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【PERSPECTIVES】
「21世紀へ向けてのEU統合の展望」

1996年01月25日 調査部 河村小百合


1.はじめに

1992、93年の欧州通貨危機の後、やや下火になっていたEU経済・通貨統合を巡る議論が、最近再び活発化している。これは、93年11月に発効した「欧州連合条約(通称マーストリヒト条約)」の定める単一通貨の導入、すなわちEU経済・通貨統合完成の期限(現在実質的には1999年)が接近してきていることによるものである。 EUという限定された地域内、しかもそれぞれが国民国家としての歴史的な背景を有する複数の国家を含む地域内における単一通貨の導入という試みは、世界経済史上他に例のない、きわめて野心的なものである。そこで本稿では、経済・通貨統合実現に向けてのEUのこれまでの歩みと最近の動きを整理したうえで、単一通貨導入に伴う問題点、およびその実現可柏ォを検討することとしたい。

2.経済・通貨統合実現に向けてのこれまでの歩み

(1)「経済・通貨統合(EMU)」国zの萌芽

「経済・通貨統合(Economic and Monetary Union)」国zの起源は、今から約25年前の1970年前後に遡る。67年のEC発足後間もない当時の状況をみると、ECの外部環境面では、ブレトンウッズ体制崩壊の兆候が次第に顕現化し、米ドルに対する不信感が増大していた。 また、EC内では、加盟国間で大幅な為替レートの調整が生じ、64年に採用された共通農業政策(Common Agricultural Policy、注1)の維持が困難となるような状況が生じ始めていた。 すなわち、共通農業政策においては、主要農産物に域内共通価格を設定することにより各国農業の保護を図る価格支持政策が柱となっていたが、為替レートの大幅な切り下げが生じると、共通価格を維持するためには、為替レートの切り下げと同幅で国内農産物価格を引き上げなければならなくなるため、当該国の農家にとっては大きな打撃となる。そこで、69年のドゴール辞任の際に、フランの平価の11.1%もの切り下げに追い込まれたフランスでまず、「通貨補償金(注2)」という制度が導入された。これは、後にドイツでも採用されたが、CAPの原則を守りつつ、為替レート変動の影響を相殺するために、財政に相応の負担を強いるという制度であった。 このようにCAP維持のためのとりあえずの対策は用意されたものの、為替の平価の変更が続くようであれば、各国の政策スタンスを過度に保護主義化させかねず、CAP制度そのものの存続が危ぶまれたため、EC各国においては、為替レートの安定がとりわけ強く希求されるところとなった。

こうした状況下で、69年のハーグECサミットにおいて、西ドイツのブラント首相により、経済・通貨統合国zが提唱された(図浮P)。この国zはその後、ルクセンブルクの首相であったウェルナー氏を長とする委員会で検討され、70年10月に提出された通称「ウェルナー報告」にまとめられた。これは、最長10年間の期限内にEC内で経済・通貨統合を達成しようとするもので、経済パフォーマンス収斂のための政策協調と単一通貨導入に向けての取り組みを同時並行的に進めようとするものであった。

もっとも、その翌年の71年8月には「ニクャ刀Eショック」が起こり、アメリカはIMF協定に反してドルの金兌換制を一方的に停止し、第二次大戦後の世界経済の発展を支えたブレトンウッズ体制は幕を閉じた。その後、同年12月からは、「スミャjアン体制」下で固定相場制への復帰が試みられたものの長続きはせず、73年3月までに、世界の主要通貨のすべてが変動相場制への移行を余儀なくされた。

70年代入り後、このように国際金融情勢が激動する中においても、前述のように為替レート安定を強く希求するEC諸国は、経済・通貨統合を目指す努力を、細々とした形ながらも継続した。すなわち、71年8月の「ニクャ刀Eショック」直後のEC理事会において、早くも、EC内通貨間の為替相場の変動を一定の狭いバンド(中心レートの上下<直径>1%)の中に維持しようとする提案が、ベネルクス3国からなされた。 本提案はこの時点では他のEC加盟国の賛同は得られず、とりあえずベネルクス3国のみで実行に移されたが、その後、EC全加盟国が参加して採用された「スネーク制度」の原型となった。すなわち、72年4月にはEC中央銀行間協定(通称「バーゼル協定」)が締結され、為替相場の変動を中心レートの上下(直径)2.25%以内(ただしベネルクス3国のみは1%以内)に収めようとするシステムが、EC全加盟国の参加によって実施に移されたのである。 当時はまだ「スミャjアン体制」下にあり、各国通貨の対米ドル変動幅は中心レートの上下(直径)4.5%とされていたため、EC諸国のこの制度は「トンネル(スミャjアン体制下での直径4.5%)の中のヘビ(直径2.25%)」と呼ばれた。73年3月の変動相場制移行後は、「トンネル」が消滅することとなったため、「トンネルの外に出たヘビ」と呼称された。もっともこの後、同年秋には第一次石油ショックが起こったため、国際通貨情勢は激動が続き、この「スネーク制度」においても、中心レートの再調整が頻発したほか、参加国としてEC全加盟国が揃ったのは発足当初のみで、その後はフランスをはじめとする各国が制度への離脱と参加を繰り返すなど、安定したシステムとはなり得なかった。

(2)「欧州通貨制度(EMS)」の発足から「マーストリヒト条約」の発効まで

前述のように、70年代に細々と試みられた「スネーク制度」は結局瓦解してしまったものの、為替レートの安定を希求するEC諸国の意思は強く、同年代末には、新たな域内通貨制度の穀zが模索され始めた。

