RIM 環太平洋ビジネス情報 1998年7月No.42
南アジア緊張の火種・カシミール問題を考える
1998年07月01日 さくら総合研究所 武藤友治
I.カシミールをめぐる印パ両国の葛藤
1.核実験で浮上したカシミール問題
1998年5月に、インドとパキスタンが相次いで地下核実験を強行したことにより、両国の関係がにわかに緊張の度合いを強めた。それと同時に、過去半世紀にわたってくすり続けてきたカシミールの帰属をめぐる問題が、またぞろ頭をもたげ、その帰趨が世界の注目を浴びるところとなっている。
現在、カシミールは管理ライン(旧停戦ライン)を挟んで、その東側半分がインドに、西側半分がパキスタンによって、それぞれ分離・支配されている。また、インドが支配するカシミール東北端に位置するラダック地区の大きな部分が中国によって占領されている。
カシミールの帰属問題については、「カシミールの帰属問題はすでに解決済みであり、カシミールはインドの不可分の領土である。パキスタンはカシミールの一部を不法占拠している」とするインドの主張と、「国連決議に基づく、カシミールの帰属確認のための住民投票がいまだ実施されていないため、カシミール問題は未解決の紛争である」とするパキスタンの主張が真正面から対立している。このため、カシミール問題が印パ両国の関係を損なう最大の難問として存在しており、両国は関係改善の糸口すら見いだせぬまま今日に至っている。
その間、インドとパキスタンは47年、56年、71年と3度も戦火を交えており、その都度カシミールが戦場と化したことは、印パ両国にとってカシミール問題が面子に賭けても一歩も譲れぬものであることを如実に示すとともに、将来もカシミールが印パ間の新たな戦いの場となる可能性は十分にはらむことを示唆するものである。
後述の通り、71年の第3次印パ戦争でパキスタンが敗北を喫し、インドの後塵を拝する地位に追いやられたのを機に、それまで印パ両国間に保たれてきた軍事的バランスが崩れ、インドの圧倒的優位が確立された。このため、カシミール問題についても、パキスタンはこれを国際的にプレイアップする機会をインドに封じ込められ、打つ手がない状況に置かれてきた。
しかし、次の理由により、今回の印パ両国による相次ぐ核実験は、カシミール問題を国際紛争として浮上させる絶好のチャンスを、パキスタンに対して与えるものであったと考えられる。
すなわち、インドの核実験は、明らかに中国の脅威を意識して行われたものであり、それだけに実験の影響がカシミールに及ぶことは、インドの望むところではなかったはずである。これに対し、パキスタンの核実験は、実験に至るまでの経緯が示すように、インドの脅威に対処すべく実施されたことに尽きるものであるため、この際パキスタンとしては、カシミール問題をあおることによりインドの脅威を強調し、核実験後の流れを自国に有利に展開させようとする計算が働いたものである。
なお、インドの核実験の直後に行われた日本の国会での質疑応答で小渕外相が、日本のカシミール問題解決のための話し合いの場を提供する用意がある旨、発言したことろ、これにいち早くインドが反対を唱えたのに対し、パキスンは歓迎の意を表明した。この事実は、カシミール問題に関するインドとパキスタンの立場の違いが際立って大きいことを示すものであった。
2.難解なカシミール問題
カシミール問題が常識では測り知れない難しい問題であるとの点を、筆者が身をもって体験したことがある。それは、58年5月に避暑を兼ねて、ジャンム・カシミール州(インド領カシミール)の州都スリナガルを訪れた時のことである。
近年、スリナガルの一帯は、親パ・反印分子が跳梁して治安が乱れ、不穏な状態に陥っているが、筆者がスリナガルを訪ねたころは、カシミールは観光地として「東洋のスイス」の名に恥じない、まさに桃源郷そのものであった。しかし、それは筆者が外国人観光客としてカシミールを表面的にとらえていたに過ぎず、当時からすでにスリナガルでもインドの支配を排除しようとする動きがあり、住民の間には、パキスタンを支持し、インドを憎む気持ちを公然と表に現わす者が存在していた。
