2022年1月17日の岸田内閣総理大臣施政方針演説にて、「人的投資が、企業の持続的な価値創造の基盤であるという点について、株主と共通の理解を作っていくため、今年中に非財務情報の開示ルールを策定」すると発言した。2021年11月の新しい資本主義実現会議による緊急提言にも盛り込まれ、同月に経済産業省が「非財務情報の開示指針研究会 中間報告」を公表している。その中で人的資本情報の開示が重要視されている理由を2つ挙げている。
・企業の人材や人材戦略が、持続的な企業価値向上に与える影響の増大
・ESG の観点から、労働安全や従業員の健康、賃金の公正性、ダイバーシティへの関心の高まり
こうした動向が企業の人材管理や人材データ活用推進に影響を与え始めている。この10年間にタレントマネジメントシステムなどさまざまな人材情報管理ツールが普及し、企業には大量の人材データが蓄積されるようになった。一方でそのデータを十分活用できていると胸を張る企業は少数派だったが、近年の潮流も影響してデータ活用推進の機運が高まっている。豊富にあるデータを活用して、より重要になる人的資本を科学的に管理し高度化しようという取り組みである。デジタル化による生産性向上だけを目的としたものではない。
理想的な検討手順は、図表1「科学的人的資本経営の検討要素・手順」に示すとおり、我々の人的資本経営とは何かを見つめ直すことから着手すべきである。しかし、その検討もままならず、まずはあちこちに散らばったデータを整理し管理することから始めようとするケースがある。一歩前に進めることは大切であり、その手順は実態を踏まえ柔軟に考えれば良いが、軸がぶれて中途半端な取り組みとなるリスクには留意すべきである。
1.人的資本経営の定義
まず、自社における人的資本経営とは何かを検討し定義することが、第1ステップである。経営戦略を達成するために必要な人材を調達(採用・育成)するための方針や計画などの施策群が人材戦略だが、この出発点に問題があるケースが多い。経営戦略と人材戦略が連携していないのである。人材マネジメントの課題として「人材戦略と経営戦略が紐づいていない」との調査結果を目にすることが多い。そこには経営企画部と人事部が縦割りで連携できていない実態が見受けられる。その場合、まずは横断的に検討できる体制作りから始める必要がある。
経済産業省主導の非財務情報の開示指針研究会において「人材戦略の実現や人的資本への投資が、どのように価値創造プロセスや企業戦略の実現に繋がっているのかを明確に説明する必要がある」という意見を大きく取り上げており、経営戦略と人材戦略の繋がりが重要視されていることがうかがえる。
2.指標設計
人材戦略に関する実態と進捗状況が分かりやすく説明できる的確な指標が必要である。また、社外に情報開示する指標は、特に他社と比較されることを意識する必要がある。人的資本情報の開示で先行する欧米の事例やISO30414 で示すガイドラインを参考とすることができる。管理指標は、人事管理用、社内公開用、社外公開用など目的別に色分け整理して設定し、正しく機能させる必要がある。
3.データ蓄積・分析プラットフォームの整備
人事基幹システムやタレントマネジメント、従業員満足度調査、メンタルヘルスチェック、研修実施・管理ツール、勤怠システムなど、組織内にはさまざまなツールやサービスが収集したデータが蓄積されている。これらデータを整理し、横断的に分析し、十分に活用できている企業は少数派である。そもそも、システム間のデータが連携できていない、必要に応じて人手で連携しているなど、有効活用以前の状況であるケースも珍しくない。
要員計画、採用、配置、育成、評価、活躍支援など従業員の入社から退社まで従業員に関するデータは膨大だ。これら各種データを横断的に活用するために必要なプラットフォームを整備する負担は大きい。それ以上に高い負担となるのが、プラットフォームの活用・運用である。導入したシステムやサービスをなんとか連携させても、活用されていないことが実に多い。それは、図表1の手順で紹介したStep1・2の目的や活用方針が曖昧なまま、とりあえずシステム・サービスを導入したケースが顕著である。
4.モニタリング・分析・予測
指標を決めてモニタリングし、状況を把握すると同時に気付きがあれば深堀して問題の本質を見極めることが欠かせない。例えば、離職率という指標から異常を検知できても、問題の本質は見えてこない。退職者の属性、仕事の成果、評価履歴、キャリアプラン、メンタル、モチベーション、残業・勤務実態など複数のシステムから収集したデータを掛け合わせて分析することで事象の深刻さや問題の本質が把握できることがある。例えば、離職の実態を掘り下げると、期待人材の離職率が高く、理由は業務が集中し残業が増えメンタルが低下、十分な処遇もされず退職しており、フォロー面談もなされていないなど、表面的な離職率より深刻な状況が複数のデータから見えてくるケースなどである。
こうした事実を把握し的確な対策を打つことが科学的人的資本管理の本質である。また、このような運用を通して自社特有の価値ある指標と基準を見いだすことができる。この各指標の見方と異変を察知する基準の発見を機械学習でサポートするAIツールも存在する。
このような運用が軌道にのらないケースでは、人材管理を理解したうえでデータマネジメントできる人材が配置されていないことが多い。実際このような人材は不足しており、人材管理機能に限らず、各業務機能を理解したうえでデータを扱える人材を育成することが欠かせない。このような場面でリスキリングの重要性があらためて認識されることが多い。現業業務をデジタル化して生産性を上げると同時に、創出した余力を新たな重要業務に投入することが望まれる。
5.対策・情報開示
前述のモニタリング・分析・予測の過程を経て初めて社内外にデータに基づいた客観性と納得性ある情報提供が可能となる。また、発見した事実や気付きから、設定した指標や運用プロセス、場合によっては人的資本管理の方針を見直すことも場合によっては必要となる。これらサイクルをうまく機能させることが人的資本管理の高度化の実現につながる。完璧な仕組みが短期間で完成することはなく、運用と改善を繰り返す過程で自社独自の人的資本管理が高度化されていく。
科学的人材管理は、人事異動や評価などさまざまな意思決定において人の経験や勘による属人的な判断でなく、データに基づき客観性・納得性の高いものとし、人材管理の精度を高め経営戦略を人材戦略面から実現することが目的である。併せて、自社の人的資本経営により、企業が活性化し持続的に成長することを的確に社内外に伝える責任もある。
企業が持続的に成長するために必要な人材を的確に調達できているか、そのための人材戦略が機能しているかを注目するステークホルダーは増えている現実に、統合報告書で公開する非財務指標で人的指標が増加している潮流を受けて開示自体が目的化することは避けたい。経営戦略と紐づいた人材戦略とそれを実現するための人的資本管理において、より一層の質の向上が望まれる。
以 上
※記事は執筆者の個人的見解であり、日本総研の公式見解を示すものではありません。