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RIM 環太平洋ビジネス情報 2001年7月Vol.1,No.2

台湾の歴史を知ろう

2001年07月01日 顧問 渡辺利夫


中台統一は中国人民の「神聖なる使命、崇高なる目標」だというのが中国の主張である。とはいえ、これはあくまで政治的主張であって、そのような主張を裏づける歴史的根拠が存在するということではない。

現実政治の世界ではなおパワーが決定的に重要であるから、そのパワーのおもむくところ中国の主張を他国は「理解し尊重する」ということに傾かざるをえない。しかし、中国がそうした政治的主張を繰り返し、他国がこの主張を理解し尊重するという態度をとりつづけて何年も経つと、台湾が歴史的事実としても中国の版図であったかのように思い込まされてしまうという危険性がある。

過日ある団体から東南アジア華人ネットワークについての講演依頼があり、90分ほど話をする機会があった。少しではあったが台湾のことにも言及した。かつてはポルトガルつづいてオランダの植民地であった台湾が、清国の版図として正式に組み込まれたのは1684年のことであり、福建省や広東省から移ってきた漢族が原住民を追い払ってここに定住を開始したのはその後のことである、といった基本的な事情について話した。

講演の後パーティーがあって私に語りかけてきた何人かの口からでたのは、講演の主題についてではなく、台湾の歴史がそのようなものであったことは知らなかった、あげくは台湾は古来中国の領土であったと思い込んでいたといった話であった。若者ならいざ知らず壮年の直中にいる彼らまでが、台湾のことなどまるで知らないでいたのかと暗然たる思いにさせられた。そんなわけで、ここで台湾の歴史について要点を書き留めておきたい思いたったのである。

大陸中国にとって台湾は長らく中華文明の教化の及ばない「化外の地」であり、先住民は「化外の民」とみなされ、大陸中国がその領有に関心を示すことはなかった。台湾を「発見」してここをイリヤ・フォルモサ(「美麗島」)と命名したのはポルトガルであった。その後オランダ、スペインが台湾を支配したことはあったが、支配は局地的かつ一時的なものに終わった。強大な軍勢をもつ明国ならびに清国が、局地的、一時的ではあれオランダ、スペインによる台湾支配を許容したこと自体、大陸が台湾にさしたる関心をもっていなかったという事実を「立証」している。

大陸が台湾に関与するようになったのは、「反清復明」を図る鄭成功が台湾を支配するオランダに挑んでここを橋頭堡とした1661年以降のことである。鄭氏台湾は一族の内紛と清国からの軍事的圧力によって1683年に崩壊し、この地は翌1684年より福建省台湾府となって、歴史上初めて大陸の版図に正式に組み込まれた。もっとも清国政府は台湾を正式に領有はしたものの、ここが反清勢力の拠点となることを防御するという政治・軍事的な関心にとどまり、台湾の経済開発に意欲をみせることはなかった。台湾は騒擾を繰り返す「化外の民」の住む野蛮な僻遠の地であり、風土病のはびこる「化外の地」だとみなされ、清国官僚も波高い台湾海峡をこえてここに出向くことを潔としなかった。

しかし、清国に組み入れられた1684年以来、台湾が人口に比して耕作可能な土地の豊富に存在する未開の地であることが大陸住民に次第に広く知られるようになった。この時点において、台湾の総人口は十数万人程度であり、一方、水稲耕作と砂糖黍栽培のために開墾すべく残された肥沃な土地が豊富にあった。華南沿海部、古来土地が希少で人口圧力の強かった福建省や広東省の貧農にとって台湾はきわめて魅力的なものだとみなされ、彼らのここへの大量移住を誘った。

