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人文・社会科学は「役に立つ」のか

2025年01月28日 野田賢二


 少し古い話であるが、2021年の科学技術基本法の改正で、人文・社会科学が科学技術・イノベーション政策の中に位置づけられた。AIなどの急速な技術進展により、人間や社会と科学技術の関係性が密接になり、それらの融合知の重要性が増したためとされる(※1)。旧科学技術基本法では「人文科学のみに係るもの」は科学技術としての振興対象から除外されており、また旧来から文系不要論のような形で人文・社会科学は「役に立たない」と批判されてきたことからすると、重大な改正である。
 しかし、長年蓄積されたイメージや習慣は、法改正だけでそう簡単に変わるものではない。人文・社会科学の知の活用やその基盤となる学術知の振興に向けて、「役に立つ」とは何か、人文・社会科学がどのように「役に立つ」のか、「役に立つ」ために必要なことについて考察する。

 まず、「役に立つ」とは何だろうか。ここでは、「企業等の事業活動で活用されること」と定義する※。人文・社会科学が「役に立たない」と批判される際、対照として引き合いに出されるのが自然科学や経済学である。それらの学問は、一般的に職業訓練や生命や生活の利便性、社会の維持・管理と直接的に結びつきやすいと認識されている(※2)。「役に立つ」というのは社会に対して直接的に影響を与えるということであり、また、現代社会において学的な知を社会実装する主な担い手は企業であることから上記の定義とした。

 ※なお、筆者は全ての研究や知を、この意味での「役に立つ」ものとして期待し取り扱ってはならないと考えていることを断っておきたい。新たな知が革新的であるほど「役に立つ」のは結果的であり、「役に立つ」とは関係のない好奇心や違和感に基づく知の追求が「役に立つ」の基盤にあるためである。

 企業における人文・社会科学の活用の現状に関して、いくつかの調査が実施されている。文部科学省 科学技術・学術政策研究所の調査によると、企業に所属する人文・社会系分野の研究者は全体の1.3%(2019)である(※3)。また、京都大学の調査によると、人文・社会科学分野の産学連携受け入れ金額は、当該領域を牽引する京都大学であっても全体の約2%(2015-2017)と極めて低水準となっている(※4)。これらのデータは企業における人文・社会科学知の活用が進んでいないことを示している。

 企業の人文・社会科学の活用を推進するためには、どのように「役に立つ」のかを明確にすることが求められる。人文社会科学の社会的意義としては、文学による人間の「想像力」や社会を作り出す「想像力」の涵養や、哲学による「社会デザイン」と「社会批判」の提供、社会学による社会現象に基づく問題提起を政策につなげることといった点が挙げられている (※5)。それらは、経営ビジョン・戦略策定やブランディング、製品開発、組織運営といったビジネスの中核的活動に係るものである。また、かつて日本が得意としていた高品質・高効率な大量生産からのモデル変更が必要と叫ばれ続ける中、包括的な観点で新たな価値を提案する人文・社会科学の活用が有用なのは明確だろう。

 では、なぜ「役に立つ」はずの人文・社会科学領域について、企業内の研究者や、産学連携の事例が少ないのであろうか。そこにはいくつかの理由があると推測する。まず、人文・社会科学は自然科学と比較して研究と商品化などの結びつきが明確でないため、限られた資源を配分する際に選択されにくいことである。また、それらの知は企業活動の中核にかかわるものであるため、企業は知の独占性や秘匿性を必要とするが、特許化により保護することが難しいといったことも関係するだろう。

 そういった中で、どのようにすれば人文・社会科学の知を「役に立つ」ようにできるだろうか。日立製作所と京都大学が開設した日立京大ラボは、その主要な例だ。2者は「ヒトと文化の理解に基づく基礎と学理の探究」の推進を目指し、長期的・俯瞰的な視座での将来の日本社会の社会課題や解決策の糸口を検討している(※6)。また、そこで開発された「政策提言AI」は、日立京大ラボによる「持続可能な日本の未来に向けた政策提言」の他、自治体の未来予測の政策立案プロジェクト等に活用されている(※7)。ただし、こういった活動を行えるのは一部の限られた大企業に限られる。より広く人文・社会科学の実装や振興をするためには、企業従業員が社会人研究者や学びなおしといった形で、企業に属しながら大学等での人文・社会科学の学習と知の創出、企業活動への還元を行うような形も有効だ。各人が会社・社会での経験から見出した課題の解決や、経験値を学問として基礎づけることで、「役に立つ」と同時に知の深化・拡張をしていくことが期待される。

 企業従業員などの学びなおしについては、リスキリングとして政策的支援が行われている。しかし、それらはDXやGXといった顕在的なニーズに対応するための学び、いわゆる理系分野に焦点があてられている(※8)。外部環境変化に対応していくことが重要なのは間違いないが、より長期的・根本的な視点での社会課題解決や社会価値創出を目指すための人文・社会科学領域の学びを推進することが必要ではないだろうか。

 年末年始に「失われた40年」という言葉を何度か耳にした。「失われた」というと所与のものがあったようだが、そもそも私たちの豊かさというのは自然や社会との厳しい生存競争の中で獲得・創出することなしには維持することさえできない。利害や文化の対立を越え、より持続可能で豊かな社会を構想し作り上げるためには、人間や文化、社会の深い理解が欠かせない。人文・社会科学は「役に立つ」のだ。

(※1) 文部科学省、2021年、第6期科学技術・イノベーション基本計画と文部科学省としての推進
(※2) 金水 敏、2017年、大阪大学 文学部・文学研究科卒業式 式辞 等
(※3) 文部科学省 科学技術・学術政策研究所「科学技術指標2019」
(※4) 南 了太、2021年、人文・社会系産学連携の一考察
(※5) 日本学術会議、2023年、人文・社会科学の研究による社会的インパクト~自邸調査に基づく評価の在り方の検討~ 
(※6) 日立京大ラボ、日立京大ラボについて
(※7) 日立グループ、日立京大ラボ編・人文知を取り入れた社会システムを
(※8) 厚生労働省リスキリング関連の主な施策 一覧 (R6.9.12時点)リスキリング関連の主な施策 一覧 (R6.9.12時点)


※記事は執筆者の個人的見解であり、日本総研の公式見解を示すものではありません。


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