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アジア・マンスリー 2021年9月号

「eルピー」を導入するインドの狙い

2021年08月26日 熊谷章太郎


2021年8月、インド政府は新たな電子決済システム「eルピー」を導入することを発表した。その主な目的は、コロナ禍で苦境にある人々への迅速かつ確実な補助金給付である。

■金融サービスのデジタル化を進めるインド
2014年にモディ政権が発足して以降、インド政府は金融サービスのデジタル化に向けて様々な取り組みを展開している。その背景としては、現金決済の社会的コストの高さを指摘できる。具体的には、現金の製造、流通、保管などにかかわるコストに加え、不正蓄財、脱税、偽造紙幣などの問題が挙げられる。さらに、非効率な行政や汚職問題を理由に、低所得者向けの現金給付が対象者に十分に行きわたらないことも問題となってきた。これらの課題の克服に向けて、政府は、①低所得者の銀行サービスへのアクセス改善、②現金使用の規制強化、という二つの側面から金融サービスのデジタル化を促進しようとしている。

まず、前者についてみると、2014 年8月に政府はPMJDY(Pradhan Mantri Jan Dhan Yojana)を打ち出した。これは、口座維持手数料が無料、かつ損害保険や生命保険などの特典がついた特別口座の開設を促すキャンペーンである。生体認証技術を活用した新たな国民ID(Aadhaar)を導入することで、識字能力の欠如や公的な身分証明書の未保有を理由に銀行口座の開設が困難であった人々の金融取引を可能にした。その結果、これまでに4億以上の口座が新たに開設された。PMJDY が打ち出され当初は、口座開設後の金融取引が限られていたため、口座保有率が上昇しても金融仲介を通じた経済効率性の向上や貧困の削減につながっていないとの批判があった。しかし、低所得者向けの補助金が従来の現金給付から口座振込に切り替えられると金融取引は活発化し、行政コストの削減や汚職の抑制などにもつながった。こうした動きは商業銀行に対して預金や収益獲得機会の増大をもたらしたため、各行が積極的に口座開設キャンペーンを展開した。
次に、現金使用への規制についてみると、2016年に一定金額を超える宝飾品の購入時にPAN(Permanent Account Number、基本税務番号)の提示を義務化するとともに、同年11月に流通現金の8割強を占めていた500ルピーと1,000ルピー紙幣を突如廃止した。新紙幣の供給の遅れはインドの経済・社会に一時的に大きな混乱をもたらしたが、それが一方でモバイルバンキングなどの利用拡大のきっかけとなった。また、2017年に30万ルピーを超える現金取引に関する規制が導入されたことなども、金融サービスのデジタル化を促した。さらに、コロナ禍の発生を受けた活動規制も、オンライン取引の拡大を通じて金融サービスのデジタル化を加速させる要因となっている。厳格なロックダウンを受けて景気は2020年半ばにかけて大幅に悪化したものの、金融サービスのデジタル化の状況を総合的かつ定量的に評価した「デジタルペイメント指数」は拡大が続いている。

■新たに「eルピー」を導入する理由
こうしたなか、2021年8月、インド政府は近く新たな電子決済システム「eルピー」を導入する方針を発表した。政府は、NPCI(National Payments Corporation of India、インド決済公社)が提供する電子決済システムを利用して、社会福祉サービスなどの電子クーポンをQRコードやSMS(ショート・メッセージ・サービス)で提供することを計画している。

従来の補助金給付と比べた特徴としては、eルピーの受け取りや使用は銀行口座を必要としないことを指摘できる。受益者は携帯電話に送られてきた電子クーポンを提示することで財やサービスを受け取り、財・サービスの提供者は金融機関を通じて政府からその対価を受け取ることとなる。

政府が銀行口座への振込から携帯電話への電子クーポン提供に切り替えようとする理由としては、携帯電話が銀行口座よりも広く普及していることが挙げられる。インド政府は、行政サービスの効率化に向けて、銀行口座(Jan Dhan Yojana)、国民ID(Aadhaar)、携帯電話(Mobile)の三つを紐づける「JAMトリニティ」を推進しているが、現状は国民IDと携帯電話を保有する一方で銀行口座を保有していない層が一定程度存在する。世界銀行の調査によれば、PMJDYによる低所得者層の銀行口座の開設を主因に、銀行口座を保有している15歳以上人口の割合は2014年の53%から2017年に80%へと上昇した。保有率はその後も上昇傾向にあるものの、現在も1割前後が銀行口座を保有していないと見られている。他方、携帯電話についてみると、スマートフォンの普及率は約7割と銀行口座の保有率を下回っている。しかし、フィーチャー・フォン(スマートフォン普及前の携帯電話、いわゆる「ガラケー」)を含めた無線携帯電話の契約件数は約12億件と15歳以上人口(約10億人)を上回り、SMSを通じたeルピーでのクーポン提供などが幅広い層に対して可能である。そのため、政府はeルピーを導入することで、コロナ禍で苦境に追い込まれた人々に対し、感染拡大リスクを抑制しながら、迅速かつ確実に補助金を給付することを目指している。また、電子クーポンの配布によって嗜好品やギャンブルなどへの支出を制限し、低所得者の最低限の生活を確かなものとすることも、eルピー導入の目的となっていると考えられる。

最後に、諸外国で注目を集めるCBDC(Central Bank Digital Currency、中央銀行デジタル通貨)とeルピーの関係についてみる。使途が限定され、他人への譲渡も認められていないeルピーは、現金と同様の機能を持つCBDCには該当しない。今後、経済・社会の一段のデジタル化に向けて、政府がeルピーの提供・利用形態を拡充する可能性はあるが、預金、送金、借入などの金融機能が組み込まれない限り、eルピーが既存通貨を代替するものとはならないだろう。このことは、今後、eルピーの利用が拡大するなかでも、既存の金融インフラの改善に向けた取り組みを継続することが重要であることを意味する。
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