漢族の台湾移住は清国政府によって促進されたものではない。その逆である。移住した漢族が定住して台湾を再び謀反の拠点とすることを清国政府は恐れ、移住者に対して出身地域の公官の同意を義務づけ、妻子の同行を禁じた。しかし、狭小な可耕地に過大な人口の圧力を加えられて零細化と絶糧化に悩まされた福建省南部や広東省東部の農民の、人口希薄で肥沃な亜熱帯台湾への移住衝動はやみがたく強く、渡航制限・禁止にもかかわらず移住者は増加の一途をたどった。

人口希薄で肥沃な土地を豊富に擁していたとはいえ、台湾への入植は難業であった。激しい潮流によって知られる台湾海峡を小舟で渡っていくこと自体がすでに困難をきわめた。亜熱帯の台湾は、マラリヤ蚊が飛び交い、毒蛇が棲息する「化外の地」であった。漢族は台湾原住民を「生蕃」とみなし、彼らを既住の地から追い払おうとするものの、当然ながらそれへの抵抗は強力であった。

こうした苦難を経験しながら移住民は亜熱帯の樹木が限りもなくつづくジャングルを切り開き、手つかずのままにおかれていた荒蕪地を開墾するという労苦に勇敢に挑んでいった。移住してきた華南住民の資産はなきに等しく、開墾は裸一貫のベンチャーであった。

清国政府がその経営に積極的な姿勢を示すようになったのは、台湾島南部の牡丹社に漂着した琉球宮古島の漁民が台湾住民によって殺害されるという事件に端を発した1873年の日本の台湾出兵以降のことであった。日本の出兵後の1884年にはフランスが澎湖島を占領するという事件がおこった。外的勢力に台湾を脅かされて、清国政府はようやくにして積極的な経営にのりだすことになったのである。清国政府は1884年に洋務運動の推進者李鴻章の部下劉銘伝を初代の台湾巡撫として派遣し、この地の統治の任にあたらせた。洋務派の劉は合理主義的な統治を求めて1885年に台湾を独立省とし、ここで台湾史上初の区画整理と人口調査を試みた。

しかし、台湾出兵の20年後に日清戦争が勃発、これに日本が勝利して1895年に下関で日清講話条約が締結され、台湾の日本への割譲がなされた。日本統治時代の開始である。日本の本格的な植民地経営が始まったのは、第4代台湾総督として陸軍中将児玉源太郎が1898年に着任して以降のことである。総督を補佐する民政部門の最高長官が後藤新平であった。台湾経営の基礎を築いた明治期日本の代表的な有能官僚がこの後藤であった。後藤は1906年に満鉄総裁として転出するまでの10年近く、効率的な植民地経営を求めてその辣腕をふるった。

後藤の治世下、台湾の植民地経営の基礎は急速に整えられていった。土地・林野・人口などの基礎調査事業と並行して、多様な社会間接資本が整備された。台湾銀行の設立は、後藤の着任の翌1899年のことであり、台湾銀行券の発行が開始されたのは1904年であった。これにより台湾の貨幣が統一され、社会的間接資本の建設に要する大量の資金が同銀行の事業公債により調達された。日本統治により「強靭で力に満ちた近代国家の行政能力は社会の末端まで浸透し、従来の台湾における緩やかな中国式統治は趣を一変した」というのが、台湾人の手になる初の本格的通史、殷允編『台湾の歴史-日台交渉の三百年』(丸山勝訳、藤原書店)の指摘である。

太平洋戦争における敗北により、日本の台湾支配は1945年9月に終わり、以降、台湾は国民党政権の支配下に入った。台湾省行政長官には国民党の軍人陳儀が任命され、その指揮下で日本統治時代の資産「敵産」が接収された。国民党政権は日本統治の50年にわたる膨大な蓄積資産を一夜にして掌中にしたのであり、これらすべてが国営もしくは省営の公企業となった。