具体的には、78年4月のコペンハーゲンEC首脳会議において、フランスのジスカールデスタン大統領とドイツのシュミット首相により、EC全加盟国が参加する通貨制度の国zが提案され、79年3月の欧州通貨制度(European Monetary System)の発足に結びついた。これは、為替レートの許容変動幅こそ、前身となった「スネーク制度」より若干拡大(中心レートの上下各2.25%(直径は4.5%)されたものの、「スネーク制度」と同様、為替レート維持のために各国に市場介入などの厳しい義務を課し、そのための各国間の介入資金の相互供与システムも用意するものであった。そしてこれこそが現在試みられているEMUの端緒となったのである。

EMS発足当初の80年代前半は、世界的な経済情勢の影響もあって、中心レートの再調整(リアラインメント)が頻繁に行われた(図浮Q)。とくに83年までの4年間では、79年の第二次石油ショックの影響などから、加盟国間のインフレ格差が拡大したため、7回もの大規模なリアラインメントが行われた。もっともその後90年までの7年間では、各国の経済パフォーマンスが収斂し始めたことを映じて、リアラインメントは5回にとどまった。加えて、規模的にも、例えば85年のリアラインメントでは実質的にはフランス・フランのみが切り下げの対象、86年はイタリア・リラのみが切り下げの対象、というように、各回とも実質的には単独通貨を対象とする小規模なもので済んだのである。このように、EC諸国の経済が安定してきたことを背景に、経済・通貨統合実現に向けての取り組みは、80年代後半に急速に進展することとなった。
85年のドロール氏のEC委員長就任が、こうした動きに弾みをつける大きな契機となった。すなわち、EC経済・通貨統合検討委員会によって89年に提出された「ECにおける経済・通貨統合に関する報告書(通称ドロール報告)」が、単一通貨の導入に至るまでの3段階からなるアプローチ(図浮R)を初めて提案し、これがその後の諸手続を経て大筋で採用され現在に至っているのである。

ドロール報告はまず、89年6月のEC首脳会議において検討された。第二、第三段階のスケジュールについては、最終目標である単一通貨の導入方式についてイギリスが金融・通貨政策主権の委譲に強い難色を示したことなどから合意に至らなかったものの、各国間の金融政策の協調強化を主たる内容とする第一段階については90年7月にスタートするとの合意がなされ、嵐闥ハり開始された。この体制下で、同年10月には、EC加盟国でありながら10年以上の間参加を渋り続けていたイギリスのEMS加盟も実現した。

その後は、90年7月に経済統合、同10月に政治統合を達成したドイツ統一の動きが周辺諸国には脅威となり、その勢力を封じ込めるために経済・通貨統合の実現が急がれたという事情もあって、第二・第三段階の進め方に関する討議は継続され、ついに91年12月には、マーストリヒトEC首脳会議において、「欧州連合条約(通称マーストリヒト条約)」に関する基本合意(図浮S)に達した。 これは、EMU第二段階、すなわち、各国間の金融・財政政策の協調強化や欧州通貨機関(European Monetary Institute)の設立を主たる内容とする段階を94年1月に開始し、最終目標である単一通貨の導入を実現する第三段階については、参加国の判定に関し、物価、金利、財政赤字、為替面での厳しい条件を課し、全加盟国の半数以上の国がその条件を満たした場合との条件付きで早ければ97年1月に移行、それが不可狽ネ場合には達成した国のみで遅くとも99年1月には移行する、とのきわめて具体的なスケジュールを決定するものであった。 その後、デンマークにおける国民投票で同条約の批准が一度は否決されるなど一部の国で批准手続きが難航したため、マーストリヒト条約は、デンマークとイギリスに対し、経済・通貨統合の第三段階には加わらない自由を認める(いわゆる「オプト・アウト条項」)などの修正が加えられた形で、93年11月に漸く発効に漕ぎ着け、それと同時にそれまでの「欧州共同体(European Community)」に代わる「欧州連合(European Union)」が発足した。そして94年1月には、同条約の規定通りに第二段階が開始され、現在に至っているわけである。

また、この間、域内市場統合の面では、85年の「域内市場白書」、およびこれを受けた86年の「単一欧州議定書」によって定められたスケジュール通りに、93年1月には市場統合、すなわち、域内での人、財・サービス、資本移動の自由化が一応完了し、単一市場が完成した。

