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コラム「研究員のココロ」

ビジネスとデザインの諸相
家電業界の場合(前編)

2004年03月08日 井上岳一


1.欲しい家電がない

 先日、義母宅のファックスとビデオデッキが壊れたため、新しいものを買おうと家電量販店へ行った。実は、家電を買うのは久しぶりである。梅田の国内随一の規模を誇る家電量販店に行ったのだが、正直、とてもショックを受けた。所狭しと陳列棚に商品が並んでいるのに、どれ一つとして欲しくなるようなものがないのである。
 これは何なのだろうと考え込んでしまった。そういえば、先だって携帯電話を替える時にも同様の問題に直面した。メーカーは違うのに、似たようなデザインで似たような機能のものばかり。どれも必要以上に多機能であるように思うし、デザインについても、美しく、心を惹かれるようなものは皆無に等しい。これでは、モノを選ぶ楽しみが一切ない。結局、義母用には、値段的に一番手頃なモノを選んだ。考えて見れば、これまでもいつも家電を買おうとするたびに同じ悩みに直面し、しょうがないな、と思いながらそれでも少しはましなものを購入するということを繰り返してきた。
 確かに、家電は家族以外の目に触れる機会は少ないから、モノとしての美しさやデザインの良し悪し、個性は求められないのかもしれない。その一方で、次から次に新しい技術開発が行われるから、より多機能で高性能なものが求められるのかもしれない。その結果が現在市場に溢れている商品の数々なのだろう。しかし、家電王国と言われ、毎年、これだけ多様な製品が大量に世に送り出されていながら、どれも自分の生活を豊かにしてくれるようなものに思えないのは何故なのだろう。特に、デザインに関しては、どうしてこんなに無個性で貧困であるのだろうと考えざるを得ない。
これとは対照的に、欧米(特にヨーロッパ)からの輸入家電には必要十分な機能と個性的なデザインの組み合わせを有するものが多い。確かに、国内メーカーのものに比べると機能的にはシンプルで価格も割高であるが、ドイツにはドイツ、イタリアにはイタリアのそれぞれのメーカーの個性があって、思わず欲しくなるような魅力に溢れている。特に、イタリアのものには、工業製品でありながらどこか人間的な温かみを感じるものが多いように思う。近年のインテリアやデザインに対する急速な関心の高まりともあいまって、これら輸入家電の市場が活況を呈しているが、頷ける話である。
 周知の通り、家電に限らず、自動車、家具、アパレル、雑貨といった分野においても、日本で人気のある欧米の工業製品の多くには、機能に還元しきれない何とも言えない魅力が備わっている。その魅力を生み出すのは、ブランドであったり、デザインであったり、カラーリングであったり、質感であったりするのだが、いずれにせよ、五感を刺激する官能的な何かであるのが共通点である。このような欧米(特にヨーロッパ)と日本との工業製品の違いはどこから生まれるのであろうか。生活スタイルの違いや歴史に裏打ちされた文化の成熟度の違いと言った、いわば生活に関する価値観の違い、が当然に背後にはあるのだろうが、細かく検討していくと、そう簡単には割り切れないものを感じている。本稿では、家電業界に焦点を当てて、何故、日本ではデザインの良い魅力的な家電が生まれにくいのか、について説明を試みた上で、業界における新たな動きや、今後の家電メーカーの進むべき方向について検討を行うこととする。なお、欧米と一口に言ってもヨーロッパとアメリカではかなり性格が異なっているため、本稿では、ヨーロッパ(特に明示をしない場合、主としてイタリアとドイツをイメージしている)との比較に焦点を当てて検討を行うこととする。