実際に、筆者がスリナガルの旧市街で土産物屋をのぞいた際に、店の壁にパキスタンのアユーブ・カーン大統領の写真が額に入れて堂々と飾ってあるのを見つけた。驚いて店の主人に「こんなことをしていて、危険ではないか。インドの警察にとがめられるのではないか」と尋ねると、彼は「心配は無用。危ないと思えば、額をこうすればいい」と言って、額をくるりと裏側に向けてみせた。なんと、額の裏側も表側と同じ額になっており、その中にはインドのネルー首相の写真が入れてあった。危険となれば、インドの首相の写真を飾って、インドに忠誠を誓うふりをする主人の態度に、印パ両国の紛争の渦中に生きる人々のしたたかな「生活の知恵」を見せつけられる思いがした。同時に、この事件で、筆者のような部外者も、カシミール問題が常識では簡単に割り切れない複雑な問題であることを痛感させられた。
常識では理解できない問題といえば、筆者にはカシミール問題について、もう一つ忘れられないことがある。それは70年代のことで、外務省にインド担当官として勤めていた頃の話である。
最近はどうなっているか定かではないが、当時はインド政府から自国の各在外公館に対して、任国で発行される出版物の中にカシミールについての表示の間違いを発見した場合は、任国政府の注意を喚起し、訂正を求めるべしとの訓令が出されていた模様である。この訓令に従って、東京のインド大使館がしていたことは、毎年暮れに日本の民間企業が宣伝用に作成する手帳やカレンダーに掲載される世界地図の、カシミールの部分を丹念にチェックし、間違いが発見されれば、これを、一覧表にして外務省に提出し、訂正を申し入れることであった。
当時の日本では、カシミール問題を正確に把握している企業などあまりなく、カシミールについては、ほとんどの世界地図がインド側の主張通りには表示していなかった。インド大使館が提出してきたリストには、カシミールを誤って記載した企業の名前が多数記されていたが、このリストを見るたびに筆者が思いを馳せた点は、それが本国政府の訓令に基づくとはいえ、膨大な数の手帳やカレンダーの地図をチェックさせられるインド大使館員の苦労であり、それに使われるエネルギーについてであった。愚かなことといえばそれまでであるが、この事実は、カシミール問題については異常なまでに神経をとがらせるインドの姿を垣間見させるものであった。
II.カシミール問題の歴史的背景
1.印パの分離・独立とカシミール藩王国の去就
200年に及んだ英国のインド支配は、47年8月にインドとパキスタンを分離・独立させることで終息した。それまで、英領インドにおいては、英国が直接支配していたボンベイ、マドラス、カルカッタなどの地域を除くと、そこには664 もの藩王国(Princely States)が存在しており、英国は各藩王に英王室への忠誠を誓わせることによって、間接的に藩王国を支配する形をとっていた。
独立交渉の過程で、マハトマ・ガンジーやジャワハルラール・ネルー等によって支えられた国民会議派(National Congress )が、インドが一つの国として独立することを主張したのに対し、モハメッド・アリ・ジンナが率いるムスリム連盟(Muslim League )はイスラム教国家の分離・独立を主張したため、交渉が進むにつれ、両者の対立は決定的なものとなった。
万策尽きた英国は、英領インドでイスラム教徒が多数居住する東ベンガル、西パンジャーブ、シンド、バルチスターン、北西辺境の各州から成る地域をパキスタンとし、英領インドのその他の地域をインドとする妥協案を発表したところ、国民会議派、ムスリム連盟の両者ともこれに同意した。かくして、英領インドの多くの部分をインドが占め、およそ1,500キロの距離を挟んで、東西にイスラム教徒の国・パキスタンが誕生することとなった。