(3)「マーストリヒト条約」の描いたEMUの楽観的シナリオに対する市場の挑戦

もっとも80年代後半から90年代初期にかけて大きく加速した経済・通貨統合実現に向けての取り組みは、そのまま順風満帆な状態で進展するわけにはいかなかった。 すなわち、マーストリヒト条約の批准が92年6月にまずデンマークで否決されたことを契機に、金融・為替市場の参加者達は、ドロール氏率いるEC主導の経済・通貨統合実現計画が、?自国の主権の委譲に疑問を感じるという各国の国民の世論を必ずしも反映していない、また、?各国の当時の経済パフォーマンスを反映したペースのものとはなっていない、と判断したのである。具体的には各種ヘッジファンドなどの為替市場の投機筋が、前述のいわゆる「デンマーク・ショック」以後、各国通貨当局を相手に、経済・通貨統合最終段階への参加が危ないと目される通貨を標的として大規模な売りを仕掛けた。その対象は、ドイツ・マルクおよびそれと緊密な連動関係にあるオランダ・ギルダーを除く他のほぼ全通貨に及んだ。 各国通貨当局は、為替レートメカニズム(Exchange Rate Mechanism)の仕組み上、自国通貨の上・下限レート維持のためには無制限に介入しなければならない義務を負っており、そのためのERM加盟国相互間での資金融通システムも一応は整備されていた。 しかしながら、オプションなどの金融派生商品(デリバティブ)の発達により、このような投機筋が相対的には少ない元本を元手にきわめて巨額の取引を瞬時に行うことが可狽ニなった国際金融市場においては、ERMというシステム自体が想定している以上の額の売りを集中的に浴びせさえすれば、当局は自国の国内金融市場の調節上のテクニカルな制約の問題などを理由に(注3)これに抵抗することは不可狽ニなる事態が生じていた。すなわち当局は、設定している自国通貨の中心レートが市場の信認を得られないものであれば、その切り下げを必然的に迫られてしまい、投機筋は各国の介入資金(外貨準備)を相手に巨額の利益を必ず得ることができるという、「一方向の(one way)ゲーム」、言い換えれば、帰着する結果は「投機筋側の勝利、通貨当局の敗北」という1つに限定されているゲームが成立してしまったのである。

その結果、92年9月のERM危機においては、イギリスがポンドをERMから離脱させたほか、中心レートを一度大幅に切り下げたにもかかわらずこれを防衛し得なかったイタリアも、リラの為替レート維持のためのERM上の介入義務を放棄し、実質的にはERMから離脱するという、EMS創設以来の重大な事態に至った。その後も特定通貨を狙い撃ちする市場の攻勢は収まらず、スペイン・ペセタ、ポルトガル・エスクード、アイルランド・ポンドが1回ないし2回中心レートの切り下げを余儀なくされた。  その後93年の初夏に、史上最大の波乱が到来した。92年のERM危機以降、絶えず投機筋の売り仕掛けの対象とされながらも、ECの盟主としてドイツの全面的なバック・アップも得て、辛うじて中心レートを維持してきたフランス・フランが、独仏金融・通貨政策当局の協調の足並みの乱れを材料に、ついに投機筋による売りの集中砲火の対象とされたのである。 同年8月、各国政策当局は協議の結果、フランスの威信に傷の付くフランの中心レートの切り下げではなく、ERMの変動許容幅をそれまでの±2.25%から±15.0%へと大幅に拡大して、投機筋の動きを抑える道を選んだ。その背景としては、92・93年の欧州経済が、ドイツ先導の度重なる金融引き締めによって景気は悪化し、失業率も大幅に上昇するという悪循環に陥っており、為替レートの維持のために、これ以上景気を犠牲にはできないという事情が存在した点が指摘できる。

こうして、域内加盟国間為替レートの変動幅の縮小を目標に79年にスタートしたEMSも、14年後の93年8月には、実質的には変動相場制と大差ないようなシステムへの逆戻りを余儀なくされ、現在に至っている。その後は、リアラインメントこそ95年3月のスペイン・ペセタ、ポルトガル・エスクードの切り下げの1回にとどまってはいるものの、EU各国は、92、93年のERM危機で実証された、マーストリヒト条約の描く経済・通貨統合の楽観的シナリオの実現可柏ォに対する疑問と、正面から向き合わざるを得なくなるに至った。

3.経済通貨統合を巡る最近の動き

経済・通貨統合を巡る最近の動きをみると、マーストリヒト条約では、第三段階(単一通貨の導入)移行の時期や条件などについての大枠を定め、その細部の議論は、96年に嵐閧ウれている政府間協議(Inter Governmental Committee)で行うことになっているため、EMU第三段階開始の方式をどのようにするか、などの点に関する議論が95年入り後活発化している。 95年12月のマドリッドEUサミットでは、新単一通貨の名称を「ユーロ」とすること、テクニカルな単一通貨の導入方式としては「クリティカル・マス方式(後述)」を採用することなどが正式に決定され、若干の前進がみられた。しかしそこでの決定事項は、単一通貨導入の形式的な面にとどまっており、単一通貨導入後のシステムをいかに首尾良く機狽ウせるか、単一通貨導入の時点で第一グループに残れなかった国との関係をどのように維持するか、といった本質的な問題には全く言及はなされていないのが現実である。

