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Business & Economic Review 1997年07月号

【(特集 香港返還)】
イギリスから見た香港返還

1997年06月25日 ロンドン政治経済大学国際関係学部教授 Michael Yahuda


イギリスの香港に対する態度として注目される点は、香港という最も成功をおさめたイギリスの植民地に対する一般的な知識と関心の低さということであろう。それは例えば、選挙によって選出された下院議員はイギリス政府の植民地経営について責任を負っているはずであるが、下院における香港を巡る討論会への出席者が非常に少ないという事実によく表れている。一方、選挙によらぬ議員から形成される上院は下院とは対照的である。上院には香港の元総督や行政機関のメンバー、中国・香港に利益を持つ大手企業の経営者などがいるため、香港問題が細部にわたり議論されている。97年初め、香港に長期滞在している数千の非中国籍居住者に対するイギリス居住権の付与に関する問題で、積極的に支持に回ったのは国民の真の代表であるはずの下院議員ではなく上院議員であった。香港の返還に関する論争がいくつかあったにもかかわらず、選挙キャンペーン期間中に香港問題が取り上げられることがなかったのは驚くにはあたらない。なぜならイギリスの選挙民ばかりでなく、労働党の幹部でさえ香港に関する知識のなさはほとんどの大衆と似たり寄ったりだからである。

この背景にはイギリス植民地としての香港の歴史がある。というのは、イギリス統治下に入ってから最初の100年余りは、イギリスにとって香港よりもむしろ上海の存在感が強かった。お洒落で、ロマンチック、そしてエキゾチック-上海のイメージに惹かれたイギリス社会の上層階級者は少なくなかった。当時の文学作品でそのイメージが広がり、イギリスのみならず西洋全体にとって、東洋の真珠とは香港ではなく上海を指したのである。第二次世界大戦後になって香港の奇跡が始まるわけだが、この時には皮肉にも大英帝国は昔日のものとなっておりイギリス本国も衰退していた。イギリスの植民地のなかで、イギリス人が現地に永住したり現地の行政や統治の経験を生かして出世した者がほとんどいないという点では、香港は例外的な存在である。実際のところイギリスにとって香港は、連邦統治下にはあるが、基本的には中国の都市であった。ジャーディン・マセソンやスワイヤなど老舗のイギリス系大手貿易会社が二、三あるものの、香港の企業はほとんどが中国系企業である。一方、ロンドンやマンチェスターなどには香港から移住した人々により新興のチャイナ・タウンが誕生し、中華料理屋が至る所にできたが、これが両者の間の越えられぬ溝をさらに深めてしまったようである。というのは在英の香港人は香港人同士で生活し、現地イギリス人の生活との関わりがほとんどなかったからである。歴史的、文化的、社会的にも、香港、および香港人はイギリス市民一般にはたいした印象を与えることはなかった。

香港について広い知識を持つイギリス人は少ない。いるとしても在香港イギリス系企業の関係者、退職した香港の行政機関の公務員、大学教授や記者といった人々など、以前から香港と関係のあった者に限られている。しかし事業面では、香港と取引のあるイギリス系大手企業のほとんどが香港に本店または地域本部を置き、中国、そして東アジア全体へと営業範囲を広めるための地域拠点にしていることは特筆される。またここ数年の間、イギリスの香港向けの年間輸出額は平均で約27億ポンド(97年4月時点で44億米ドル)に達しており、イギリスの輸出市場として香港は第12位である(注1)。香港貿易全体的でみると、イギリスが7番目に大きい貿易相手国になっているが、さほど重要な貿易相手とは言えない。93年から95年の3年間の香港貿易に占めるイギリスのシェアは3%を下回っている(注2)。イギリスの商業界やその代表機関であるイギリス産業連合などが香港に関する問題にほとんど興味を示さないため、中国との外交面では外務省が比較的自由に交渉を行ってきた。個人的に力を持つビジネスマンや民主主義の監視者を自認するマスコミを除けば、香港に関する政策や方針についてはイギリス国内からの内部圧力がほとんどなかったのである。

