私も参加者の一人としてその話をお聞きして、「本当にその通りだ」と心の底から思いました。死ぬということ自体は自然の姿なわけですから、その周りに何人の人間がいようが、どういう死を迎えようが、それは「死」以上でも以下でもないということです。そういう意味で、一人で死を迎えたことは哀れみや同情の対象ではないというふうに受け入れるべきなのだと思います。
 ただ、喪失感は当然あります。亡くなった方の周りには、何かしら関係のおありになる方がいらっしゃるわけですよね。そのような方々がどういう想いをお持ちになるか。それも含めて、私たちは、すべての死を、一人で亡くなろうが、そうでなかろうが、どういう死であろうが、ありのまま受け入れて、次の社会につなげていく、ということをしないといけないと思います。そうでなければ、これから来るであろう多死社会、そしてこれからの日本を考えることができない、と私たちは思っています。



 そういう意味で、本日、お伝えをしたいのは、「最期まで自分らしい生き方をして、ある種覚悟をして、備えて、そして生き抜く」「私の決断はこれでよかったのだ、と納得して生き抜く」という結果であれば、その瞬間に一人であったとしても、それは“明るい”と呼びましょうよ、ということです。 「納得して生き抜く」と書いてはみましたが、実際は、今、「入院しましょう」「治療しましょう」「こういうケアを受けましょう」となった場合、ご本人の意思が反映されているかどうかは、なかなかわかりにくい部分もあります。
 明るい孤独死の社会をつくっていくためには、本人も家族も、「こういうふうにしたいな」「ああいうふうに生きたいな」「そのときはもしかしたらこういう犠牲も少しあるかもしれない」、あるいは「家族同士でこういう我慢をしないといけないのかもしれない」ということを考え、話し合っておくことが必要です。また、互いの意思を尊重しようと思うと、「こういうことがしたい、ああいうことが起きる」、そのなかでも「ここはお互いに我慢をしよう」と、そうして我慢をし合うことを通じてお互いを理解する、という関係性をつくっていくことも重要になります。自分自身がリスクを考えながら、同時に、自分らしさを選択する、という形が求められるということです。
 実際にお一人で亡くなる方は増えます。今週の日経新聞のトップ面でも「単独世帯が非常に多くなっている」「無職の単独世帯が多くなっている」という記事が出ていました。その背景として「高齢者の世帯が増えてきているからだ」という記述もございました。繰り返しますが、死の瞬間を一人でお迎えになられる方は確実に増えます。ただ、この私も含め、ここにいらっしゃる方々であっても、高齢かどうかにかかわらず、幾つであっても、一人で亡くなるかもしれないわけです。死の瞬間よりも、資料(P.2)に「Dying」と書いております通り、死に向かう道のりをどう自分らしく、どう自分で決断して、「私の人生はこうだった」と言い切れる形にしていくか、ということが非常に重要です。



 そのためには、先ほどから、リスクも含めて考えておかなければならない、自分はどういうふうにしていくのか、したいのかという意見をはっきりさせなければならない、という話をしていますが、まず、「どんな死であってもみんな違う」「その死に向かう道のりもみんな違う」という前提に立つことが必要です。例えば、癌になったら、糖尿病になったら、例えば大腿骨が骨折したら「こういうふうにしなさい」という何か決まった道があるように考えられる方が多いかもしれませんが、実は、本当は千差万別、全員違いますよね。全員違う状態のなかで、全員にとってのそれぞれの意思決定があるはずです。その意思決定を自分「で」してきているか、自分と家族のためにしてきているか、という問いが今まさにされているということです。
 意思決定の際に考えなければいけないのは、孤立と孤高は違うということです。孤立というのは、周りから閉ざされてしまって、知人であろうが、友人であろうが、助ける手もない、あるいは行政からも離れている、というなかで亡くなっていかれる方。こういう方に関しては何らかの手を差し伸べることが必要かもしれません。




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