(1)単一通貨導入の形式的な問題-「クリティカル・マス方式」と「ディレイ・ビッグバン方式」

まず、単一通貨の導入の際に採用する、技術的な移行方式については、95年5月に欧州委員会から「グリーン・ペーパー」(図浮T)が発浮ウれ、「クリティカル・マス方式」の採用が提案された。これは、単一通貨の導入という第三段階をさらに三つの局面に区分し、実際の単一通貨建て取引の開始に際してはホールセール取引などの大口取引、銀行間取引(いわゆるクリティカル・マス)を先行させてスタートさせ、リーテイル取引への導入は一段階遅らせるというものである。これは、マーストリヒト条約における「単一通貨の速やかな導入」という項目に対する配慮や、国民が新単一通貨に慣れ親しむには時間を要するとの判断から提案された方式である。 しかしながら当初ドイツは、この方式では、単一通貨建て取引を大口取引に採用してから個人取引に採用するまでの間に、各国通貨と新単一通貨との「二重アカウンティング」の期間が発生してしまい、それに対応するためのコストが金融機関を中心にかなり嵩むという理由からこの案に反対し、「ディレイ・ビッグバン方式」の採用を主張していた。これは、各国通貨と単一通貨との交換比率を固定した後(「グリーン・ペーパー」における「フェーズB」)、一定期間をおいて(「グリーン・ペーパー」でいえば「フェーズC」の時点で)一斉に単一通貨を導入するというものであったが、同7月にブンデスバンクが、ドイツ金融界の理解が得られたとして譲歩したため、欧州委員会の提案する「クリティカル・マス方式」の採用に関して、主要国間のコンセンサスがほぼ得られた格好となった。 すなわち、現行マーストリヒト条約の規定通りに99年に単一通貨の導入が実施されるのであれば、実際には、2002年にはリーテイル取引においても統一通貨が使用されるようになる、という目処が明らかになったわけで、テクニカルな移行方式面では大きな前進がみられた。この点は、95年12月のマドリッドEUサミットでも正式に承認され、同時に新単一通貨の名称も「ユーロ」に正式に決定された。

(2)「2スピード方式」が現実的に

2.(2)で述べたように、経済・通貨統合第三段階への移行(単一通貨の導入)に際して、マーストリヒト条約では、物価、金利、財政赤字、為替相場に関する5つの「収斂条件」(図浮U)が規定され、これを加盟国の半数以上が満たした場合との条件付きで早ければ97年1月に移行、それが不可狽ネ場合には達成した国のみで遅くとも99年1月には移行する、と定められていた。

もっとも、EU各国の最近の経済パフォーマンスから、この「収斂条件」の達成状況をみると(図浮V)、5つの条件のすべてを満たしているのはドイツとルクセンブルクのみ、次点もフランス、デンマーク、アイルランドのみという状態である。こうした実情に鑑み、マーストリヒト条約における「早ければ97年」との規定を実現することは事実上かなり困難ではないか、との見方が市場ではかねてより有力となっていたが、95年6月のEU蔵相理事会は、そうした見方を追認する形で、「早ければ97年」との規定の実現可柏ォを非公式ながら否定した。

その後は、「遅くとも99年」との規定のみが事実上効力を有する状態となったが、単一通貨の導入を99年に遅らせるとしても、助ェな数の参加国が揃わないのではないか、ないしは、主要国においても、99年までに「収斂条件」の達成を図るとすれば、そのデフレ作用が大き過ぎるのではないかとの意見が、一部の参加国(イタリア、イギリスなど)や政党(ドイツの野党のSPD)から楓セされるに至った。 しかしながら、95年12月のマドリッドEUサミットにおいては、経済・通貨統合第三段階移行はあくまで99年に開始するという点が再確認されたほか、98年初頭には第三段階移行に当たっての参加国を決定し、その直後には参加国の金融政策運営を一元化する欧州中央銀行制度(European System of Central banks)を設立する、との点が決定された。こうした決定に鑑みれば、経済・通貨統合第三段階へは、「収斂条件」を満たした一部の国のみで移行するとの、いわゆる「2スピード方式」の現実性がさらに増したと言えよう。

(3)単一通貨導入のより本質的な問題の解決は先送りに

しかしながら、95年12月のマドリッドEUサミットでは、単一通貨導入後の新システムをいかに首尾良く機狽ウせるか、単一通貨導入の時点で第一グループに残れなかった国との関係をどのように維持するか、といったより本質的な面にまで踏み込んだ決定はなされるに至らなかった。

例えば、上記?の点に関しては、95年11月にドイツが、単一通貨導入後の参加国に対して、財政面で「欧州連合条約」が定める以上に厳しい条件をさらに課す「欧州安定協定」という提案を行っている。これは具体的にはマーストリヒト条約の定める単年度の財政赤字幅の対名目GDP比率が3%以下という条件をクリアーして、第三段階への移行を果たした国は、単年度の財政赤字幅の対名目GDP比率を通常は1%以内にとどめるように運営し、経済状態が悪い場合でも最大3%以内に抑制しなければならず、この比率が3%を超えた場合には自動的に制裁(GDPに対する一定比率の金額の無利息の預金としての拠出)を科す、というきわめて厳しい内容のものである。ドイツとしては、第三段階移行後に誕生する新通貨の価値が現在のドイツ・マルク以下のものになってしまうことをもっとも恐れており、強い通貨マルクの喪失を懸念する国民世論にも配慮して、新通貨の価値を担保するために、言い換えれば新制度が首尾良く機狽キるように、マーストリヒト条約が要求するよりも厳しい条件を課す内容の提案を行ったものとみられる。 しかしながら、フランス、オランダ、オーストリアはドイツの「欧州安定協定」案に対する支持をすでに楓セしたものの、欧州委員会としては、ドイツの提案に対しては慎重な姿勢を崩していないほか、95年12月のマドリッドEUサミットにおいても、この問題が議論に取り上げられたものの、正式な合意をみるには至らなかった。

また、上記の問題についても、単一通貨導入の時点で第一グループに残れなかった国について、その通貨が為替市場で投機筋による売り圧力の対象とされたり、もしくは「近隣窮乏化政策」的な発想から、自国の景気押し上げのための為替切り下げ競争に走ったりすることのないようにすることが必要であるという問題が存在する。こうした観点に立ち、欧州委員会のドシルギー委員(経済・財政・通貨担当)から、単一通貨導入の時点で第一グループに残れなかった国の通貨について、現行のEMSに代わる新制度を導入することが必要である、との提案が95年10月末になされていたものの、この点に関しても12月のマドリッドEUサミットでは、具体的な決定は何らなされるに至らなかった。