イギリスでは、外国通といわれる人であっても香港とその生活についてはほとんど知らない。にもかかわらずイギリスでは、中国への香港返還を悲しいことだと考える傾向がある。多くのイギリス人は中国に対し、いまだに経済の急成長を望んだことにより引き起こされたあの悲劇的な天安門事件を連想し、独裁政治と人権の侵害によって返還全体を形容してしまっているようである。香港が経済的に成功したという事実にもかかわらず、中国政府の抱える人権問題や共産党独裁政権であるという点が、香港返還に対してイギリス人が反感を持つ理由である。また中国への香港返還が大英帝国の終焉を意味することも、いっそうイギリス人の悲しみを増幅させている。

イギリスのパスポートを持つ350万の香港人に対してイギリスの居住権を与える運動を支持する人は少ない。労働党と保守党の大部分の議員が5万人に(家族を含むと25万人になる)イギリス在住権を与えるという法律の提案に猛烈に反対したことは記憶に新しい。皮肉にも、この法律は、仕事などで香港を離れられない人々が返還後も安心して香港で働けるようにするためのものであった。

筆者が知る限り、イギリス一般市民の香港に対する意見や態度が世論調査の対象になったことはない。したがって、以下はあくまでも筆者の個人的な意見であり、必ずしも客観的であるとはいえない。しかし筆者は、長い年月をかけて香港やその他の外交問題に詳しい学者・公務員・国会議員やマスコミの外国通信員を相手に香港のあらゆる面について論議しており、その経験に基づいた意見ではある。

1. 事情通の見方

事情通とは、ここでは香港や中国問題に詳しい人々を指し、外務英連邦局(FCO)やマスコミ界、実業界、金融界や学界などに属し、中国と香港に関する専門的知識を持つ者を指している。FCO職員は当然口が堅く、個人的な意見を述べるわけにはいかない。また実業界や金融ビジネス関係者は、悲観的な見方を表明したことによって、その通りになってしまうことへの恐れから、公式にはあくまでも楽観論を主張する。すなわち筋の通った見解を述べるのに最もふさわしい人たちに限って、何らかの理由で真の見解を述べることができないのである。したがってかわりに筆者自身の意見を述べることにする。上述の通り、あらゆる業界の専門家とのやり取りを重ねることによりできた意見ではあるが、個人的な意見であることには変わりがない。

香港の主権返還問題に対するイギリス一般市民の気持ちは、実に複雑である。植民地時代を通して、結果的に誇りに思う部分は確かにある。アヘン戦争時代に香港が岩だらけの、不毛な島(注4)と称されたのはあまりにも有名であるが、現在の香港が20世紀後半を代表する近代都市となり、一人当たり平均所得で宗主国のイギリスを上回り、イギリス統治下に成立した効率の高い、公正な行政機構、自由や法律に基づいた制度などの要素が現在の香港サクセスストーリーを可能にしたということに対する誇りである。

イギリスの植民地のなかで、香港は最も自治国家になるための準備ができていたといえるであろう。イギリス人は香港の経済的繁栄を誇りに思う半面、その香港が独立できず中国に返還されてしまうことに心を痛めているのである。1960年にイギリスは香港人のイギリス在住権を取り消し、84年には香港人の存在を無視して中国への返還に合意したわけである。その中国政府が独裁政権であり、時に国民に対して非常に残酷であるのをみて、イギリス市民は返還される香港に対して良心が痛むのである。

しかし、84年に発表された英中共同声明により、イギリス側は少しだけ自信を取り戻している。英中共同声明は中国とイギリスとの間のきわめて長期にわたる交渉から生まれたもので、中国は香港特別行政区(Special Administrative Region以下SAR)の成立から50年間は一国二制度を遵守するとしている。この共同声明は国連でも承認されており、国際条約上の拘束力もある。また少なくとも短期的には、香港経済には楽観論が圧倒的に多く、82年に始まった英中間の交渉において発生した数多くの政治的トラブルは香港経済の将来へは影響を与えていないようだ。むしろこの15年間、香港の株価指数は5倍にもなっており、香港の不動産市場も高騰する一方だ。

