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「楽しい日本」をさらに具体的に考えよう

2025年02月26日 足達英一郎


 1月24日、第217回国会における石破内閣総理大臣施政方針演説が目を惹いた。「かつて国家が主導した『強い日本』、企業が主導した『豊かな日本』、加えてこれからは一人一人が主導する『楽しい日本』を目指していきたいと考えております。『楽しい日本』とは、すべての人が安心と安全を感じ、自分の夢に挑戦し、『今日より明日はよくなる』と実感できる。多様な価値観を持つ一人一人が、互いに尊重し合い、自己実現を図っていける。そうした活力ある国家です」と総理は述べた。
 この「楽しい日本」は、元通産官僚の堺屋太一氏著「団塊の後」(2017年発行)や「三度目の日本」(2019年5月発行)に登場する言葉だという。実は、昨年の暮れ、12月24日の臨時国会閉会時の記者会見でも、同氏の著書とこの言葉に言及したうえで、「私はこれを読んだときに、『強い日本』とか『豊かな日本』というのは感覚として分かるのですが、『楽しい日本』というのは何だろうかとずっと考え続けてまいりました」と総理は率直に語っていた。施政方針演説の表現は、年末年始の一か月を費やした思索の進捗だと受け止めたい。

 それでもなお、「楽しい日本」が多義性に過ぎる点は否めない。受け手にとって「楽しい」の解釈は相当にさまざまであろう。ゆえに、「楽しい日本」をさらに具体的に考え、具体的に語る必要がある。反対に例えば「小学校で13万370人、中学校で21万6112人の子供たちが不登校で、その割合は小中学生全体の3.7%に当たる」という状況(文科省・令和5年度児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査)や「南海トラフ巨大地震で被害が最大となるケースの死者・行方不明者は30都府県で約323,000人、全壊は約2,386,000棟になる」という予測(中央防災会議・平成 24年8月29日南海トラフ巨大地震の被害想定について)が、「楽しくない日本」の象徴的な様相であることには異論は少ないだろう。つまるところ、「楽しくない」は分かりやすいが「楽しい」は分かりにくいのである。
 加えて、首相官邸は「楽しい日本」に"an enjoyable Japan"との訳を与えて海外に発信している。これを見て、ゴーカートのような車両を公道上で運転する観光アクティビティが自分の目にまず浮かんだ。こうした享楽的インバウンド施策を、日本全体のあちこちで強化する方針を打ち出したのかと誤解される恐れはなかったのか。せめて、"a delightful Japan"とすべきではなかったのか。「楽しい日本」をさらに具体的に考え、言語化したほうがよいと考える根拠はここにもある。

 堺屋太一氏は生前、「夢ない、欲ない、やる気ない」の「低欲社会」こそが問題だと指摘し、「身の丈にあった」と自己規定してしまうことの弊害を論じた。そして、「楽しい日本」にしようという提言では、ロボットやAI(人工知能)で仕事の時間が短縮され、余暇時間の長い時代が来るので、日本人が何かに上達する楽しみを持てる社会にしようと主張した。これも、ひとつの具体化であり、言語化に違いない。
 刹那的で快楽的であることが「楽しい」の本質だとする見解もある。それについても賛否両論があるだろう。ただ、賛否両論が巻き起こることが、敢えていま必要なのかもしれない。他者の「楽しい」を聞いて、初めて、目指したいとされているものが自分の実感と直截的にあっているのかを、噛みしめてみることができるようになると考えたい。「三度目の日本」に模倣すべき先進モデルは存在しない。ならば合意形成によって描くしかないのである。「『楽しい日本』というのは何だろうか」と、具体的に考え、それを口に出してみることはその第一歩だと気づかされた思いがする。さらに、この行動は「『楽しい職場』というのは何だろうか」、「『楽しい家族』というのは何だろうか」と立ち止まって思索してみる契機にも繋がる。それも意味あることだろう。
 かつて「美しい国」という国家像が提示されたことがあった。当時も具体的な指針になりえないとの批判は上がったものの、中身の議論や合意形成は必ずしも十分に進展しなかった。その繰り返しにならぬよう念じつつ、堺屋太一氏の著書を今一度読み返してみたいと思う。


※記事は執筆者の個人的見解であり、日本総研の公式見解を示すものではありません。

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