敵産の公企業化が進んだものの、これによって日本支配下の台湾経済が国民党支配のそれへと順調に受け継がれていったわけではない。台湾が日本との連携を絶たれ、新たに大陸と結びついたことにより、とどまることを知らぬ大陸のインフレに直撃され、台湾経済は機能麻痺に陥った。国民党支配に対する台湾人の不信は日増しに強まり、その怨嗟は残忍な暴力によって叩きつぶされた。2万8,000人が殺害された悲劇の2・28事件により、本省人台湾住民の心は外省人から遠く離れてしまった。今日の台湾になお色濃く残る「省籍矛盾」の淵源がこれである。

この時点で国民党軍は大陸で共産党軍との内戦のさなかにあった。しかし、経済管理と住民統治の能力を欠き、軍律に薄く、腐敗においてすさまじい国民党政権に対するアメリカの不信は根強いものであった。実際、台湾に敗走した国民党軍を追う共産党軍の「台湾侵攻」を目前に、トルーマン大統領は「台湾海峡不介入宣言」を公にしたのである。この絶体絶命の危機を救ったのが、1950年6月に勃発した朝鮮戦争であった。東アジア共産化の現実的脅威に直面したアメリカは「台湾海峡不介入宣言」をひるがえして「台湾海峡中立化政策」に転じ、第7艦隊を台湾海峡に派遣して国民党政権の台湾支配の起点を守った。

大陸からの脅威に心胆を寒からしめ、2・28事件によって民衆的基盤を喪失した国民党政権は、この台湾の地で生存を図るためには、アメリカの支持を受けつつみずからを再生して発展への手がかりをつかむよりほかなかった。強権的政治支配により反対勢力を封じ込め、そうして得た政治的安定の下で経済発展を求めるという選択にでたのである。蒋介石・蒋経国の「権威主義的開発体制」の確立期である。

東アジアにおいて冷戦構造が定着し、台湾の「大陸反攻」「光復大陸」も実効性をもたない建て前となるにともない、国民党も敵産を原資とした土地改革、公営企業化にとどまらず、それをこえてみずからも台湾のこの地に居を構えてその発展を本格化せざるをえなくなった。1966年に始まった大陸における文化大革命の狂気と凄絶は、国民党の大陸回帰の夢を打ち砕くものでもあった。

台湾内省人は、国民党支配の間隙をぬって輸出中小工業部門に活路を求め、そこでの機敏な企業行動によって資産を形成し、中産層化していった。そして彼らが 1980年代の後半期以降の台湾において政治的民主化を現実する主勢力となった。内省人の中産層化が台湾の民主化を促した内実であってみれば、台湾の民主化とは「台湾の台湾化」と同義である。

17世紀後半期に華南沿海部からここに移住し、以来、大陸とは異質の歴史を紡いできた台湾住民がその国家運営にみずからの意思を正しく反映させることができるようになり、それがゆえに台湾住民の台湾意識、台湾人意識はいやがうえにも高揚したのである。台湾が伝統中国の正統的後継であるという虚構、台湾が中国の一部であるという虚構が音をたてて崩れつつあるのが現在である。

国民党一党支配体制は蒋経国の時代の後半に揺らぎ始め、1988年の同氏の死去にともなう内省人李登輝の総統就任の頃から政治的民主化の波が台湾を覆うようになった。国民党の守旧派を牽制し、軍を掌握していく李登輝の水際だった政治的辣腕も加わって台湾の民主化は加速した。「台独」を党綱領に盛り込んだ内省人の政党である民進党が躍進し、2000年春にはついに民進党の陳水扁が李登輝の後を襲って総統に選出された。

台湾住民の大陸中国に寄せるアイデンティティーは多分に虚構である。日本統治のあと台湾に強大な支配力を行使したのが大陸の国民党であったがために、台湾住民はそのアイデンティティーを中国に「はめこまれて」きたに過ぎない。しかし李登輝によって開始された民主化の奔流の中で、台湾の台湾化を求めて住民は新しいアイデンティティーを模索し始めた。

中台統一は中国人民の「神聖なる使命、崇高なる目標」だといい、その主張を「理解し尊重する」という対応が、台湾住民を置き去りにしたものであることだけは確かである。