パッテン総督が導入した選挙制によって設立した立法評議会(LEGCO)が無効とされ、中国側に任命された400人からなる臨時立法評議会(PC)が代わりに成立することになった。もちろんイギリス側はこれをかなり心配している。そのPCはすでに香港の基本的自由を一部廃止する姿勢をとっており、中国政府の定義する政府転覆活動を対象にさらに厳しい法律が成立することも懸念されている。いずれは新しい選挙方式が導入されることになっているが、現在は香港立法評議議会で多数派を占めた民主党が永遠に少数派になってしまうではないかという警戒の声が高まっている(注5)。新しい選挙方式について中国国務院香港マカオ弁公室の魯平主任は開放的で、自由な選挙方式になると自画自賛しているが、PCは同方式のあり方について最終決定をしていない。イギリス側はPCの適法性について強く抗議しているが、中国側は相手にせず抗議の声を無視している。抗議による変化が期待できないとしても、道義上、抗議せざるをえないというのがイギリス側の姿勢である。また主にアメリカを始めとする西洋諸国に対し、警告のクラクションを鳴らすという意味もある。さらに現地の香港人が、自らの人権や利益のために闘うように励ますというもう1つの目的もあった。

初代行政長官に選ばれた董建華氏は、イギリス市民に一般には支持を得ている。同氏が単なる北京の操り人形になってしまうという懸念もあるが、北京の意向に従いながら香港一般市民の信頼を得ることが、どれだけ大変なことであるかは十分に理解されている。行政府委員に同氏が任命した者の大部分が保守的実業家であることや、4人の共産党員を任命したことが批判されたが、全体的には現在の行政公務員をそのまま雇用し続けることに決定したことが高く評価されたのである。SAR政府が効率的かつ公正に行政を行うためには、現行の公務員が残り制度が続いていくことが不可欠だからである。事実、これまでの行政府の公務員がそのまま新体制に移行することは、独立した行政府と法のもとの統治と並んで、これまでの香港サクセスを可能にした社会構造を支える3つの柱の1つとして認識されている。自律的な行政府は独立した司法機関の設立によることはいうまでもなく、司法長官の任命や最終控訴院の構成メンバーなどの人選が注目されている。能力のある裁判長や弁護士が従来通りの役割を果たすには、独立した立法評議会が存在することが前提条件である。換言すれば行政府ひいては行政長官の影響を受けない立法の存在が重要であり、この意味でイギリス側が行政府の仕組みについて懸念するのは当然である(注6)。

2. パッテン総督とクラドック卿の対立

イギリスは、長期にわたり厳しい折衝が続けられてきた香港返還を巡る中国との交渉結果が、香港が高度な自治を実現するのに十分なものであったかを気にかけている。これについて行われている議論の中心は、民主主義の定着を重視するか交渉の継続性を重視するかである。その主役は、現在の香港総督クリス・パッテンとサッチャー元首相の外交顧問であったクラドック卿の2人である。パッテン総督は総督就任以降、一義的に民主主義を香港に導入する努力を続けてきた。これに対してクラドック卿は、パッテン総督を激しく批判しつづけている。香港に民主主義を導入することは600万人の将来を賭けた無茶な冒険であるとし、こうした行為は、英中合意に基づき抑えてきた、より厳しいコントロールを香港に導入しようとする中国側の行為を正当化させるものである(注7)と批判している。クラドック卿の主張によると、以前の英中合意では、中国が規制や自由などに制限を加えない代わりに、イギリス側は主権返還までの間、香港の政治体制への干渉を控えめにするという暗黙の了解が成立していたとしている。92年の退職まで、クラドック卿は中国との交渉においてイギリス側の最高責任者であり、同氏の交渉スタイルは相手がこれ以上譲れないところまで押して、合意をするであった。また中国に対して、あからさまに政治介入することは逆効果なだけで、それは結果的に、中国が中国側の都合にのみ配慮した解決方法を導入することになると主張した(注8)。

これに対してパッテン総督は、香港のシステムが維持できる最低限の水準を明確にして、これ以上に中国に譲歩することは香港のためにはならないというスタンスをとった。パッテン総督とクラドック卿の最も大きな相違点は、香港人に対する考え方であろう。クラドック卿の考えは、香港の一般市民は一般的に十分な情報が与えられておらず、楽観的に考える傾向があるため、香港人の将来のためにはイギリスと中国との間の交渉により決着をつけることが最善であるというものである。

