Business & Economic Review 2002年04月号
【STUDIES】
シンガポールにみる産業構造改革と人材開発
2002年03月25日 星貴子
要約
- 中国の台頭など、国際経済の構造が大きく変化するなか、シンガポールは、アジア有数の情報技術(IT)国家への脱皮に成功し、力強い成長力を引き続き堅持している。狭小な国土、少ない人口、乏しい天然資源といった経済的な制約要因を抱えたシンガポールが、1970年代の工業化、80年代から90年代半ばにかけての産業高度化、90年代後半の情報・技術集約型経済化と、ダイナミックな構造転換を成し遂げ、今日、先進国をも凌ぐ国際競争力を有している背景には、良質な人材資源の存在がある。同国では、構造改革を進めるにあたって、産業政策とともに、人材開発を国家戦略の一つに位置づけ、新たな産業基盤の構築を図ってきた。
経済的な制約を抱える同国にとって、「人材資源を有効に活用することが産業高度化の原動力である」との認識の下、79年の第二次産業革命政策以降、人材開発が強化されてきた。学校教育や職業訓練に官民挙げて取り組み、労働者の基礎学力や職業能力の向上を図るとともに、多国籍企業や外国人専門・技術者を積極的に誘致し、産業基盤の要として活用した。その結果、アジア途上国のなかでいち早く労働集約型製造業を中心とした経済から、情報・技術集約型経済への構造転換に成功した。このようなシンガポールの経験は、途上国であり、経済的な制約要因を抱える国家でも、人材に支えられ、知識、情報を軸にした経済発展が可能であることを示している。 - もっとも、20年間にわたる人材開発は試行錯誤の繰り返しであり、知識・技術基盤は何らの障害もなく順当かつ円滑に構築されてきたわけではなく、次の三つの要因を背景に、徐々に人材育成が効果を上げてきた。
a.国家戦略としての人材開発
産業高度化の初期から、情報化などの産業基盤の構築とともに、人材開発を重要戦略項目として位置づけ、国家を挙げて取り組んできている。人材開発に重点的に予算を配分するとともに、政府レベルの専門委員会や専門の行政機関を創設し、経済戦略に沿って、労働者の職業能力の引き上げから高度人材の育成・強化に至る包括的な人材開発計画を策定、遂行している。
b.柔軟かつ機動的な制度の策定および運用
先進国の人材開発政策を柔軟に受け入れるばかりでなく、自国の国情に合わせ、独自にカスタマイズしているうえ、国内外の経済・社会情勢や人材開発の進展状況に応じ、適宜、施策の見直しを図っている。さらに、人材開発を効率よく進めるため、制度のみならず行政システムについても、機動的に、主体となる組織の統廃合や業務の再編が行われている。
c.積極的な外資および外国人の活用 産業基盤の要として、産業高度化当初より、多国籍企業や外国人専門・技術者を積極的に活用している。先端技術、知識、ノウハウを吸収、定着させるため先進国の企業を誘致しているほか、近年では高等教育機関の強化を目的とした先進国の教育機関の誘致を推進している。外国人専門・技術者ついても、知識・技術基盤の牽引役として、先進国のみならずアジア各国から優秀な人材を確保している。 - わが国に目を転じると、経済の再生を図るため、技術立国および世界最先端のIT国家の実現を目標に掲げ、知識・情報集約型の経済構造への転換に着手したものの、バブル経済のツケは大きく、経済構造の抜本的な改革が遅延している。わが国が、情報、技術、知識を中心とした産業構造への転換を実現するには、a.新産業への労働移動の遅れ、b.研究および技術開発力の低下、c.将来の労働力不足といった問題を乗り越えることが喫緊の課題である。とりわけ、新たな産業構造を牽引していく知識・技術基盤の構築は、最優先課題といえよう。そこで、知識・技術基盤の再構築に関する施策の一つとして、経済的制約を抱える途上国であったにもかかわらず、人材を強化し知識集約型経済への構造転換に成功したシンガポールの経験を踏まえ、以下の4項目を提言したい。
a.30万人規模のIT 関連外国人専門・技術者の受け入れ
シンガポールでは、積極的に外国人専門・技術者を受け入れることで、知識集約型経済の基盤を構築してきた。これに対し、わが国では、2001年6月現在、管理・専門・技術職に携わっている外国人は2.4万人と、管理・専門・技術職全体の0.2%に過ぎない。新たな産業基盤を担う人材の育成には短くても5~6年の期間を要することを勘案すると、最先端のIT国家としての人的基盤を早急に構築するためには、外国人専門・技術者の受け入れ枠を大幅に拡大することが重要ポイントの一つと考えられる。今後、5年をめどに少なくともシンガポール並みにIT関連分野について専門・技術者総数の15 %、30 万人を目標に、受け入れ枠の拡大を図ることが必要である。
b.教育分野の門戸開放
シンガポールでは、欧米先進国の有名大学が進出し、高度人材の輩出機関が強化され始めている。わが国では、国立大学の再編・統合、第三者機関による評価制度の導入など、大学の国際競争力の強化を図る方針を示したものの、その効果は期待薄である。高度人材の輩出機関として大学を強化するには、国内の大学改革に加え、海外の大学に対して門戸を開放することも有効な方策の一つと考えられる。
c.諮問委員会および政策遂行機関の設立
シンガポールは、人材開発に関する政府レベルの専門委員会および専門の行政機関の下、包括的な人材開発計画が策定、実行され、成果をあげている。わが国では、政府レベル産業構造対策・雇用対策本部、IT政策、総合科学技術会議など、各分野ごとに検討されているのみで、国家戦略としての人材開発政策は示されていない。人材開発政策の実効性を高めるには、人材開発の方向性や重点課題を示した包括的な計画を策定するとともに、進捗を管理し、適宜、計画を見直すための委員会の創設が一つの方策として指摘できる。例えば、各分野の人材育成策を取りまとめ、総合的な人材開発計画を策定するため、内閣府直属の諮問委員会として「人材開発戦略会議」を創設することを提言する。
d.人材開発費の飛躍的拡充
シンガポールでは、急速に知識・技術基盤が強化された90 年代を通して、予算総額の20 ~24%が教育費を含む人材開発費に充てられた。一方、わが国の人材開発に関する予算は、平成14年度では文教科学振興費を合わせても約6.8兆円と、一般歳出総額の14%にとどまっている。教育制度改革やIT教育環境の整備に加え、250万人に上る構造的失業者に対する再教育・再訓練、産学連携による新産業の創出、外国人専門・技術者の受け入れ環境の整備、教育分野の門戸開放に向けた環境作りには、大胆な予算配分が求められる。早急に盤石な知識・技術基盤を構築するには、人材開発に予算を集中させることが重要であり、シンガポール並みに、予算総額の20%を目標とし、人材開発予算を10 兆円規模に拡充する必要がある。