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コラム「研究員のココロ」

センスウェアとは何か

2007年02月19日 井上岳一


1.感覚装置としての風鈴

 今更だが、風鈴って何とも不思議な物体だなと思う。明らかにあれは楽器ではないし、実用性は乏しい。なのに、夏の風物を代表するものとして、日本人の心の中に確固たる地位を築きあげている。一体、あれはどういうものなのだろうか?
 そう思って風鈴の起源を調べてみると、どうも中国に由来するもので、もともとは音の鳴り方で吉凶を占うための道具だったらしい。それが仏教の伝来と共に日本に輸入され、最初は魔除けとして、後にはガラスの普及と共に夏を彩る風物として広まったものだそうだ。そうか。もともとは呪術的な意味合いのある物体だったのか。しかし、今やその面影はない。
 風鈴がチリーンと鳴ると、「ああ、風流だな」と思う。同時に、何だか涼やかな気分になる。それは、多分、風鈴の音で風が吹いていることを知るからだ。そして、風が出てきた、と思うから涼しいと感じる脳内のスイッチが入るのだろう。つまり、風鈴が表現しているのは音ではなく、風が吹いているという事実である。それが風鈴を巡る認知の構造だろうと思う。
 そう考えると、風鈴とは涼しさを演出するための装置だと言える。より抽象度を高めて言えば、「自然の移ろいを感じるための感覚の道具」と定義できるだろう。およそ実用的な目的には供さない類の道具である。荘子の言う「無用の用」ではないが、「何かの役に立つ」という明確な主張や目的がないものが商品として成立している。そこが面白い。今、新商品を開発しようと思っても、こういう発想はなかなか出てこないのではないか。新しい商品やサービスの開発は、通常、不便や不快や不満を取り除く、つまり「不」の根絶という観点から構想されるからである。そこには確実なニーズがあると想定されるからだ。「無用の用」は、ニーズとして汲み取られない。しかし、風鈴のような「感覚の道具」としての仕掛けがあれば、商品になり得ることがある。ここには大きなヒントが隠されているように思う。

2.センスウェアという発想

 このような「感覚の道具」のことを、近年、「センスウェア(senseware)」という言葉で捉え始める人々が出てきている。センス=感覚、ウェア=道具・製品。つまり、直訳すれば、「感覚の道具・製品」である。センスウェアは、従来のハードウェアやソフトウェアという発想からは零れ落ちてしまうものを捉えるために生み出された概念である。
 早くにセンスウェアの概念を提唱していた渡辺保史によれば、それは「生きている世界をビビッドに感じ取ることができる情報の道具」であり、「ふだんは感じることのできない“生きている世界”の表情を目に見えるようにする」もの、となる(注1)。だから、渡辺によれば、風鈴は、「五感とイマジネーションを働かせて外界の情報を享受できるようにデザインされた、すぐれた道具」なのである。
 センスウェアという概念は、その後、デザイナー達を中心に拡大解釈されている。例えば、無印良品のクリエイティブディレクターとして有名なデザイナーの原研哉は、「人間の感性を刺激し、やる気を起こさせるもの」というかなり広い意味でセンスウェアを捉えている。真っ白で張りのある紙を前にした時、人はそこから何かを生み出したり、そこに何かを記録したくなったりする。そのような機能として閉じていないモノ、人間の感覚を覚醒させ、新たな行動を引き起こすようなモノ。それが原にとってのセンスウェアである。従って、紙も石もテキスタイルも、原にとっては、センスウェアとなるのである(注2)
 このように、新しい概念であるセンスウェアは、未だ定まった定義もなく、使う人によっての解釈もまちまちだ。しかし、総じて言えば、センスウェアとは、「人の感覚を刺激することを通じて、新たな世界の見方や世界との関わり方を発見させる道具」とまとめることができよう。センスウェアが問うのは、実用性や機能性よりも、人の感覚をどう覚醒させるか、である。

