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【次世代交通】
自動走行ラストマイルで町をよみがえらせる(第4回)米国Uberの死亡事故の教訓
2018年05月08日 井上岳一
2018年3月18日、アリゾナ州で公道実証走行を行っていたUber Technologiesの自動運転車が、道路横断中の歩行者に衝突して死亡させる事故が起きた。
その直後の3月23日には、カリフォルニア州でテスラ・モーターズの「Model X」を運転中の男性が中央分離帯に衝突して死亡する事故が起きている。運転支援機能の「オートパイロット」に運転を任せていた間の事故のようだ。
この2つの事故を受けて思ったのは、高速走行の自動運転を実用化するには、まだ当分、時間がかかるだろうということだ。速度が出ていると、危険事態の発生と人が異変に気づいて介入するまでのタイムラグが致命傷になる。気づいた時には手遅れで、危険を回避できない可能性の高い高速走行は、今の段階ではリスクが高すぎる。
また、あらためて痛感したのは、運転を車に委ねると、人はどうしても注意散漫になるということだ。警察が公開したビデオを見る限り、運転席にいたUberの監視者は明らかによそ見をしていた。そのことが問題となっているが、車に運転を委ねつつ、車の動向や周囲の状況に気を配り続けるのは、よほど強靭な精神をもった人でないと難しい。通常は、集中力が続かず、スマホをいじるなど他のことをやり始める。それは以前から指摘されていた問題だ。
高速走行は難しく、監視者(保安要員)の集中力は続かない。これらを踏まえると、自動運転の実用化は、限定空間で、低速の移動サービスから始めるのが現実的だと考える。わが国の内閣官房が作成しているロードマップでも、無人走行は、まずは限定空間における低速の移動サービスから実用化されることとなっているが、それは正しいアプローチだとあらためて思う。
もっとも「低速」はわかるが、なぜ、「限定空間」での「移動サービス」なのか。
「限定空間」とするのは、走る場所を限定することで、車にとっての「想定外」の要素を減らしつつ、経験を積ませることができるからだ。限定空間内の決まった道を通るだけなら、変数はコントロールしやすい。「想定外」を極小化できるし、学習と微調整を繰り返すことで、最初はぎこちなかった運転もすぐにこなれてゆくはずだ。
また、社会の側も、走る場所が限定されるなら、自動運転を受け入れやすい。Uberの事故でも、自動運転車が走る道路だと知っていれば、横断歩道もない車道を横切るというような無謀な行為を被害者はとらなかったかもしれない。要は、自動運転が完璧でないうちは、人間の側が気をつければいいのである。よちよち歩きの幼児は、皆に温かく見守られながら、危険のない環境で歩行を覚え、少しずつ行動範囲を広げてゆく。自動運転者も一緒だ。よちよち歩きを始めたばかりの自動運転車を社会の側が温かく見守り、育ててあげるためにも、走行範囲を限定して実用化していくのが現実的である。
さらに、「移動サービス」とすべき理由は、サービスとして展開したほうが責任の主体が明確になり、事故防止に対する意識が高まることが期待できるからだ。オートパイロットが普及している航空機で、パイロットが居眠りをしないのは、パイロットとしての責任感とモラルを事業者がスタッフに植え付けているからだ。自動運転も同じで、技術が完成するまでは、責任感とモラルの高いスタッフ達が運行を支えるようにしたほうがいい。そのためにも、社会的責任意識の高い、まっとうな事業者による展開が期待される。
そういう観点からすると、今回のUberの事故は、Uberの指導管理体制に疑問を投げかけるものとなった。よそ見をしていた背景には、Uberの指導管理体制の杜撰さやリスク感覚の緩さがあったのだと思う。自動運転を実用化するには、技術の進歩も重要だが、事業者の育成も重要になる。それが今回の事故の一番の教訓だろう。
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※記事は執筆者の個人的見解であり、日本総研の公式見解を示すものではありません。