コラム「研究員のココロ」
「美しい」が選ばれる企業の条件となる-経営美学試論(1)-
2008年06月16日 井上岳一
1.美しいものの持つ力
新幹線に乗っていて富士山が見えてくると、読書や仕事の手をとめ、思わず見入ってしまう。そして、伸びやかで均整のとれた富士の山の姿に、気が開けるような、何とも言えない大らかな気分になる。そんな時、「ああ、美しいな」と心の中でつぶやいている。
そう思うのは自分だけではないようで、以前、大阪から東京に向かう車中、それまで隣の席で声高に議論していた二人のサラリーマンが、晴れ渡る青空にそびえ立つ富士山を目にしたとたんに沈黙し、二人静かに見入る場面に遭遇したことがある。議論に夢中になっていた男達を一瞬黙らせてしまうほどの力が富士山にはある。それは、美しいものの持つ力だろうと思う。
美しいと感じるものは、人の心に力強い印象を残す。刻印された印象は人を語らせずにはおかない。だから美しいものは語り継がれるものとなる。そして、語り継がれるほどの美しいものの存在を知ると、一目でいいから見てみたい、手に入れられるものならば手に入れてみたいと思うようになる。つまり、美しいものは、鑑賞や所有の対象として、注目され、選ばれる存在となるのである。これもまた美しいものの持つ力である。
2.美しいって何だろう
思えば「美しい」というのは不思議な言葉である。「美しい」という言葉を知らない人はいないだろうが、では一体、美しさとは何かと問われて、簡潔に答えられる人は少ないだろう。だいたい、「美しい」という表現は、案外と日常生活では使われない。カワイイ、カッコいい、キレイとか、まあ、今ならイケているとか、ヤバいとかになるのだろうが、そういう言葉ほどに、「美しい」というのは使われないのではないだろうか。実際、街で美女に出会っても、「キレイだな」とは思うが、「美しい」とは思わない。そんな自分の感じ方をよくよく探っていくと、どうも「美しい」は「キレイ」や「カワイイ」以上の何かとして使っているように思うのである。
試みに、辞書(大辞泉)で「美しい」を引いてみると、「[1]色・形・音などの調和がとれていて快く感じられるさま。人の心や態度の好ましく理想的であるさま。[2]妻子など肉親をいとしく思うさま。また、小さなものを可憐に思うさま。かわいい。いとしい。愛すべきである。[3]立派である。見事だ。[4]きれいさっぱりとしている」とある。
ちなみに、「美」という漢字は、もともとは羊の形を表す象形文字である。その昔、羊は生贄として神に捧げられたが、犠牲にされるのは完璧で欠陥のない見事な羊であったことから、その完璧な羊の形を「美」と表すようになった。それが「美」という漢字の起源である(注1)。
このように、調和、快い、愛しい、可愛い、愛すべきである、立派、見事、きれいさっぱり、完璧というような意味の全てを包含するのが「美しい」であるから、日常、それほど使われない言葉だというのも納得できよう。軽々に使うには、あまりに奥行きと深みのある言葉。それが「美しい」ではないだろうか。
だから芸術家の森村泰昌は、「美しい」という言葉のめざす世界は「途方もなく大きい」と表現する(注2)。そして、何ともうまく表現しようのない感動を味わった時、その感動を表す言葉としてそうとしか言い表せない言葉が「美しい」でなはないかと言う。
つまりは「美しい」とは、自分の実感に忠実な言葉なのである。心が本当の意味で動かされていなければ、キレイやカワイイやカッコいいでこと足りてしまう。街で見かけた美女を「キレイ」とは思うが「美しい」と言わないのは、単に見かけるだけでは深いレベルで心が動かされるまでに至らないからだと言えよう。
4.これからは「美しい企業」が選ばれるようになる
さて、何故、ことさらに「美しい」にこだわるのかと言えば、これからの社会において選ばれる企業の条件が「美しさ」になると予感しているからだ。そして、「美しい企業」になることが、経営の究極の目標であるとも思うからだ。
何故か。単純に言えば、冒頭に述べたように、美しいものには鑑賞や所有の対象として選ばれるものとなる力があるからである。企業にとって選ばれる存在になることはいつの時代も変わらぬ目標であるが、社会が成熟するにつれて、人々はより美しいものに心が向かうようになると考えるから、企業を評価するに際しても、美しいか否かが重要な鍵になってくると思うのである。