英国は英領インドに対する宗主権を放棄するに際し、藩王国に対しては、インド、パキスタンのいずれに帰属するかは各藩王の裁量に任せるとしつつも、地理的条件を勘案して、インドに近い藩王国インドに、パキスタンに近い藩王国はパキスタンに帰属するよう強く奨励した。その結果、大方藩王国は、インドとパキスタンが分離・独立するまでにどちらかへの帰属を決定した。
しかし、ハイデラバード(インド中央のやや南に存在した最大のイスラム藩王国。藩王自身は英領インドからの独立を希望した)、ジュナガル(インドのグジャラート地方に位置し、住民の多くはヒンズー教徒であったが、イスラム教徒の藩王はパキスタンへの帰属を表明した)、カシミール(インド亜大陸の西北端にあり、住民の多くがイスラム教徒であったが、ヒンズー教徒の藩王は独立を希望した。印パ両国に対し、現状維持協定の締結を呼びかけたところ、パキスタンはこれに応じたものの、インドが拒否したため実現するに至らず、帰属未決定の状態に置かれた)の3つの藩王国だけが、問題を残したまま印パ両国の分離・独立を迎えた。
その後、ハイデラバード、ジャナガルの両藩王国については、独立後のインドが武力を行使してインドへの帰属を迫ったため、ハイデラバードは藩王がインドへの帰属に応じ、ジュナガルは藩王がパキスタンに逃避し、その結果、いずれの藩王国もインドに統合されることとなった。
2.第1次印パ戦争の勃発と国連の調停
カシミールについては、47年8月以降も事態が解決されぬまま推移していたところ、その年の10月、パキスタンが好戦的なパターン族(イスラム教徒)の暴徒をカシミールに侵入させ、藩王国の揺さぶりにかかった。暴徒はカシミールの州都スリナガルの近郊にまで達したため、危機に瀕した藩王ハリ・シンはインドに飛び、ネルー首相に援軍の提供を強く求めた。
これに対し、ネルー首相は、「インド領でもないカシミールに、インドの軍隊を派遣できない。インド軍の派遣を望むなら、カシミールのインドへの帰属を暫定的に表明すべきである。正式の帰属については、事態が平静に戻った後に、住民投票で民意を確認すべし」と答えたため、藩王はその線に沿って直ちにカシミールのインドへの帰属を明示した文書を提出した。それを踏まえて、インドは軍隊を急遽カシミールに空輸して、戦闘の巻き返しに努めた。これを機に、パキスタンも軍隊をカシミールに派遣し、これが第1次印パ戦争の発端となった。
戦闘がようやくインドに有利に展開し始めたのを見定めて、インドは48年1月1日に国連安全保障理事会にパキスタン軍の介入を不法として提訴したところ、パキスタンもその月の15日、同理事会に、カシミールのインドへの帰属は無効との理由で、インド軍の介入を不法として逆に提訴した。このため、安保理は紛争の調停機関としてインド・パキスタン国連委員会を設置し、この委員会がその後約1 年にわたり紛争の解決に当たった結果、停戦、撤退、住民投票の三本柱から成る合意がその年の12月に成立し、翌年1月1日に停戦が印パ間に実現した。
しかし、停戦は実現したものの、侵略を仕掛けたパキスタンの軍隊が先に撤退しないことを理由に、インド軍も撤退せず、停戦ラインを挟んでカシミール全体の東側5分の3をインドが、また西側5分の2をパキスタンが支配し、両軍が停戦ラインに沿って対峙する緊張状態が続くこととなった。
住民投票については、パキスタンがカシミール問題解決の絶対条件として、住民投票の実施を終始、主張し続けている。これに対し、カシミールのインドへの帰属を既成事実化させようとするインドは、65年11月、ジャンム・カシミール州議会に、同州がインドの一部であることを明確にした州憲法を採択せしめた。以来、インドはジャンム・カシミール州のインドへの帰属は決定済みで、住民投票の必要はなく、パキスタンこそがカシミールの一部を不法に占拠していると一方的に主張している。
なお、停戦成立後、パキスタンが支配するカシミール全体がアーザード・カシミール(自由カシミール)と呼ばれていたが、現在は同地域の大部分が北方地域と改められ、停戦ラインの南端の細長い部分だけがアーザード・カシミールと称されている。
