オピニオン
経営における父性と母性(前編)
~母性回復のマネジメント~
2009年11月06日 井上岳一
1.父性と母性
家族という組織に父と母がいるように、会社という組織にも父的なるものと母的なるものの両方がいるのだと思う。それを会社における父性と母性と呼べば、組織にいる人々が健全に成長するためには、父性と母性がバランスよく存在したほうが望ましいのではないか。仕事柄、色々な組織に出入りする中で、そんなことを考えるようになった。
とは言え、父性とは何か、母性とは何か、は意外と自明ではない。父性と母性に着目した心理学者にユングがいるが、ユング派の精神分析を修めた河合隼雄によれば、ユングは父性原理の本質を「切断する機能」にあるとした。「切断」は「分割」にも通じるが、善と悪、有能と無能等の区別をし、理性による把握や類別、序列などのベースをなすものである(注1)。
これに対し、母性原理は「慈しみ育てること」「狂宴的な情動性」「暗黒の深さ」に本質があるという。ここで言う「狂宴的な情動性」とは、自然のままの衝動の動きを体現することを意味し、「暗黒の深さ」とは何ものも区別しない平等性とすべてのものを呑み込む恐ろしさを象徴している。ずいぶんとおどろおどろしいが、要は、母性原理は全てを平等に慈しむ衝動であるがゆえに、個人の個性や主体性をも呑み込んでしまう暗黒面を持っているということである。そう言われて思い起こすのは映画「マトリックス」(1999年公開)だ。「マトリックス」では、人類はマトリックスと呼ばれる巨大な一つのコンピュータシステムに養殖されながら、仮想現実の中を生かされている存在として描かれていたが、マトリックス(matrix)が母体や子宮を意味する言葉であることを考えると、ユングが指摘した母性の暗黒面を象徴しているようで興味深い。
2.母性が支配していた「日本型経営」
以前、「マトリックス」を見て起業を決意したというベンチャー経営者に出会ったことがある。彼には、システムに養殖されながら、仮想現実の世界を生かされている映画の中での人類のあり方が、それまで勤めていた日本でも有数の大企業で働く自分のあり方そのままに思えたそうだ。どっぷりと浸っていれば何も考えずに生きていけるが、自分の個性が呑み込まれてしまう世界。ユング的に言えば、それは極めて母性的な世界だ。彼の会社に限らず、一昔前の日本の企業(特に大企業)では、多かれ少なかれ母性原理が支配的だったと言えるだろう。日本型経営の代名詞となった年功序列は、個人の個性や能力よりも、会社に勤続した年数を重視するという意味で平等主義的であるし、終身雇用は社員の一生を面倒みるという意味で慈愛に満ちている(「慈しみ育てること」)。理屈よりも情動が支配したり(「狂宴的な情動性」)、社宅生活や上司とのゴルフに象徴されるように私生活まで含めて全てが会社の人間関係に支配されたりといった負の側面(「暗黒の深さ」)も持っていた。ユングの言う母性原理そのままである。日本的経営とは、母性原理が支配的な、いわば「母性の経営」だったのである。
3.父性の復権
だが、90年代以降、この状況は著しく変化した。きっかけとなったのは長期不況に伴う成果主義の導入と定着である。本来は経営の再構築を意味する「リストラクチャリング」が、「リストラ」と称され、「首切り」を意味する言葉として使われ始めたのはバブル崩壊後だが、成果主義はリストラ=首切りを正当化する目的で導入され、広く定着していった。成果主義の普及により、平等主義的で慈愛に満ちた会社は「時代遅れ」となり、業績=数字による類別や序列づけが行われるようになったのである。
既に見て来たとおり、類別や序列づけは父性原理から導かれるものである。成果主義は、数字(業績)によって個人の差別化をするものだから、父性原理的である。つまり、成果主義とは、母性が優先していた企業社会に「父性の復権」をもたらすものであったと言えるだろう。母性と父性のバランスをとるという意味で、成果主義の導入は望ましい方向だったと言える。
だが、ここで注意しなければならないのは、性急な「父性の復権」がもたらす負の影響である。河合隼雄は、1976年に発表した『母性社会日本の病理』の中で、母性原理が優先することが独特の「場の倫理」を生み出し、それが日本社会の病理を生んでいると指摘していたが、一方で、「場の倫理」が強い状態のままで、平等主義を廃し、能力差の存在をはっきりと認めることは危険だとも言っている。能力差が、個人を場から外すための理由として用いられるからである。場の力が強い社会で、場から排除することは致命的な打撃を個人にもたらす。それは人間としての存在価値を否定するに等しい。実際、1997年以降、失業者の増加に相関する形で自殺者数が急増し、年間3万人台で推移してきているが、この背景にあるのは、失業による経済的困窮よりも、生きる場から排除されたことによる「生きる意味」の喪失ではなかったか。安易な「父性の復権」がもたらした事態の深刻さを考えると慄然とせざるを得ない(注2)。
