山形県鶴岡市にある「下池」(しもいけ)は、山を背後として市街地に臨む大きな池である。冬には何千羽という白鳥が飛来するラムサール登録湿地で、シーズン中はバードウォッチャーやカメラマンも多く訪れる名所だ。白鳥たちは、毎日日の出と同時に続々と飛び立ち、日中は内陸側の水田で食事をとり、夕方には池に戻って眠りにつくという。鶴岡という地域の地理条件と、湿地の保全管理を担う方々の努力によって支えられている光景だ。
生物多様性の保全はかねてより、地域ごとに進めることが重要と言われてきた。鶴岡のように、地域ならではの自然環境や生き物たちが相手になるというだけでなく、関係するステークホルダーや、自然の活用によって目指す地域づくりの将来像も、地域によって異なるからである。
地域ごとの将来像を設定し、これを先導していく役割は行政、特に市区町村が担うものとされてきた。その方針を定める行政計画として、生物多様性基本法に基づく「生物多様性地域戦略」(以下「地域戦略」)がある。2008年に成立・施行された生物多様性基本法において、都道府県及び市町村による策定が努力義務とされたが、2024年1月1日現在の市区町村の策定率は9.5%程度(166自治体)に留まっている。環境省では、これを2030年度までに3倍の30%に引き上げることを目標に定め、自治体への技術的支援等を提供している。
策定が進まない要因は何か。研究プロジェクト「PANCES」(社会・生態系システムの統合化による自然資本・生態系サービスの予測評価)の調査では、市町村が地域戦略を策定しない要因として最も多いのは人的資源の不足と指摘されている(※1)。今後、地方公務員の人手不足はさらに悪化すると考えられており、状況はますます厳しくなるだろう(※2)。さらに、単なる職員数の不足だけでなく、生物の知識を持つ職員がいないといったことも課題である。環境省が示す策定手順では、現状と課題について情報収集をした後、地域の将来像を上位の総合計画などと整合させながら、いわばトップダウンで設定することから戦略策定が始まるとされており、生物多様性に詳しい職員がいない中ではハードルが高い作業だろう。もし無理に進めたとしても、現場の実態としっかり繋がった具体性のある将来像を描くことが難しいかもしれない。これでは意味のある地域戦略とは言えない。
理想的な策定手順に拘らない方法も考えてみたい。例えば近年は、企業や環境NGOが自治体と連携協定を組み、特定エリアで具体的な保全プロジェクトを起こす事例が増えている。このようなプロジェクトが進行すると、少なくとも対象のエリアについては、将来像とそれに向けた課題・解決策が自ずと見えてくるはずだ。そうやって見出される「エリアごとの将来像」を束にして、行政区画全体の地域戦略にまとめあげるという、積み上げ式の策定手順があってもよいのではないか。この時自治体に必要なのは、各プロジェクトの方向性を理解し、行政区画内での整合性を取っていく調整力であり、個別のプロジェクトで必要な専門性は、環境NGOや外部専門家が代わりに担うことができる。また国としては、各地でプロジェクトが発生するための全国レベルの土壌づくりを支援することが可能だろう。日本最大の環境NGOである日本自然保護協会では、群馬県みなかみ町や埼玉県所沢市などで包括連携協定の事例を作っており(※3、4)、このような全国規模の大組織を資金面等で支援することも選択肢だ。また、地域には自然環境保全に取り組む小規模な市民団体が相当数存在するものである。それらと企業・自治体がうまく連携できるように取り持つ越境人材を、地方創生の文脈で派遣する枠組みなども有効かもしれない。
「ネイチャーポジティブ」の目標年である2030年まであと5年あまり。その頃には実像を持つ地域戦略策定が日本中で広まっているよう、多様な主体によるプロジェクトが生まれる土壌づくりを今のうちから進めていきたい。
(※1) PANCES Policy Brief No.5「生物多様性地域戦略による自治体の取組推進に向けて」

(※2) 「地方公務員は足りているか―地方自治体の人手不足の現状把握と課題」 (蜂屋勝弘, JRIレビュー)
(※3) 日本自然保護協会HP 2023年度の三菱地所、みなかみ町、NACS-Jの3者協定活動報告。定量的評価への挑戦では成果も」

(※4) 日本自然保護協会HP「所沢市、ドコモ、日本自然保護協会が自治体規模のネイチャーポジティブを推進 ~所沢市におけるNTTドコモの生物多様性保全への貢献度を見える化~」

※記事は執筆者の個人的見解であり、日本総研の公式見解を示すものではありません。