一方、パッテン総督は、当初から香港人の意見を重視し一般人の声をよく聞いてから、中国にさまざまな提案を出したわけだが、それはすべて中国に拒否された。いわゆるクラドック卿流交渉モデルは80年代初期に始まったが、当時は民選による立法評議会議員は1人もいなかった。パッテン総督が登場した92年には、ほぼ全議員がなんらかの形で選挙に当選し、選出されていたのである。忘れてはならないことであるが、また92年当時は、89年6月4日の天安門事件がまだ比較的近い過去の出来事であったという点である。

民主主義を原理とする政治体制という社会構造のもとで、香港人の生活がどのように続いていくのかが、返還後の香港についての最大のポイントであろう。しかし、1997年6月30日の返還式が終わった後の時代になってもなお、返還までの英中交渉過程や、返還それ自体の是非を巡っての議論は続いていくことであろう。

3. 1997年以降の香港

香港、香港人、香港の将来-こういった話題に対してイギリス人はさほど関心を持っていないようである。しかし一般市民の関心の有無とは関係なく、現在も将来も香港はイギリスに大きな影響を与えるであろう。経済面についてだけみても、中国、アメリカ、日本や台湾の規模には達しないまでも、イギリスの香港向けの輸出は年間27億ポンドに達しており増加する一方である。在香港イギリス系企業の数は1,000以上あり、総資産は700億ポンドに達すると推定されている。なによりもイギリス系企業にとっての香港の最大の役割は、やはり中国そしてアジア地域全体への窓口としての位置づけであろう(注9)。返還後でもなんらかのイギリス国籍(外務省の定義)の保持者が350万人を超え、海外でイギリス政府による保護を受ける権利を持っている。返還後の対応策としてイギリス最大の大使館が香港に建設された。また、英・中間の共同目標の達成を進め、97年における主権の順調な移行を保障するため、また、97年7月1日以降も英中共同声明の実施状況を監督するために、連合連絡小部会(JLG)が設置され2000年まで業務を遂行することが定められている。また共同声明の発表など全般的な香港の現況について、外務大臣がイギリス下院において半年ごとに発表することになっている。

JLGの設置やイギリス国籍保持者の存在にみられる通り、香港とイギリスとの関係は続くわけだが、もちろんこのような政府レベルの関係で終わってしまうわけではない。今までと同様に、文化や社会などの面でもお互いにとって意義のある関係が続くことであろう。

リフキンド外務相が、中国政府が期待通りに共同宣言を守るかどうかが心配だと述べたことがある。これこそが香港人の最大の不安である。中国側が香港が大変複雑な組織であることや、経済的自由と政治的自由が相互に深く関わっていることなどに対して完全には理解していないのではないかということが問題となろう。不安材料が多いことは確かである。香港の高度な自治はどれだけ守られるだろうか。法治や自由などは徐々になくなってしまうのではなかろうか。国連の条約により、国連加盟国が自国における人権問題などについて定例的に報告することが義務づけられているが、中国がSARにその責任遂行を認めるであろうか(注10)。このようなさまざまな問題についてイギリス政府関係者は、公式・非公式に中国との交渉を進めると同時に、香港との利害関係の重要性を理解している第三者の支持を積極的に求めていくつもりである。

これらの問題が香港にとって非常に大きなインパクトを与える要素であることはもちろんだが、より広い意味では、中国が国際的な基準・標準に従うのにどれだけの準備ができているかをみる面でも、これらの問題は重要である。イギリスが各問題を大きく取り上げたことによって、中国の香港返還における賭けの要素は大きくなってきた。言い換えれば、国際社会の注目が集まることにより中国が約束を守った場合得る利益が大きくなる分だけ、約束を破った場合の損害も大きくなる。中国側が国際社会が認識する香港に対する義務を果たせば、それだけ中国の国際社会への参加度が深まり、WTO加盟やアメリカ・アジア地域諸国との外交関係が大幅に改善されるであろう。また特にこの台湾問題への影響も無視できない。