3.第2次印パ戦争の勃発とソ連の介入
その後も、インドとパキスタンの関係はカシミール問題をめぐって緊張が続き、関係改善のめどが立たぬまま推移した。その間、国連はもとより、英国、米国、ソ連の主要国が単独でカシミール問題解決のための調停を試みたが、いずれの努力も失敗に終わった。
65年8月に至り、カシミール方面で第2次印パ戦争が勃発した。戦闘は約1カ月続いたが、国連の調停によって停戦が実現した。しかし、戦争は終結したものの、印パ両国が関係改善の切っ掛けをつかめず、膠着状態に陥っていたところ、ソ連のコスイギン首相の肝入りで66年1 月にタシュケントで和平会談が開催され、印パ両軍が戦闘開始以前の地点に撤退することを条件にして、インドのシャーストリ首相とパキスタンのアユーブ・カーン大統領の間に和平のための合意(タシュケント宣言)が成立した。
かくして、カシミールは再び、停戦ラインに沿って印パ両軍が対峙する緊張状態に戻った。
4.第3次印パ戦争の勃発とインドの優位確立
それまで印パ両国は、政治的にも軍事的にもほぼ対等の立場を保持し合っていたが、これを完全に崩壊させ、対パ関係においてインドを優位に立たせたのは、 1971年12月に東パキスタンに対するインド軍の侵攻で始まった第3次印パ戦争であった。この戦争でパキスタンは完敗を喫し、東パキスタンをバングラデシュとして独立させるに終わり、その結果、印パ関係においてインドを優位に立たせたのみならず、南アジアにおけるインドの地域大国としての地位を確定づけた。
特に、第3次戦争の戦後処理のために、72年7 月にシムラ(インドのヒマチャル・プラデシュ州の州都)でインドのインディラ・ガンジー首相とパキスタンのブットー首相が出席して開催された和平会談は、カシミール問題をめぐるインドの優位を決定的なものとした。
すなわち、シムラ会談では、「印パ両国間の紛争を、二国間交渉を通じて平和手段、または双方が合意する他の平和的手段により解決することに合意する。それまでの間、いずれの一方も現状を一方的に変更はしない」ことと、「ジャンム・カシミールにおいては、71年12月17日に生じた停戦ラインは、双方によって尊重される」との点が合意されたため、停戦ライン(その後、「実効支配ライン」と改められたが、現在は「管理ライン」と呼ばれている)によって分割されたカシミールが事実上固定化されるとともに、カシミール問題がインドとパキスタンの二国間にまたがる問題として限定され、これを国際的な紛争たらしめんとするパキスタンの狙いが封じこめられてしまった。これは、対印関係を処する上で、パキスタンにとって大きな失点を意味した。
カシミールにおいては、管理ラインを境にして印パ両軍による衝突がその後も跡を絶っておらず、その都度、両国間で関係改善のための努力が払われてきたが、すべて失敗に終わっている。最近では、インド領カシミールで、インドからの独立または自治圏の拡大を主張するイスラム教徒のゲリラ分子がばっこ跋扈し、治安が著しく乱れているところ、インドはこれをパキスタンがテロ行為を支援しているためと非難している。これに対しパキスタンは、インド領カシミールにおけるインド治安部隊のカシミール住民に対する人権侵害を非難し、両国間で相手方をなじり合う泥仕合が重ねられてきた。
このような事態が影響して、日本を含む世界の主要国は、カシミール問題については積極的に関与することを避け、印パ両国の話し合い実現のために必要な環境づくりであれば協力するという程度にとどまっている。それが結果的には、カシミール問題が国際紛争化することを極力排除し、二国間主義に基づいてカシミール問題を印パ間の問題に限定しようとするインドの意図を、好むと好まざるとにかかわらず各国が擁護するという、なんとも皮肉な結末になっていることは否定できない。
III.カシミール問題をめぐる印パ両国の特殊事業と本音
1.カシミールを手放せない印パの事情