確かに「欧州安定協定」の実現や、EMSに代わる新制度の導入に際しては、それぞれ新たな法的手続きが必要ではあるものの、その前段階であるEU首脳レベルでの意思決定もできなかったということは、各国とも、目先の「収斂条件」の達成に精一杯で、単一通貨導入後、新システムをいかに有効に機狽ウせるかという本質的な問題は先送りにされているのが現実であると言えよう。

4.EU加盟国の最近の状況

以上述べてきたように、EMU実現のためのスケジュールや条件が徐々に具体化されていることを受け、EU加盟各国は、単一通貨導入のための「収斂条件」を満たすために、政策運営上真剣な努力を行っている。総じて、財政政策運営スタンスの緊縮化が強まっているために、そのデフレ作用を映じて各国とも景気拡大ペースの鈍化を余儀なくされているほか、政府の提示した抜本的な改革案に対するストライキにより、国民生活に深刻な影響が及んでいる国もみられる。換言すれば、EUとして単一通貨を導入するための見返りとしての、各国経済へのマイナスの負担が再び顕現化しており、それほどまでしても単一通貨を導入するのかという点に対しての最終的な決断を各国が迫られている状況にある。

例えば、ドイツでは、95年1月に、財政赤字削減のため、総額375億マルク、名目GDP比率では実に1%強の規模に達する所得税・法人税増税が実施され、現実にそれが、個人消費、民間設備投資拡大の足枷となり、95年入り後の景気拡大ペースは明確に鈍っている。さらに、同7月には、歳出の伸びを43年振りに前年比マイナス(▲1.3%)とする、96年連邦政府落Z案が打ち出され、緊縮色のきわめて濃い財政政策スタンスが来年以降も継続されることが明示されている。

一方、フランスも95年5月にシラク新大統領の下でジュッペ新政権が誕生したのを機に、財政政策スタンスの一段の緊縮化が図られ、8月には早くも付加価値税が2%ポイント引き上げられた(18.6→20.6%)ほか、法人税などの増税や、大規模な歳出削減を含む総額490億フランの財政赤字削減策が直ちに実行に移された。さらに同9月には、96年落Z案が発浮ウれ、大型の増税と歳出削減による、総額320億フランの財政赤字削減策が示された。これは、一般政府財政赤字幅の対名目GDP比率を95年の5%から96年には4%に引き下げようとするもので、99年1月の経済・通貨統合第三段階移行を前提に、97年までに単年度財政赤字の「収斂条件」を達成して、単一通貨導入の第一グループ入りを図ろうとする、フランス政府の強固な意思が示された形となった。

また、そのうち、今後のフランスの財政赤字の先行きを握る鍵となるとみられながら、この時点では細部の決定が先送りされていた、社会保障特別会計の改革についても、同11月に抜本的な改革案が発浮ウれた(図浮W)。これは、95年には▲610億フランに達しているとみられる同会計の赤字を、96年には▲170億フランにまで縮小し、97年には黒字転換を図るものである。内容的には、新税創設による増税や支出の大幅削減、医師・医薬品業界への応分の負担賦課などを含むほか、将来的には、社会保障特別会計の運営方法の変更や、財源の抜本的な転換をも視野に入れたものであり、この意味で本改革案については、単一通貨導入のためには、従来の制度下における既得権益にもメスを入れるという、かなり思い切った内容との評価を行うことが可狽ナあろう。

フランス国内ではすでに本改革案に反対する公共セクターのゼネストも実施されており、市民生活には深刻な影響が及んでいる。政府側はこの改革案の実行にかける強固な意思をこれまでのところ崩していないため、労組との交渉は不調に終わっており、最終的にどのような形で決着するかについては嵐fを許さない。また、フランスにおける動きが飛び火した形で、デンマークにおいても政府の財政赤字削減策に反対する公共部門のストライキが実施されている。EU各国の政府及び国民が、これほどのマイナスの負担を甘受しても単一通貨を導入するのか、という最終決断を迫られる時期に差し掛かっているのは事実であり、今後の展開が注目される。

5.経済・通貨統合の問題点と実現可柏ォ

次に、マーストリヒト条約をベースとする現在のようなシナリオで単一通貨を導入した際に考えられる問題点を検討し、それを踏まえたうえで、EMUの実現可柏ォを探ることとしたい。

欧州においては、「単一通貨の導入」はすでに至上命題となっている感があり、ともすれば、「単一通貨を導入する意義は何か」という点が助ェに顧みられていない感がある。しかしながら、アメリカの学者などからは異議も唱えられているのが現実で、まず最初に、単一通貨導入のコスト(代償)と、ベネフィット(利益)としては、いかなる点が考えられるのかを検討したい。

(1)単一通貨導入の「ミクロ面の利益」

まず、欧州委員会の立場としては、単一通貨導入の大義名分として、「市場統合の効果を最大限に発揮させるためには、通貨統合の実現が是非とも必要」との考え方を一貫して主張し続けている。これは、90年に発浮ウれた『一つの市場、一つの通貨』で示されたものであり、具体的には、?為替関連コスト、すなわち各種為替取引にまつわるコストや、為替ヘッジのためのコストの削減、?規模の経済の実現(注4)、といった「ミクロ面での利益」を強調する考え方である。EC委員会(当時)は、この為替関連取引コストの削減効果がEC全体のGDPの0.3~0.4%に相当するとの試算結果を90年に発浮オているが、現実問題として「単一通貨導入」の利益としては、このようなミクロ面のものしか見当たらないのが実情である。

