オピニオン
雪だから、手を動かせる――十日町雪まつりにみる表現の余白
2026年09月10日 譚林宣
1.「自由に表現してください」は、本当に自由か
近年、地域づくりの現場では、専門家だけでなく、住民自身が考えや感覚を表現し、それをもとに共創していくことの重要性が高まっている。
住民参加の場で表現が重要なのは、地域の将来像や暮らしの課題が、専門家や行政だけで言語化できるものではないからである。そこに暮らす人、働く人、訪れる人が、自分の経験や違和感、期待を表すことで、初めて共有可能な議論の材料が生まれる。
筆者は以前、テーマの近い二つのワークショップに関わったことがある。一つは美術大学の学生が主に参加したワークショップ、もう一つは地域住民向けに筆者自身が企画したワークショップである。いずれも、将来の社会や地域のあり方について、絵、文字、図、キーワードなど、参加者が自分にとって表しやすい方法で自由に表現してもらうことを目的としていた。
その結果、美術大学の学生は絵や図を中心に表現し、地域住民向けのワークショップでは、成人参加者の多くが文字で考えを記入していた。これは、絵と文字の優劣を示すものではない。自由に表現できる場であっても、人は自分にとって慣れており、意味を見出しやすく、他者に見せることへの不安が少ない方法を選びやすいのである。「自由に表現してください」と言われたとき、人は本当に自由に表現できるのだろうかと考えると、そうとも言い切れない。
2.参加を可能にする「素材」と「場」
武蔵野美術大学名誉教授の大坪圭輔先生は、美術が人々から距離を置かれやすい背景として、創造性や器用さ、芸術的感性が自分には備わっていないと感じること、美術を自分とは無関係な領域として捉えることなどを指摘している(※1)。この指摘を踏まえると、市民参加の場では、参加の選択肢を増やすだけでは十分ではない。参加者がその表現行為を自分に関係のあるものとして受け止め、安心して試せる状態が必要である。
そこで重要になるのが、表現を媒介する素材や場の性質である。素材が身近で、扱いやすく、失敗してもやり直せるものであれば、人は「作品をつくる」という構えを持つ前に、まず触れてみることができる。参加のハードルは、参加者の意欲だけで決まるものではない。何を媒介にするのか、どのような素材を通じて関わるのかによって、人が手を動かせるかどうかは大きく変わる。
この視点から見ると、新潟県十日町市で開催される十日町雪まつりの雪像づくりは、市民参加における表現のハードルを考えるうえで示唆的である。
3.十日町雪まつりにみる、多層的な雪像づくり
十日町雪まつりは、1950年に初めて開催され、以後毎年続いている近現代の地域行事である。「雪を友とし、雪を楽しむ」という住民の自発的な思いから生まれた。豪雪地帯において、雪はしばしば除雪の負担や生活上の制約として受け止められる。しかし十日町雪まつりは、その雪を、楽しみ、表現し、交流するための素材へと捉え直してきた点に特徴がある。第1回から雪の芸術作品が制作され、現在も市民手づくりの雪像は、十日町雪まつりを象徴する重要な要素となっている(※2,※3)。
筆者が十日町雪まつりを訪れた際に印象的だったのは、雪像づくりという造形活動への関わり方が一つではないという点である。関わり方の一つには、コンクールに向けて本格的な雪像制作に取り組む地域コミュニティがある。町内会、地域団体、商工関係者などが時間と労力をかけて作品をつくりあげる姿からは、雪まつりを支えてきた地域の誇りや技術の蓄積が感じられる。
その一方で、筆者が現地で興味深く感じたのは、雪像づくりが公式な出品作品だけに閉じていなかった点である。商店街を歩いていると、店先や道沿いに小さな雪像が置かれている場面に出会った。聞けば、店の人が休憩時間などに、目の前にある雪を集めて少しずつ形にしたものだという。特別な制作環境を整えたわけではなく、そこにある雪に触れながら、自然に手を動かしている。その小さな雪像の前で通行人が足を止め、声をかける様子を見ると、大規模な作品とは別の形で、雪像づくりがまちの中に表現のきっかけを生んでいるように感じられた。
このとき雪像づくりは、個々の作品制作にとどまらない。店先、学校、道沿い、広場にそれぞれの雪像が置かれることで、まち全体が一つの表現の場になっていく。地域の人々がそれぞれの場所で手を動かすことは、雪まつりを「見るイベント」ではなく、地域全体でつくる風景へと変えている。
4. 雪だから、手を動かせる
このような多層的な造形表現を可能にしているのが、「雪」という素材の性質である。
雪は、十日町の住民にとっては冬の暮らしの中にある身近な存在である。雪の少ない地域から来た外部者にとっては、触れてみたい、形にしてみたいと思わせる非日常の素材でもある。つまり雪は、地域住民にとっての日常と、外部者にとっての非日常をつなぐ媒介になっている。
さらに雪は、特別な材料費を必要とせず、まちなかのあちこちにあり、誰でも手で触れることができる。固める、削る、積み上げる、丸めるといった単純な行為から始められるため、専門的な技術がなくても関わりやすい。失敗しても固め直せばよく、時間が経てば溶けて消えていくため、作品を永続的に残さなければならないという緊張も少ない。
この一時性と柔らかさが、「うまく作らなければならない」という心理的な負担を和らげている。完成度の高い作品を目指す人もいれば、店先に小さな形をつくる人もいる。雪という素材は、本格的な制作と、気軽な手遊びのような制作とのあいだに、広い表現の余白を生み出しているのである。
ここに、十日町雪まつりの独自性がある。近年の地域行事では、外部者や来訪者との接点を意識して企画されるものも少なくない。そのため、「地域行事が外部者を受け入れる」ということだけでは、十分な説明にはならない。注目すべきなのは、どのような仕組みや素材が、人々の自発的な表現を実際に可能にしているのかという点である。
十日町雪まつりの場合、その鍵は雪にある。
雪は地域住民にも外部者にももたらす表現の間口の広さは、それまでまちづくりなどに関わりの薄かった人が地域に関わるきっかけにもなりうる。雪に触れ、少し手を動かし、自分のつくったものがまちの風景の一部になる。こうした小さな関わりの積み重ねは、結果として地域のなかでの活性化や、関係人口の形成にもつながる可能性がある。
「自由に表現してください」と呼びかけるだけでは、表現は生まれにくい。人が思わず手を動かしたくなる素材があり、失敗しても許される余白があり、完成度の異なる表現が同じまちの風景の中に並んでいること。その条件がそろったとき、これまでまちづくりや表現の場に縁の薄かった人も、構えることなく一歩を踏み出せる。雪だから、人は手を動かせる。十日町雪まつりにおける雪像づくりは、地域行事において、芸術的な作品づくりを目的とするのではなく、多様な人々が自分なりに参加し、地域や他者との関わりを生み出す入口をどのようにつくるのかを考える手がかりを与えてくれる。
参考文献
(※1) 大坪圭輔(2024)『美術の教育――多様で寛容な「私」であるために』武蔵野美術大学出版局.pp.12-17
(※2) 十日町雪まつり実行委員会「十日町雪まつりの歴史」十日町雪まつりの歴史(2026年6月26日閲覧)
(※3) 十日町雪まつり実行委員会「十日町雪まつりとは」十日町雪まつりとは(2026年7月2日閲覧)
※記事は執筆者の個人的見解であり、日本総研の公式見解を示すものではありません。