約束が破られた場合を考えると問題はかなり深刻である。まずはアメリカ、日本やその他のアジア諸国との外交関係が急激に悪化するに違いない。特に台湾の不信度がかなり増加するであろう。そして海外からの投資が香港に入らなくなることから、中国の国内経済成長が鈍化し、中国国内が混乱状態に陥る。国際社会からみると、この事態に対するイギリスの責任が重いと認知されてしまうため、イギリスの東アジアにおける長期的経済利権はかなりのダメージを受けるであろう。皮肉にも、たとえ中国への主権返還がうまくいったとしても、それでイギリスが名誉を勝ち取ることにはならない。SAR政府は自ら香港の存在意義を構築していくであろうし、ロンドンよりも北京や隣の広東省との協力関係に焦点を移すことになろう。イギリスの植民地から中国の一部になる香港にとって、以前のイギリスとの関係よりも中国との関係がより身近になるし、中国側としてもイギリスとの香港の関係を薄める方向に持っていくであろう。経済の関わりという面でも、日本や台湾、アメリカなどに比べると、イギリス経済と香港経済との関係は徐々に小さくなっていくものと思われる。

4. 結び

おそらく返還を前にした一般的なイギリス人の気持ちは、香港におけるイギリス支配の終焉という事実に対する一抹の寂しさであろう。香港はその特殊な地理的条件や歴史的な背景などから独立国家にはなれず、イギリスから中国へ返還される運命となった。イギリス的な社会構造と中国的慣習が複雑にからみ合った香港を、中国は果たしてうまく運営していくことができるであろうか。もちろんイギリス統治下の香港は、決して民主的政治体制が整えられたとはいえなかったが、香港人は法律への信任のもとに自由を最大に享受し、個々人が自らの生き方を選択してきた。香港における高度な自治を保障するために民主制度が導入されたが、その導入が遅れていたことは否めず、歴史的な浅さから民主主義体制が完全に成立しているとはいえない。イギリスの一般的な見解では、香港の意向は別として、時間がたつにつれ中国側からの圧力により香港の特徴が少しずつ削られてゆくであろう。大英帝国がこんなふうに終わり、そしてイギリスにとって最後の重要な植民地香港がこのような結末を迎えることは悲しいと考えているのである。しかし他にとるべき道があったかどうか、いまだに分からない。

もちろん皆が悲観論に傾いているわけではない。より良い方に考えようとすると、実はいくつかの明るい展望があることに気が付くのである。中国と香港の一体化は以前からも続いており、政治面でのトラブルなどに影響を受けず経済成長は持続しているし、今後当分の間も続くであろう。新しい主人となる中国との関係が密接になるにつれ香港は変化するであろうが、香港が自ら決め香港にとってよい条件のもとで変化していくことを祈っている。元主人となるイギリスは、SAR政府のことを見捨てず、むしろ国際舞台の先頭に立って共同宣言の実施状況を注意深く監督し、遠くから香港を見守り続けるであろう。

注  

1.Foreign & Commonwealth Office, Britain & Hong Kong Twenty Things You Always Wanted to Know about Hong Kong (London : Foreign & Commonwealth Office, July 1996)

2.詳しくは Hong Kong 1996 (Hong Kong Government Publications), Appendix 17, p.17を参考されたい。

3.Kevin Rafferty , City on the Rocks : Hong Kong's Uncertain Future (London : Penguin Books, revised and Updated, 1991) pp.512-517

4.1941年、当時のイギリス外相がこう香港を形容した。Frank Welsh, A History of Hong Kong (London : Harper Collins Publishers, 1993) p.108

5.魯平主任の3月20日、ドイツ・ハンブルクにおけるスピーチを参考にされたい。

6.以前はそれほど重視されていなかった問題である。司法の独立のもとになるのが、イギリスで長い歴史を持つ慣習法、ロンドンにある最終控訴裁判所、および民選議員からなるイギリス議会の下院という3つの柱であった。もっと早い時期に選挙による立法評議会体制を導入したほうが賢明であったが、北京政府の猛烈な反対から現実的には無理な話であった。過去40年間イギリスが香港を統治できたのは、北京政府の暗黙の了解があったからである。北京政府の基本的な利益と対立しないように配慮してきたからこそ、イギリスはその宗主国としての地位を保持できたといえよう。詳しくは、筆者のHong Kong : China's Challenge (London : Routledge, 1996) pp.44-49 Prospect(イギリスの政治テーマを扱う月刊誌)の97年4月号参照

7.Prospect(イギリスの政治テーマを扱う月刊誌)の97年4月号参照

8.詳しくは同氏のExperiences of China (London : John Murray ,1994)を参照

9.FCO, Britain and Hong Kong (London : FCO, July 1996)

10.香港年鑑(1996年版)、リフキン外相の序文より(1997年3月20日に発表)
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