(2)単一通貨導入の「マクロ面の損失」

一方、損失面を考えてみると、各国にとっては、単一通貨の導入によって金融政策運営上の主権の喪失を余儀なくされるという、相当に大きい「マクロ面での損失」が発生することになる。これを補完する適切な措置が講じられなければ、「マクロ面での損失」が「ミクロ面での利益」を大きく上回ってしまい、通貨統合に踏み切る意義自体が揺らいでしまうことは確実である。

「金融政策運営上の主権の喪失」とは、具体的には、単一通貨導入後の金融政策運営は、必然的にEU全体として、現在フランクフルトに設置されている欧州通貨機関(European Monetary Institute)の後を受け継ぐ欧州中央銀行制度(European System of Central Banks)によって一本化されることになるため、参加国間の景気情勢に跛行性が出た場合、景気の悪い国が独自の金融政策運営により短期金利の低下を図り、需要喚起を促すことが困難になるということを意味する。 EU各国は、これまで市場統合の完成などにより経済の相互依存度を高めているため、景気波動の同時性は高くなってきてはいるものの、実際には得意とする産業分野も異なり、EU域外、例えばアメリカに対する経済依存度もそれぞれ異なるため、各国の景気波動の局面は異なるのが現実である。ドイツ統一、およびこれに続く92、93年のERM危機は、このように各国の景気波動にズレが生じた局面で各国が金融政策運営の主権を制約されると、どのような結果を招来するかを示した好例といえよう。

当時の状況(図浮X)を振り返ってみると、ドイツの景気局面と他のEU諸国の景気局面との間に著しいズレが生じたのは、東西ドイツの統一という、歴史上きわめて稀な出来事が契機であったとは言え、EU諸国にとっては不幸なことに、そのドイツがEU全体のアンカー国としての役割を果たしていたため、本来ドイツ一国のみにとって必要であった高金利政策の影響を、ERMのシステムを通じて他のEU加盟国までもが被る結果になった。 フランスをはじめとするドイツ以外のEU諸国にとっては、物価は総じて明確な低下傾向にあり、フランスについてはドイツよりも低位で安定していたほどであったことに加え、国内景気情勢は芳しくなかったことから、単純に考えれば、利下げにより国内需要喚起を図ることが政策運営上望ましい選択肢であることは誰の目にも明らかであった。しかしながら、アンカー国であるドイツが、インフレの高進という自国固有の情勢に鑑み、高金利政策を継続したために、ドイツ以外の各国は、国家としての威信にこだわりERMにおける自国通貨の中心レートを維持するために、自国の景気情勢にはそぐわない、高金利政策に追随せざるを得なくなったわけである。 2.(3)で述べたように、政策当局の抱えたこうした矛盾に対して為替市場参加者は真っ向から挑戦してきたため、イギリスとイタリアは92年の第一次ERM危機の時点でこの投機筋による自国通貨に対する売り圧力に耐えられなくなり、ERMから実質的に離脱した。そして金融政策運営上の主権を回復したこの2国は、結果的にはERMにとどまった他国よりも早期に景気回復を実現するという結果となった。一方、フランスをはじめとするERM残留組の景気回復は遅れたが、93年の第二次ERM危機で、こうした矛盾を内包するERMというシステム自体が存続し得なくなり、変動許容幅の大幅な拡大によりこのシステム自体が形骸化を余儀なくされる結末に陥った。

こうした経験は、ERM制度の維持という、単一通貨導入の前段階においてさえも、金融政策運営の主権が制約されると、各国経済にどれほどの損失が及ぶか、言い換えれば、単一通貨導入による「マクロ面での損失」がどれほど大きなものであるかを物語るものであると言えよう。

そして、まさにこの点が、アメリカの学者がEMUの実現に対して異議(注5)を唱える根拠であり、NAFTA(北米自由貿易協定)の締結により自由貿易地域を形成してしている北米地域において、さらに通貨統合を試みようという議論が全く出てこないことの所以でもある。

(3)「マクロ面の損失」を補完する手段と、単一通貨導入の実現可柏ォ

では、こうした「マクロ面の損失」を補完する手段を他に求めることは可狽ナあろうか。 これは、世界各国をどの地域で区切って一つの通貨を導入することが最適か、例えば、日本国内でも、独立した島である本州と九州とで独立した別の通貨を用いることが果たして適当であるか、などの点に関する「最適通貨圏」の議論において論じられる内容である。 「最適通貨圏」の議論によれば、その成立要件とはすなわち、この「マクロ面の損失」を補完するためのものにほかならない。そのうちの主なものとしては、単一通貨圏を告ャしようとする各国間で、労働力の移動が比較的容易であること、連邦的な財政システムが確立していること、の2点が挙げられるのが一般的である。その含意はすなわち、単一通貨の導入によって、各国の金融政策運営上の主権が失われた場合においても、各国間の労働力の移動が比較的容易であれば、景気の悪い地域から良い地域へ労働力が移動することによって、景気情勢の平準化を図り得る、ないしは、当該地域で連邦的な財政システムが確立していれば、景気の相対的に良い地域で法人税や所得税、付加価値税といった税金をより多く吸い上げ、それを原資に景気の相対的に悪い地域での公共投資や社会保障給付などに当てることによって、各国間の景気情勢の跛行性をならすことができるということである。

