オピニオン
終わりなく、よりマシな“正しさ”を作り上げていく
2024年07月23日 野田賢二
私は日本総合研究所が掲げる「次世代の国づくり」というスローガンに共感して2022年の11月に入社した。この1年半程度のなかで感じたのは、そのスローガンは文字面の綺麗さとは違って混沌としているということだった。
そもそも、「次世代の国づくり」に限らなくとも、何らかの新たなビジョン実現の過程では、ほぼ必ず負の影響を受けるステークホルダーが存在する。なぜなら新たなビジョンの実現には、それまで当たり前としてきた行動や思考の習慣、価値観の変更が必要となるからだ。しかし、そういったステークホルダーたちを無下にして新たなビジョンの実現を強行することは、単なる暴力である。一方で、過度に互いの意見を尊重し、すべてを人それぞれのやり方や考え方があるとして放置してしまうと、ビジョンの実現など到底なしえない。そこには、よりよい社会を作っていくために、それぞれが思い描く”正しさ”をいかに扱っていくべきかという問題がある。そして、私たちの活動には、”正しさ”を巡るぶつかり合いと、それを乗り越えて共に新たな”正しさ”を作り上げるという創造的な営みを行うことが必要となるのであろう。
何を食べようか、どこに住もうか、誰と人生を共にしようか、私たちは日々選択をしている。その選択が意識的か無意識的か、本意か不本意かいずれにしても、私たちは社会的なルールや風習、費用対効果、経験に基づく直感といったある種の“正しさ”に基づいて判断をしている。
近年、“正しさ”に対して、多くの人が違和感や不自由を強いるイメージを抱く傾向が強まっているのではないか。戦争は異なる“正しさ”のぶつかり合いである。ポリティカル・コレクトネスは“正しさ”の衝突を避けるための手段だが、「ポリコレ棒で叩く」のように暴力的で抑圧的な意味としてその語が使われることがある。旧来のジェンダー観や家族観といった”正しさ”は、個人の自由という現代の価値観にそぐわないものとみなされるようになっている。“正しさ”はその文化や時代に依存する性格ゆえ、絶えず大小の軋轢を生むものである。
一方で、”正しさ”は社会を成立させるために欠かせない。社会で多様な人間が共存するためには法律や行動規範、世界観、道徳観といった”正しさ”に関する何らかの共通了解が必要となる。それらは社会に秩序や、人々や集団に対してより好ましい姿に向けた思考や行動の変容をもたらすものである。
そのようにして、私たちは一定の共通了解としての“正しさ”を必要とするが、それを導くことは容易ではない。
科学は客観的で普遍的な“正しさ”を求めるための重要な手法だ。しかし、それによって導くことのできる知識は蓋然性を伴う。物理法則や原子といった概念は、人間が認知し想像できる範囲の世界をよりよく解釈し操作するために、つじつまがあっているところのものに過ぎない。そのため、現在採用されている理論は、それらによって説明できない現象が蓄積されていくことで他の理論に置き換えられていく。天動説から地動説へのパラダイムシフトはその一例だ。
“正しさ”に窮屈さと不安定さがともなうなかで、“みんな違ってみんないい”や”人それぞれ”は一見自由で心地良いものとなる。そういった考え方は、多様な価値観や在り方を許容するために確かに重要だ。ただ、それはどこまで適用できるのだろうか。盗みや殺しを働く人間は“みんないい”の範囲外であろう。また、武力や資本力、権力を持つ人間による一方的な支配は許容できないだろう。多様な価値観や存在のすべてを放置し、他の人間との相互理解を拒否し、分断を放置したまま生きていくことは、筆者はできない。
人類がこの先何億年生きたとしても、人類の間での“正しさ”が一つのものに収斂して不動のものになることはなく、永遠によりマシな“正しさ”を生み出すことに向けた努力が続けられることになるだろう。なぜなら、先述のように私たちは疑いようのない客観的な真実を見出すことはできないからだ。また、“正しさ”は文化や歴史に依存し、それらに影響を与える人間や地球環境は動的で常に変化をし続ける極めて混沌とした不確実なものだからだ。
では、よりマシな“正しさ”はどのように作られるのだろうか。そこでは何より、主体的に“正しさ”を求めようとする意志と対話による合意が重要だろう。暴力に依存することなく共存して豊かな生活を創造するためには、人は何らかの合意をする以外に選択肢を持たない。そして、そうした合意のためには主体的に“正しさ”を求め、それを反省的に検証して説明可能な形にすることが不可欠である。合意にむけた交渉プロセスでは利益相反や価値観の衝突が必ず発生するため、双方によりマシな“正しさ”を求める強い意志がない限り合意は成立しないことは言うまでもない。その前提の下で、傾聴と対話を通して、互いの”正しさ”の中にある価値観や意見の共通点や違いを認め合い、共通の”正しさ”を作り上げていくことが、分かり合うことのできない他者と共に生きていく社会の実現につながるのだろう。
※記事は執筆者の個人的見解であり、日本総研の公式見解を示すものではありません。