オピニオン
馬とコンヴィヴィアルな未来
2022年03月08日 井上岳一
馬搬をご存知だろうか。木材を運び出すのに馬を使うことを言う。今はすっかり廃れてしまったが、かつては広く林業の現場で見られた風習である。
近年、この馬搬が静かに注目を集めている。東北や北海道では馬搬を復活させる人々も出てきたからだ。先日、その中の一人を訪ね、作業風景を見させてもらいながら話を聞いてきたのだが、それは想像以上に印象深い体験であった。
何より感じ入ったのは、彼が常に馬に声をかけながら作業をしていたことだ。馬が彼にとってかけがえのないパートナーであることが伝わってきた。仕事を共にするだけではない。彼の生活自体が馬と共にある。家に帰ってからも馬が生活のそばにいて、馬があたかも家族の一員のようになっている。馬と共に働き、馬と共に暮らす。仕事と暮らし、馬と人とが不可分の世界がそこにはあった。
彼は林業で生計を立てている。いつも馬を使うわけではなく、動力機械を使って、木を伐り出すこともある。馬搬と機械作業との違いを尋ねたところ、馬搬は、馬とのコミュニケーションがあるから疲れない、と彼は言った。
チェンソーで木を切り、それを搬出する。馬搬でなければ、この搬出には林内作業車を使う。作業車の場合、運転席にいればいいが、馬搬の場合、馬と共に歩き続ける。馬搬のほうが明らかに身体的な負担は大きいが、そのほうが疲れないと彼は言う。
これは一体どういうことなのか。馬とのコミュニケーションがあるから疲れないと彼は言ったが、話し相手がいるから、疲れを感じずに済むという面は少なからずあるだろう。
だが、それだけではないはずだ。馬搬を見ていて、単なる労働以上のものがそこに立ち現れているのを感じたからだ。木を切り出すのは紛うことなき労働である。馬は動力であり、その意味では機械と同じだ。機械と違うのは、馬には意志があるということだ。馬は一個の生命体であり、意志を持つ自立的な存在である。その自立的な存在である馬が人の労働を手伝っている。鞭打って手伝わせているのではない。馬は言葉ではなく、感情に反応するそうだが、人と馬とが言葉を超えた何かを共有しながら力を合わせる労働のプロセスがそこにはあった。二つの生命体の、相互信頼に基づく創造的な営みがそこには立ち現れていた。
馬搬を見ながら思い浮かべていたのは、思想家イヴァン・イリイチが言ったコンヴィヴィアリティという言葉であった。「自立共生」と訳されるコンヴィヴィアリティ(conviviality)は、con(共に)+vivial(生きる)を語源とする。自立した存在が共に生きる中で生まれる生き生きとした情動や喜びを意味する言葉としてイリイチは使っている。
イリイチがこの言葉を持ち出したのは、社会がコンヴィヴィアルな方向とは逆に行っているとの認識があったからだ。とりわけ彼が問題視したのは、人を自由にするはずのテクノロジーや制度が、いつしか人を隷従させる存在になっているという事態であった。では、人間が自由を享受し、創造性を発揮しながら生き生きと生きてゆくためのテクノロジーや制度のあり方とは何か。それをイリイチは1973年に発表した著作『コンヴィヴィアリティのための道具』の中で問うたのだった。
馬搬における人と馬との協働にはコンヴィヴィアルなものが感じられた。馬搬が疲れないのは、馬と共に生き、働くことの喜びがそこにあるからだろう。そのコンヴィヴィアルな労働のあり方が、見る人の心を動かし、馬搬再評価の気運につながっているのだと思う。
馬も一つのテクノロジーである(源氏が平氏に勝ったのは、源氏が馬というテクノロジーを自在に操れたからだ)。馬搬は、馬というテクノロジーとのコンヴィヴィアルな関係の結び方を教えてくれたが、翻って、今の私達に問われているのは、これから私達の生活に入ってくる新しいテクノロジーと、どうしたらコンヴィヴィアルな関係を結べるかである。
デジタルテクノロジーは、モノを生命に近づける。ロボットや自動運転車などが典型だが、機械はこれからあたかも意志を持つかのような存在になってゆく。21世紀の機械はむしろ馬に近づいていくと考えたほうがいい。
そう思うと馬搬を見る目も変わる。馬搬はノスタルジーでない。コンヴィヴィアルな未来をつくるためのヒントがそこにはある。
※記事は執筆者の個人的見解であり、日本総研の公式見解を示すものではありません。