4.「自己責任」の浸透による会社の変容
個人の存在が場に依拠することなく確立していれば、会社での評価は、あくまで自らの一部に対する評価として、全人格的な評価とは切り離して受け止めることができる。成果主義はアメリカから輸入されたものだが、アメリカにはそういうある種の個の強さがあるから、成果主義的な考え方はそれほど問題にならないのかもしれない。
結局、日本の場合、強い個が確立する前に、数字で序列化する父性原理を持ち込んでしまったことに問題があったのだろう。振り返ってみると、成果主義の導入と前後するように「自己責任」という言葉が頻繁に使われるようになったが、これも成果主義の前提として個性の確立が不可欠だという認識が暗黙裡に共有されていたからではないかと思う。ただ、1996年頃から急増した援助交際の是非が「性の自己決定」や「自己責任」という文脈で語られたように、「自己責任」は、個人の確立を促す前に、全てを個人の責任に帰してしまうような安易な傾向と共に、自己責任なのだから個人の責任の範囲には関与しないという冷めた距離感を生み出してしまったように思う。結果、個人のつながりが薄れ、集団としての一体感がなくなり、助け合いや協力の雰囲気のない職場が増えた。多くの職場で「昔はもっと和気靄靄としてたのに」「協力し合う雰囲気がなくなった」と言った声を聞かされるが、ここ十数年で、確かに会社は変わったのだろう。
5.父性と母性のバランスを回復するには
こういう事態に陥った会社をこれからどうしていけばいいのか。個が確立しない中での成果主義の導入が問題だったのだとすれば、成果主義を廃止するか、個の確立を急ぐかしかない。確かにあえて成果主義を導入せずに年功序列の制度を維持することによって成功している会社はあるし、ここにきて成果主義のシステムを見直したり廃止したりする企業も出てきている(注3)。だが、成果主義でなければうまくいくと思うのも早計だ。父性原理が後退し、母性原理が支配的になるだけなら、過去の病理を繰り返すこととなるからである。
となると、 個の確立を急ぐことが解決策だろうか?だが、明治以降の日本の近代化の過程において、個の確立が課題であり続けたことを考えると、この古くて新しい課題が21世紀になったからと言って簡単に解決できるとは思えない。
そう考えると、一昔前の母性型に戻るのでも、アメリカ流の個人の確立を前提にした父性型を突き詰めるのでもなく、その中間を行くというのが一番現実的で、かつ、理想的な解となりそうである。つまりは、ちょうどよいバランスで父性と母性の両方を持つ組織になればいい。父性と母性のどちらかだけが優先する社会は、やはり健全ではないのである(注4)。では、どうすれば、そのような父性と母性がちょうど良い按配の組織を作ることができるのだろうか。
(注1)河合隼雄[1997].『母性社会日本の病理』講談社+α文庫。初版は1976年である。以下、本文での河合氏の指摘は本書によっている。
(注2)文化人類学者の上田紀行氏(東京工業大学准教授)は、年間3万人という自殺者数の1998年以降11年間連続していることに関して、以下のように述べている。「私は5年前の構造改革絶頂期に、欧米仕様の過酷な評価システムを導入すれば、他人からの評価によって自己重要感を築いている日本人の心は破壊されつくすだろうと指摘したことがある。そうした「受け手」側の問題に加えて、この評価システムと効率化は、日本的集団性に内在するいじめや排除といった負の構造に正当性を与え、その潜在的な闇を強烈に顕在化し、野放しにした、という意味でも、極めて暴力的なものなのだ」(「今を読み解く:社会の根幹揺さぶる自殺」『日経新聞』2009/9/13)。
(注3)例えば、ユニ・チャームペットケア株式会社では、「成果主義で経営するなら社長はいらない」として、年功序列を維持することにこだわり、好業績を維持しているという(「底流を読む:ユニ・チャームペットの『反成果』」『日経MJ』2009/9/14)。
(注4)勿論、片親家庭は健全ではないと言っているのではない。片親の場合は、一人の親が父性と母性の一人二役をこなすことによって、或は外部の機能を上手に活用することによって、父性と母性のバランスがとれた家族を成立させているのだろうと考えられる。
※執筆者の個人的見解であり、日本総研の公式見解を示すものではありません。