カシミール問題に関する限り、印パ双方とも一歩も譲らぬ姿勢を崩しておらず、そうすることによって互いにに緊張感をあおり、その結果を国内政治の面に反映させ、国の統一を強化しようとしている気配が、印パ両国の態度に顕著にうかがわれる。
また、インドとパキスタンの関係が緊張するたびに、ヒンズー、イスラム両教徒の対立という図式の中で注目されるのがカシミール問題である。今回の印パ両国による核実験の実施に際しても、両国関係が急速に緊張の度合いを強め、その揚げ句にカシミール問題が浮き彫りされ、ひいては、ヒンズー、イスラム両教徒の対立感情を強めさせることが大いに憂慮される。インドの核実験がヒンズー至上主義を唱えるインド人民党(BJP)の政権によって強行されただけに、イスラム教国家パキスタンが刺激される度合いが一段と強いものであったことも、見逃し得ない点である。
インドにとって、カシミールをないがしろにできない理由に、ラダックの問題がある。中国と国境を接しながらも、その大部分を中国に占領されているラダック地区と、インドの他の地域とを結ぶ、戦略的に重要な位置をカシミールは占めており、インドがカシミールを失えば、ラダックをも自動的に失うという重大な事態に直面することとなり、したがって、インドがカシミールの保持に懸命な理由がそこにもあるといえよう。
インドがカシミールに関し、非妥協的な態度に固執するもう一つの理由として、インドが国内に1億人を超すイスラム教徒を擁している点に着目する必要がある。これらイスラム教徒は、インドのヒンズー教徒に較べれば少数派には違いないが、彼らはインド全国に散在しており、その政治的・社会的影響力には侮り難いものがある。かかる状況下でインドが最も恐れることは、カシミールのイスラム教徒による分離主義的な動きに屈すれば、その影響がインド国内の他の地域のイスラム教徒にも波及し、国の統一を揺さぶる分離主義的な機運を助長することとなる点である。カシミール問題が単なる領土問題ではなく、重要な内政問題であるわけも、そこにあると考えられる。
2.カシミール問題をめぐる印パ両国の本音
上記の諸点を念頭に置きつつ、カシミール問題をめぐる印パ双方の本音を探ると、次のようになるものと推測される。
(1) インドの場合
インドは公式には、カシミールのインドへの帰属は決定済みとしつつも、シムラ協定にうたわれているように、管理ラインによって分割されたカシミールの現状を基礎とする、印パ二国間の話し合いになら応ずるとの態度を示している。
かかるインドの態度は、カシミール問題の解決を図るには、管理ラインで分割されている現状を固定化させる以外に問題解決の方法はないとするのがインドの真の腹と受けとめさせるものであり、将来、一定の条件さえ整えば、インドは現状を基礎とするカシミールの恒久的な分割支配に応ずるものと判断される。
(2) パキスタンの場合
国連安保理の決議による住民投票が実施されない限り、カシミールの帰属問題は未解決とするのがパキスタンの表向きの態度であり、また、インド以上にパキスタン国内では、カシミール問題が絶対に妥協を許さない内政問題になっている嫌いが強い。このため、パキスタンとしては、カシミール問題の国際紛争化に努めざるを得ない立場にあるものと考えられる。
しかしパキスタンも、管理ラインを挟んで分割されたカシミールの現状をもはや変更できないことを十分承知しているはずであり、例えば、将来カシミールのごく狭い地域に限ってでも、各目的にせよ住民投票が行われさえすれば、パキスタンとしても現実的な観点から、カシミールの分割支配に応ずるのではないかと判断される。
IV.カシミール問題への取り組み方-提言
1.提言のための基本的理念
カシミール問題が未解決のままであり続ける限り、それが印パ両国に対してのみならず、南アジア全体にとっても安全保障上、由々しき事態を招来せしめる恐れがあることは、何人も否定できない。殊に、印パの核実験によって、当該地域の安全が危機的様相を一段と強めた今、印パ関係が対立の度合いを増すにつれて、カシミール情勢がさらに緊迫化することが容易に予想される。