ちなみに、ドイツ統一の場合は、経済パフォーマンスの全く異なる2国の通貨統合が強行されたものの、この2つの「最適通貨圏」の条件の両方が満たされたため、その双方の経路を通じて、両ドイツ間の経済パフォーマンスの調和に向けての調整が今日もなお続いているわけである。具体的には、1対1という経済実態を無視した交換レートでの通貨統合の強行により、旧東ドイツ地域の産業は競争力を全く失ってしまったため、旧東ドイツ地域から旧西ドイツ地域に向けての職を求めての労働力の移動は今もなお続いているほか、旧東ドイツ地域の復興のため、具体的には失業者に対する社会保険給付や、各種の投資助成措置などの形で、旧西ドイツ地域から毎年2000億マルクもの巨額に上ると推定される、主として財政支出の形態での所得移転も続けられているのが現実である。

次に、EUがこの2つの「最適通貨圏」の成立要件を満たすかを考えるに当たってまず、EUとほぼ同等の経済規模を有する、アメリカ合衆国の場合を検討してみよう。

アメリカ合衆国の「最適通貨圏」成立要件件の充足状況をみると、2つの条件の両方を満たしていることがわかる。 すなわち、まず、の労働力の移動の容易さについては、大きな問題はないと考えられる。それは、一部の州を除き陸続きであり、言語面でも英語が広く共通語として用いられているうえ、歴史的にも開拓以来比較的日が浅く、州毎の文化面での相違もそう大きな問題にはならないと考えられるからである。 また、連邦的な財政システムの確立の面についても、アメリカ合衆国の場合は、景気面での州毎の跛行性が生じた場合、その平準化を図るための連邦政府ベースのスキームも確立しているとみて差し支えないと考えられる。なぜなら、連邦政府の財政規模は国全体としての一般政府の財政規模(その名目GDP比率は3割強)の6割強を占めているのに加え、連邦政府の歳出の中に公共投資や失業保険などの社会保険給付といった、景気の平準化を図るために有効に作用するとみられる項目が含まれているからである。 これは一見当然のことのようでありながら、こうした「マクロ面での損失」の補完手段が完備されているからこそ、あれほど広いアメリカ合衆国においてドルという単一通貨を流通させ、金融政策は連邦準備制度(Fed)による一本化された運営がなされていても、大きな支障は生じていないということになるわけである。

EUのケースについては、まず、の労働力の移動の容易さの問題については、地理的には陸続きの国が多いことは好都合ながら、言語は各国毎に異なるほか、文化、歴史的な背景の相違も大きいのが現実である。それゆえ、市場統合の完成により物理的な障害は除去されているものの、各国間で景気情勢に跛行性が生じたからといって、それに応じて労働力が移動することはそう容易ではないと考えられる。他方連邦的な財政システムの確立の面でも、現在のEU落Zは、ここで言うような連邦的な財政システムの確立からは程遠いのが現実である。というのは、現在のEU落Zは、EU加盟国全体の名目GDP比率で1.3%程度の規模しかなく、しかもその歳出の使途は、前述のCAP関連落Zが60%弱、地域振興関連落Zが20%強を占め、その殆どがこうした景気動向とは無関係な所得再分配目的のもので占められているからである。

マーストリヒト条約においても、このような点の改善のための規定は全く存在せず、単一通貨導入による「マクロ的な損失」の補完手段については全く考えられていないのが現実である。ドイツの提案した「欧州安定協定」とても、EUにおける連邦的な財政システムの確立という点に関しては、全く視野には入れてはいない。このように考えると、現在のマーストリヒト条約の定める道筋のみに従って単一通貨の導入を進めることは、「マクロ面での損失」の潜在的なマグニチュードを何ら考慮していないという点で、非常に危険であり、その実現可柏ォ、制度としてのサステナビリティー(持続性)には、大きな疑問が残ると言えよう。

6.おわりに-21世紀の欧州の姿

以上のように考えると、欧州では単一通貨の導入に向けて、EUレベル、加盟国レベルの双方で着々と準備が進められており、そのこと自体から、短期的には各国経済にデフレ作用が強まるものの、中・長期的には各国経済の健全化が促されるという点で好ましい状況と言えよう。

しかしながら、経済・通貨統合の第三段階移行に当たって用意されているスキームは未だ不助ェであると言わざるを得ない。すなわち、この単一通貨制度を成功裡に機狽ウせるためには、前述のように、EU全体としての連邦的な財政システムの確立が不可欠であり、そのためには、EUの政治統合も必要となってくる筋合いにある。現在のような小規模なEU落Zの運営に関しても、各国からの同意を取り付けるのは容易ではないことからすれば、これはきわめて困難なことであろうというのは容易に推察されるところである。 しかしながら、仮にも経済・通貨統合を実現させようとするのであれば、そうした困難をも乗り越えてEU連邦を実現させるほどの強い意思が各国に必要であり、さもなければ、単一通貨はたとえ一度導入されたとしても、永続性のある制度とはなり得ず、やがて、そのシステム自体が内包する弱点が露呈して、瓦解に追い込まれてしまう可柏ォが高いと考えられる。