2.創り手側の問題

 輸入家電を目の前にした消費者の反応は、「さすがにイタリアのものはデザインが良いわねえ」と言った感じだ。イタリア人はセンスの良い物づくりができる、というイメージはすっかり定着しており、「メイド・イン・イタリー」はファッションやデザインにおいては、それだけでブランドになる。ここで暗に前提とされているのは、ことデザインに関しては、「創り手(供給者)」の能力がヨーロッパの方が優れている、ということである。ここで言う「創り手」の能力には、実際のデザインを行うデザイナーの個人的資質とそれを製品として世に送り出す組織としてのメーカーの開発力という二面性がある。
 デザイナーの資質に関して言えば、日本人だからセンスがない、というのは当たらないだろう。ヨーロッパのメーカーで活躍する日本人デザイナーは多いし、特に建築の世界においては、安藤忠雄、磯崎新、妹島和世と言った人々がビッグネームとして世界中で活躍している。建築とデザインは親和性が高く、欧米の工業デザイナーの多くが建築出身であることを鑑みると、日本にも潜在的に優れたデザイナーは多いと言えよう。
 ただし、デザイナー同士が切磋琢磨し、能力を発揮できるような環境があるか、というとこれは彼我との間で差があると言わざるを得ない。良く指摘されるのが、デザイナーの立場上の違いである。日本の工業デザイナーの多くはインハウス(メーカーのサラリーマン)であるが、ヨーロッパではメーカーはフリーのデザイナーと契約するのが通常の形態である。一概にインハウスの方が悪いとは言えないが、常に競争に晒され自らの能力が試される点、数多くのメーカーや製品分野のデザインを手がける機会が多い点で、フリーのデザイナーの方が、多彩な能力を開発する機会に恵まれていると言えよう。
また、デザイナーに与えられている権限が大きいのもヨーロッパの特徴である。クリエイティブ・ディレクター、アート・ディレクター、デザイン・コンサルタント、などの役職をデザイナーに与え、彼等が経営者と対等以上の立場でデザインやブランディングに関するディレクションを行うことができるのである。例えば、日産を再生させたカルロス・ゴーン社長は、経営再建の柱の一つとしてデザイン部門の強化を掲げ、ライバル会社であるいすゞ自動車から中村史郎氏を引き抜き、デザイン本部長に据えている。この時、ゴーン氏は、「デザインにも経営トップのマネジメント感覚が求められる」と言って中村氏を口説いているが、デザイナーに求める能力に対する認識の彼我の違いを改めて感じさせる言葉である。結果、中村氏のイニシアティブにより、日産は、賛否両論を巻き起こすほどの大胆なデザインの変更を行い、新しい「日産らしさ」を生み出すことに成功したが、このような手法はブランド再建時にヨーロッパに通常見られる手法である。
以上のように、デザイナー同士の競争環境があること、企業の哲学を理解した信頼できるデザイナーに大幅な裁量を与える経営慣習が見られること、が日本に欠如しているヨーロッパの創り手側の特徴である。これがヨーロッパの工業製品のデザインを支えていると言えよう。