3.世界とのつながりの喪失

 何故、今、センスウェアに注目するのか。それは、便利さや快適さや効率性を追求してきた現代の都市生活のあり方が、人間の感覚、五感といったものの重要性にあまりに無頓着になってしまっているのではないかと思うからだ。
例えば、最近の中高層住宅は、密閉度が高く、完璧な空調設備と防音・防犯設備を備えているため、一年中静かで快適な生活を送ることができる。それは、近代建築が理想とした「住むための機械」(ル・コルビュジェ)としての一つの到達点であると言えるかもしれない。
 だが、室内の音環境という点から眺めてみると、いささか異なる感想を抱くことになる。音の環境学を唱える大橋力の実験によれば、最近の中高層住宅では、空調やTVなどの音発生源がない限り、早朝の室内での騒音計の目盛りは20dBLそこそこしか上がらないらしい。静かなイメージのある山里の早朝でも、55-65dBLと言うから、いかに今の都市住居が静寂な音環境であるかがわかる。そして、この値は、建築設計の教科書で放送スタジオ、音楽ホール、聴力試験室等に要求される静かさの水準に匹敵するものだと言う。この事実に対し、大橋は以下のように述べている(注3)
これほど音の乏しい棲息環境は、人類を含む大型類人猿の進化史では、その悠久の歩みの中にほとんど存在しなかったはずである。(中略)そのため、人類の遺伝子の広大な適応のヴァリエーションの中でも、どこまでそうした音の乏しさに耐えるプログラムが準備されているかが懸念される。実際、洗脳との関連で注目された感覚遮断実験や宇宙船内の情報環境のシミュレーションとして行なわれた刺戟削減実験の条件と比べても、音刺戟の乏しさという点では甲乙つけがたいほどである。これらの実験ではおしなべて、その心身への負の効果が指摘されている。
(下線は原著者)
都会の喧騒から逃れるのに築き上げた理想的な住居は、同時に、人類史上例を見ない未曾有の音空間なのである。それが住む人にどんな影響を与えるかは不明だが、外界と聴覚的に断絶した世界に住んでいることは間違いない。そして、一歩外に出れば、都会の喧騒が耳をつんざくことになるから、全か無かに近い、極めてデジタルな聴覚世界に生きていることになる。これは、何も聴覚に限ったことではない。視覚、嗅覚、触覚、味覚といった人間の五感を通じて捉える外界の全てが、極めてデジタルなものになってしまっているのが現代の都市生活の特徴である。連続性のない知覚世界。それは、我々が世界から切り離された存在になってしまっていることを意味している。世界とのつながりを喪失した、とてもグロテスクな知覚世界に我々は生きているのではないだろうか。

4.世界は意味に満ちている

 我々はあまりに感覚に鈍感なまま、便利さや快適さや効率性を追求してきてしまったのではないのだろうか。であるならば、これからのテクノロジーやモノ作りは、人間の五感を覚醒させ、世界とのつながりを回復させるための手段としてのあり方を模索すべきではないかと思うのだ。
 センスウェアという発想は、その場合の一つの指針になり得ると思う。不快や不便や不満を取り除く「不」の根絶の発想からではなく、世界の新たな意味を発見し、毎日を心豊かなものにするという発想からテクノロジーの使い方やモノ作りのあり方を構想するやり方があっても良い。それは、そもそも四季の移ろいと共に暮らす中で洗練された文化を育んできた日本人が得意とする発想法であり、方法論であると思う。もともとは呪術的な道具であった風鈴をセンスウェアに変換してきた日本人の方法論が持つ可能性こそが見直されるべき時である。
 五感を覚醒させることによって、この世界はずっと驚きと意味に満ちたものとして立ち現れてくるはずだ。それは、ピュアな身体感覚だけで生きている幼児の世界観に通じるものだと思う。幼児にとって、見るもの、聞くもの、嗅ぐもの、触れるもの、口に入れるものの全てが新しい。感覚器官の全てを通じて世界と対話する毎日は、どんなに新鮮で楽しいことだろうと思う。宙に浮かべた手を握ったり開いたりしながら世界に微笑みかける幼児の笑顔は、この世界がどれほど驚きと意味に満ちたものなのかを教えてくれる。
 眼鏡を付け替えれば世界が違って見えるように、五感のフィルターの使い方をちょっと工夫するだけで、我々にとっても世界はもっと驚きと意味に満ちたものになるはずだ。江戸時代の儒学者、三浦梅園は「枯木に花咲くに驚くよりも、生木に花咲くに驚け」という言葉を残しているが(注4)、我々も、今生きているこの世界の驚きと意味を感じ続ける、みずみずしい感覚を取り戻すべきなのだと思う。それは失ってしまった世界とのつながりを回復することに他ならない。その時、初めて、我々は我々を取り巻く世界とそこに生きる人々に対して、今よりもちょっと優しくなれるのだと思う。
 センスウェアは、そのような世界とのつながりを回復するための道具なのだと言えよう。


  1. 渡辺保史(2001年)「情報デザイン入門-インターネット時代の表現術」平凡社新書

  2. 例えば、日経流通新聞(2007/2/7)

  3. 大橋力(2003年)「音と文明-音の環境学ことはじめ」岩波書店

  4. 竹村真一(2004年)「宇宙樹」慶應義塾大学出版会からの引用
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