例えば、平日の昼間に美術館に行ってみるといい。凄い数のオバサマ達に遭遇することだろう。特に、ここ数年での変化は目覚しく、以前なら難解と敬遠されがちだった現代美術の展覧会でさえ、今は人だかりなのである。実際、自分の義母は仕事を引退し、悠々自適の年金生活になってから、毎日のように美術館や劇場巡りをしている。
このように生活に余裕が出てくると人々は美しいものを求めるようになる。そして大量に退職期を迎えている団塊の世代を中心に、余裕と意欲のある人々が積極的に美術や芸術に触れていくだろうから、今後、美しいかどうか、というのは非常に重要な価値になっていくと思うのである。
また、社会の混沌や殺伐さが増してきたように感じるのも美に対する憧憬を生む背景にあると思う。無秩序と混沌と不調和が至るところで見受けられるような時代だからこそ、美しいものに対する渇望が生まれるのではなかろうか。美は秩序や調和や快感を象徴するものだからだ。
これらを踏まえると、今後、人々はますます美しいかどうかに敏感になり、「美しい」を求めるようになるだろう。それは企業を評価する際の価値観にもなっていく。星の数ほどある企業の中で今後選ばれるのは「美しい企業」になるだろう。これは、消費者に支持される上でも、優秀な人材を確保する上でも、「美しい企業」であることが重要な要素になるということを意味している。
だがしかし、美しい企業とはどのようなものなのか?美しい企業になるためにはどうしたらいいのか?そもそも、「美しい製品」ならまだしも、「美しい企業」というのは言い方自体がおかしいのではないか?一体、企業の美しさとは何だろうか?
これらの問いは、これまであまり語られることのなかった経営と美学の関係に触れるものである。経営と美学の関係を考える研究分野は寡聞にして知らないが、ここではそれを「経営美学」と名付けておくこととする。そして、この経営美学についてスケッチするのが本稿の目的である。
5.100年前の林学者の教え
さて、「美しい企業とは何か」についての考察は次回以降に譲るが、最後に、経営と美学の関係を考える上で示唆に富む言葉を紹介して本稿を終えたい。
100年前のドイツに、アルフレート・メーラーという林学者がいた。この人は『恒続林思想』という本を残している(注3)。一般にはほとんど知られていない専門書だが、とても味わい深く、学ぶところの多い本である。
この本を読むと、メーラーは、森づくりの営みを単なる手仕事ではなく、芸術的行為と捉えていたことがよくわかる。そして、森づくりの究極の目標は、「健全なる森林有機体の恒続」にあると説く。メーラーは、このような「永遠に存続する有機体としての森林」を「恒続林」と名付け、そのための森づくりのあり方を提唱したのである。恒続林は、「生き生きとして強健なるが故に、美しい。そして、この森林を取り扱う林業家は、価値を追求しながら美に触れ、美の作品を創りながら、価値の作品を作る、類稀なる特権を持っている」という性質のものである。
そして、この恒続林思想を象徴するのが、「最も美しい森林は、また最も収穫多き森林」という言葉である。メーラーにとって、経済性の追求は、その究極において、美を求める芸術的営為と一致するものであった。いや、美を求める営為こそが結果として経済性をも生むのである、というのが根本的に主張したいことだったのだろう。メーラーの森づくり=森林経営の根本方針は、森林を一つの有機体と捉え、それを美しく保つことにあったのである。
企業にとっても「健全なる企業組織体の恒続」、つまり、いつまでも「生き生きとして強健」で、選ばれ続ける企業になることは究極の目標であるはずだ。その目標を実現するためには、実は企業という一つの有機体を美しいものにする努力こそが大切なのではないか。そして、森林同様、美しい企業は、また収益多き企業となるのではないか。
メーラーに触発されて生まれたこれらの問いに導かれながら、これから数回にわたって経営美学について考えていきたいと思う。
(注1) 白川静『常用字解』平凡社、2003年
(注2) 森村泰昌『「美しい」ってなんだろう?』理論社YA新書、2007年
(注3) アルフレート・メーラー[山畑一善訳]『恒続林思想』都市文化社、1984年。以下、同書より引用。