ところが、実際には、政治統合はまだほとんど白紙の状態であり、加盟国の中には、イギリスのように、国家主権に対する執着がきわめて強い国も存在するのが事実である。また、EUは経済・通貨統合の「深化」の一方で、中・東欧諸国などを対象とする「拡大」(図・0)の問題も抱えており、「2スピード方式」の現実化とEUの「拡大」が同時並行的に進展した場合、EU自身のアイデンティティー自体が希薄化してしまう可柏ォも否定できない。

EU統合は、加盟国にとってはすでに「一度乗りかかった船」であり、時計の針が逆戻りすることはもはやあり得ない地点にまで到達していると言えよう。ただし、その先行きにこのように紆余曲折が卵zされていることからすれば、その求心力を維持するためにはかなりのエネルギーが引き続き必要であるものと考えられる。しかしながら、フランスで国民にかなりの痛みを伴う社会保障制度改革が断行されようとしていることからも明らかなように、EU諸国の、単一通貨実現に対する熱意は言葉には言い浮ケないほど強いものであり、またそれを、相当な苦しみを覚悟でやり遂げようとしているのも事実であって、その背景には、「単一通貨の実現なしには21世紀に向けて欧州は世界の中で生き残り得ない」との危機意識があることは明らかである。すでにみてきたように、EMUに向けての取り組みが、20年以上の歴史を有するものであり、その間世界情勢の激動の波にもまれながらも、途絶えることなく継続されてきたのはその一つの証左と言える。近年稀にみる大規模なストライキが実施されているフランスにおいて、事態がどのような解決の道を辿るのかは今後の展開を占う一つの試金石となろう。今後の欧州において、連邦を建設する動きが進展するのか、それとも経済・通貨統合に向けての動きが頓挫するのかは嵐fを許さないが、21世紀の欧州がいかなる姿となっていくのかが今後とも注目されるところである。

注  

1. ECの前身の一つであるEECが64年に導入した制度で、加盟各国に特有の農業助成制度を一本化し、共通の政策体系に取りまとめようとするもの。自由貿易市場の形成、すなわち市場統合を進める過程でもっとも恩恵を被るのは工業国ドイツであり、それとのバランスをとるために、フランスが自らの得意分野である農業に関しても、域内広域市場の穀zを目指したもの。 当初は、主要農産物に域内共通価格を設定し、為替変動に際しては各国政府が通貨補償金(注2)を支給するという価格支持政策が柱であり、実態としては「工業部門から農業部門への巨大な所得再分配システム」にほかならなかった。この結果、主要農産物の慢性的な過剰生産が生じ、EC財政にとっても最大の負担要因となってきたため、92年に国「調整優先型の政策体系への転換が行われた。

2. 例えばフランス・フランの平価が切り下げられた際、フランスの国境を通過する農産物に、輸出の際にはフランの切り下げ幅と同幅の輸出税を賦課し、輸入の際には逆に同幅の補助金を与えることにより、国内農産物価格を一度に引き上げることを回避しようとする制度。マルクが切り上げられたドイツでは、輸入農産物に課税し、輸出農産物に補助金を給付するという、フランスとは逆方向の形で実施された。

3. 例えばフランス・フランがドイツ・マルクに対して売り込まれ、ERMの下限レートを割り込みそうになったとき、ERMのシステム上では、ドイツ(ブンデスバンク)からフランス(フランス銀行)に対する無制限の介入資金供与システムが整備されている。しかしながら、巨額のフラン買いマルク売り介入が実施された場合、ドイツの国内金融市場では巨額のマルクの資金余剰が発生して、金利水準の急速な低下が生じてしまう(フランスでは逆の事態が生じる)。これを防ぐために当局は金融調節上マルク資金を吸収して金利水準に影響が出ないように努めるが(いわゆる「不胎化」)、定期的な国内金融市場調節で動かされる額を大幅に超過するような為替市場介入がなされた場合、それを不胎化することは事実上不可狽ニなるため、結局は、為替市場の投機筋の動きに屈して、フランスがフランの中心レートの切り下げに踏み切るか、ドイツがマルクの切り上げを余儀なくされる筋合い。 ちなみに92年9月のERM危機時のイギリス・ポンド防衛のための介入額は1日当たり400億マルク程度、93年8月の危機時のフランス・フラン防衛のための介入額は1日当たり700億マルク程度(フランス1国の通常時の外貨準備高に相当)と推定されている。

4. EU域内で単一通貨が導入されれば、各国企業にとって、従来の域内国境にまたがる活動が一層容易になり、事業規模拡大の利益が享受できるということ。

5. アメリカの学者によるEMUに対する異議の例は以下の通り。

・ M.フェルドシュタイン・ハーバード大学教授の主張(92.6.13付The Economist掲載) EC加盟国間では、各国を襲う経済ショックが似通っているわけでもなく、各国間での労働力の流動性も決して高くはなく、アメリカにおいて90年代初期の景気後退(州毎の跛行性あり)からの回復に実際に大きな役割を果たしたような、連邦的な財政システムも存在しないため、「最適通貨圏」は成立しない。従って、欧州には、そうすることの政治的な利益が経済的な不利益に勝らない以上は、単一通貨を導入する利益はない。

・ P.サミュエルャ唐轤lIT6教授の主張(93.7.29付Financial Times 掲載) ERMは強固なドイツ・マルク本位制を採用していることが今日(注:当時)問題。EC他国がドイツの高金利政策に追随する理由はなし。ECの中心的な告ャ要素は共通市場の創設であって、それゆえ、現行のERMは葬り去るに値する。
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