アメリカの新聞「ボストン・クローブ」(98年6月14日付け)は、印パ戦争再発の可能性につき論評を掲載し、その中で、「将来、印パ間に通常兵器による戦争がある場合に、最も憂慮すべきシナリオは、パキスタンがインドに負けて混乱に陥り、窮余の策として核兵器に手を着けることである」とする、米国ブルックリン・インスティチューションのリチャード・ハース外交政策部長の見解を紹介している。通常兵器による武装で、インドがパキスタンに較べて圧倒的な優位を誇る現状に照らせば、これはあり得べき懸念といえよう。また、過去の例に照らせば、将来ともカシミールが戦場となることが当然予想される。
過去に多くの国がカシミール紛争の調停に失敗しており、今さら第三国がカシミールに口を出すのは愚かなこと、と一笑に付されるかもしれない。しかし、カシミール問題をめぐる印パ双方の主張がどうであれ、今やこの問題は両国にだけ委ね得るものではなく、世界の安全保障を損なう危険を十分に抱えた問題としての認識を世界の国々が強め、世界的なレベルでカシミール問題の抜本的な解決に当たることが肝要と考える。
印パの核実験は確かに不幸な事件であったとはいえ、実験によってカシミール問題への世界の関心が高まり、カシミール問題の解決を世界的レベルで果たし得る環境が生まれたと思えば、「災いをもって福となす」のことわざ通り、今回の核実験も不幸中の幸いということになり得るかもしれない。
2.カシミール問題解決のための提言
以上に鑑み、カシミール問題解決策の糸口をつかむ策として、印パ両国、および世界、とりわけG8(主要8カ国)に対し、次の通り提言することとしたい。なお、提言は私案の域を出るものではなく、また、カシミール問題の現状に照らせば、提言に実現性が乏しいことは明白であり、提言は「絵に描いた餅に等しい」とのそしりを免れかれない。しかし、核実験後の印パ両国の緊張がカシミール問題の解決を一層困難にする恐れがあることを憂慮し、ここに敢えて提言を試みる次第である。
(1) 印パ両国に対する提言
インドとパキスタン(以下、両国と略称)は第一に、カシミール問題の解決は、管理ラインを国境線として認めることにより、カシミールを分割・支配する以外にないとの点を相互に確認する。
その後、両国はカシミールにおける一切の敵対行為を停止し、国連など国際機関の立ち合いの下に、最低限度の治安維持軍を残して両軍のカシミールからの撤退に努める。
管理ラインの修正については、国連など国際機関の立ち会いの下で、印パ双方の話し合いにより行い、ごく限られた地域については、住民投票による解決をも認めるものとする。
その間、両国はカシミールでそれぞれが支配する地域における民生の安定を図り、分割されたカシミールの固定化に努める。
両国はそれぞれ自国において、カシミールの分割支配についてのコンセンサスを取りつけるべく、国民の理解向上に努める。
(2) G8(主要8カ国)に対する提言
G8(以下、主要8カ国)は第一に、両国による核実験の後、カシミールが南アジアの安全保障を損なう問題としての性格を強めたとの認識に立ち、カシミール問題に対する関心を表明し、同問題の恒久的な解決のために積極的に関与する用意がある旨の姿勢を共同で披瀝する。
その後、主要8カ国はカシミール問題の解決に当たるためのタクス・フォース(以下、タクス・フォースと略称)を発足せしめ、タクス・フォースは、両国が管理ラインを国境線とするカシミールの分割・支配を受け入れるよう説得に努める。
タクス・フォースは事前に、カシミールの分割・支配を両国に認めさせる代償として、主要8カ国がカシミールに対し、政治的、経済的、軍事的、文化的に協力できる分野につき十分に検討し、それを踏まえて両国との折衝に当たる。
主要8カ国は両国に対する調停努力を試みるに際し、国連など国際機関との連携を緊密にすべく、十分な注意を払うこととする。