3.受け手側の問題

 脳についての好著『海馬/脳は疲れない』(池谷裕二・糸井重里著、2002年)において、脳神経細胞の結合条件は受け手側にその多くを負っているという内容が語られている。これを受けて、コミュニケーションは受け手次第、という風に糸井氏がまとめているが、得てして何事も創り手側の問題に還元したがる風潮がある中、受け手の側にこそ問題があるのではないか、という糸井氏のような視点は時に重要である。
 では、創り手に対する受け手とは一体誰だろう。企業の存続は顧客という資源に依存する。ではこの顧客とは誰か?通常、メーカーにとって、一義的な顧客とは一般消費者(エンドユーザー)ではなく、流通、つまり小売店を意味している。
 ここで、家電の流通構造を見てみよう。国内家電小売市場は6~7兆円と言われているが、その7割をいわゆる家電量販店が占めている。つまり、メーカーにとって、最もその存在感の大きい大口顧客は家電量販店という構造になっている(半沢努、2003年)。
この構造が何を意味するのかを考える時、米国の経営学者クリス・クリステンセン氏が提唱している「バリュー・ネットワーク」という概念が参考になる。バリュー・ネットワークとは、企業が「顧客のニーズを認識し、対応し、問題を解決し、資源を調達し、競争相手に対抗し、利潤を追求する」に当たって組み込まれている価値創造のための枠組みのことを指している。そして、「企業は、あるバリュー・ネットワークの中で経験を積むと、そのネットワークに際立って見られる需要に合わせて能力、組織構造、企業文化を形成することが多い」と指摘されている(クレイトン・クリステンセン、2001年)。
さて、家電メーカーが組み込まれているバリュー・ネットワークの中で、「際立って見られる需要」は、家電量販店の大口需要である。このため、家電メーカーは、家電量販店の要求するものに合わせて「能力、組織構造、企業文化」を形成し、商品の製造を行っていくのである。
 では、家電量販店の要求とは何か。それは「価格」である。家電量販店はメーカー系列に縛られない「豊富な品揃え」と、大量仕入れによるボリュームディスカウントを原資とした「低価格販売」を武器に、90年代後半までに、メーカー系列の家電店や中小家電店からシェアを奪う形で急成長を遂げてきた。しかし、現在は、量販店の店舗数も飽和状態に達し、量販店間での熾烈な競争が繰り広げられている。どこの量販店も大抵のナショナル・ブランドを扱い、量販店間での商品の差別化はできない状態にあることから、量販店の差別化ポイントは、「より低い価格」と「より良いサービス」となっている。そして、これにより益率が悪化しないよう、その購買力を生かして、メーカー側(通常はメーカーの子会社である販売会社)に再三の掛率交渉を行うのである。聞くところによれば、この掛率交渉は一つのモデルにつき、3ヶ月に一回行われるとのことである。このため、一年も経つと、下代(卸値)が製造原価を割ってしまう、という笑えない構造になっているのである。これを避けるために、メーカー側は一年に一回フルモデルチェンジを行い、価格を再度設定し直すのである。モデルチェンジしたことをアピールするには、機能の高度化や多様化が求められる。これが、毎年毎年の頻繁なモデルチェンジと必要以上に思える多機能化・高機能化を生み出している要因である。
 しかし、このような過剰なまでにスピーディな商品開発体制は、「多様化された画一性」(ジョージ・ストーク・Jr.・A.M.ウェバー、1993年)という逆説を生み出してしまう。スピードを重視するあまり、メーカーは消費者の嗜好を十分に検討する前に商品を市場に出さざるを得ない。このため、どこかのメーカーがヒット商品を売り出せば、他のメーカーもそれを追随する、という形で「売れるであろう」商品が大量に市場に投入されることになる。短いペースで多様な製品が市場に溢れることにより、個々の製品は差別化することができなくなり、「日用品」となってしまうのである。
 このような構造の中で、メーカー側は、疲弊し、消耗しきっている。これが家電王国と言われる日本の家電メーカーの実態なのである。これでは、本当に消費者が求めている機能・使い勝手や、個性的で良質なデザインを生み出すための時間も余裕もない、というのが実情であろう。創り手の問題というよりも、創り手が組み込まれた構造の問題であり、その構造は受け手の性質に因っているのである。
 このような構造を知ると、日本の家電業界はどうなってしまうのだろう、と暗澹たる気持ちになってくる。上述のジョージ・ストーク・Jr.とA・M・ウェバーは、10年以上前に日本企業がこのような「無意味で自滅的と思われる競争」を続けていく限り、待ち受けているのは「消耗死」である、と予言しているが、まさにそのような「仁義亡き戦い」の様相を呈している。どのような企業も生き残りをかけて必死になるのは当たり前であるが、この状態ではどこにものづくりの喜びがあるのであろう、と思ってしまう。
製造業であれ、農林漁業であれ、ものづくりが全ての価値の源泉である。ものづくりの喜びを味わえないような社会に喜びは生まれないと筆者は思っている。家電業界はまさにそのような世界になってしまっているのではないか、と危惧している。
しかし、この構造を生み出しているのは、結局のところ、少しでも安い商品を求めて家電量販店を訪れる私達消費者自身であるということも肝に命ずるべきである。とどのつまり、受け手の問題とは、私達一人一人の消費者の問題であり、より大きくは、消費文化の問題であろう。まさに、「デザインとは生活から生まれてくる感受性」(原研哉、2003年)であり、生活者自身の感受性が問われているのである。
 製造業の空洞化が進行し、日本の製造業が生き残る道は、高付加価値化であると言われる。経済産業省と(財)日本産業デザイン振興会が「デザイン&ビジネスフォーラム」を2003年に発足するなど、ビジネスにおけるデザインの位置付けに対する意識は高まっているようである。しかし、受け手の構造が変わらない限り、創り手はなかなか変われないのである。

参考文献

1.池谷裕二、糸井重里著『海馬/脳は疲れない』朝日出版社(2002年)
2.半沢努著『家電量販店業界の現況~過剰店舗がもたらす低収益体質~』三井トラスト・ホールディングス調査レポートNo.37(2003年)
3.クレイトン・クリステンセン著(玉田俊平太監修/伊豆原弓訳)『イノベーションのジレンマ-技術革新が巨大企業を滅ぼすとき』翔泳社(2001年)
4.ジョージ・ストーク・Jr.、アラン・M・ウェバー著(根本政信訳)『日本企業に迫られる時間競争からの脱却』ダイヤモンド・ハーバード・ビジネス・レビュー1993年11月号
5.原研哉著『デザインのデザイン』岩波書店(2003年)
※コラムは執筆者の個人的見解であり、日本総研の公式見解を示すものではありません。
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