オピニオン
【未来社会価値研究所報(Annual report 2024-25)】
1.巻頭言 覆される常識と社会価値を再構築する意義
2025年10月01日 足達英一郎
「社会価値」の意味するところ
2021年10月に社内組織として当研究所が発足してから3年半あまりが経過した。当初、「社会価値とは何ですか」との質問をよく頂戴した。「社会全体が共有している価値観のようなものです。いまから30年後の世の中で、未来の世代がどんな価値観を共有しているか、それを探究したいという組織です。英語の組織名にあるSocietal Values in Future Generationsの意味のほうが分かりやすいかもしれません」と専らお答えしていた。
そのうちに、企業経営の文脈でも社会価値や社会的価値という言葉が語られるようになった。企業が社会に生み出す経済的価値だけでなく、幅広いステークホルダーに与えるポジティブな影響や利益にも関心が集まるようになったのである。経営計画のなか中で、この言葉を柱として位置付ける企業も現れてきた。そのため、「未来社会価値研究所は、企業が今後生み出すべき社会価値を解明しようとしているのですか」という質問を受ける機会も増えた。実際の調査研究を進めてきた際の目線としては、確かに「企業がなすべきこと」に焦点を当てることもあったが、本質的な目的は「社会全体が共有する価値観がどう変化していくか」を見極めることにある。なぜなら、社会の価値観が変われば、同じ企業行動でも善悪の判断が変わり、正反対の評価を受ける可能性もある。だからこそ、「社会全体が共有する価値観の行方」を見定めたいと考えたのだった。
とはいうものの、この3年半で最も強く実感したのは、現在においてすら「社会全体が共有する価値観」がは見い出しにくくなっているということだ。簡単に言いえば、世の中や社会の健全さというものを考える際の物差しが見えにくくなっている。加えて、異なる社会価値に丁寧に目配りをして、それらを包含していこうという姿勢や新たな社会価値の形成に向かっていこうという機運が希薄になっているようにも見える。
「贈与の経済」を視野に入れないフリーランス新法
その一例として、フリーランス新法(特定受託事業者に係る取引の適正化等に関する法律)を考察してみる。この法律は、フリーランスとして働く個人と、業務を委託する事業者間の取引を適正化し、フリーランスの就業環境を整備することを目的として、2024年11月1日から施行された。
従来、フリーランスで働く人は、報酬の決定や支払い、納期などの面で弱い立場に置かれ、不利益を被ることが多かった。さらに、ハラスメントの被害にあっても、フリーランスという立場から泣き寝入りせざるを得ないケースも存在した。このため、フリーランスとして働く人々を保護する法律が制定されることになったが、この目的自体に何ら、違和感はない。
しかし、問題は、金銭的な対価を直接的に求めずに、相互扶助や信頼に基づいて物やサービスをやり取りする個人(従業員を使用しないもの)や法人(一の代表者以外に他の役員 がなく、かつ、従業員を使用しないもの)が、フリーランス新法の対象に含まれるかどうかが明確でないことだ。経済活動のなか中でも、ボランティア活動や地域コミュニティでの助け合いによって支えられている局面は少なからずある。最先端の例では、オープンソースソフトウェアの開発などがあげられるだろう。
見返りを期待しない、あるいは将来的な見返りを漠然と期待する「恩返し」のような関係性に基づいた「贈与の経済」のシェアを高めていくことが、「社会価値」のひとつになり得るという見方がある一方で、今回のフリーランス新法では、書面交付義務(契約内容の明確化)、育児介護への配慮義務(フリーランスの働き方の多様性への対応)、ハラスメント対策(相談体制の整備を義務付け)、中途解除の事前予告(一方的な契約解除からフリーランスを保護)などが定められた。
この結果、例えば、一義的には「知り合いだから」「今後の関係性を考えて」といった理由で、割り引いた報酬で仕事を引き受けたり、あるいは無償で作業を行ったりするような「贈与的」な行動が、煩雑な手続きや対応が必要となることによって抑制される可能性がある。さらに、この延長線上には、経済活動において無償の行為はあってはならないとする考えが定着する恐れもある。
法律制定の過程で、一定の検討が行われた痕跡はある。公正取引委員会の「フリーランス・事業者間取引適正化等法に関するQ&A

また、同Q&Aには「『事業者』とは、商業、工業、金融業その他の事業を行うものをいいます。純粋に無償の活動のみを行っているものは『事業者』に該当しません」と書かれている。しかし、業務委託側の法人が、非営利一般社団法人や特定非営利活動法人であったとしても、純粋に無償の活動のみを行っているケースは稀であり、業務受託側の個人にしても、純粋に無償の活動のみを行っているケースは稀であるのは自明だろう。だとすれば、専門的な能力を持った個人が、趣旨に賛同するNPO法人の業務を手伝おうとする場合にも、書面交付義務が課されるのだろうか。
経済活動においては、短期的な利得だけでなく、長期的な信頼関係やコミュニティへの貢献が重視されてよいという社会通念は存在してきたし、今後、こうした期待がさらに大きくなる可能性もある。しかし、フリーランス新法によって契約関係が厳格化され、「ウェットな関係性」は失われ、よりドライな「仕事の受発注」という側面が強調されることになるだろう。結果的に、相互扶助的なコミュニティの形成や、信頼に基づく柔軟な協力関係が生まれにくくなるのではないか。これまでは「お互い様」の精神で柔軟に対応していた部分が、新法の適用を恐れてすべて契約書に基づいた厳格なやり取りに移行することで、かえって非効率になったり、人間味のある関係が希薄になったりするのではないか。
繰り返しになるが、「弱い立場に置かれがちなフリーランスの地位を是正する」というのも、確かに明確な「社会価値」に違いない。しかし、その達成を目指す過程で、別の「社会価値」が犠牲にされてしまうのは残念なことだ。法律を丁寧に工夫して作っていけば、これは避けられた可能性がある。いまのまま、法律順守の圧力だけが強まるのだとすれば、「市場経済・契約主義」の強化が一方的に推し進められ、「贈与的な要素」が切り捨てられてしまう懸念は拭えない。社会価値を凝視することの意義は、世の中の制度やルール作りにおいて思慮深さを取り戻すことへの貢献にあるだろう。
社会価値を再構築して見い出す地方公共交通衰退への処方箋
経済や社会のあり方に関する価値観には、常に異なる見方が存在し、ときに鋭く対立さえする。「社会全体が共有する価値観の行方」を探究する前提として、いま目の前にある異なる価値観やその連関性を、感度高く、包括的に把握して、可視化しておくことも大きな意義を持つ。
次に、日本国内、とりわけ地方部における公共交通の衰退という問題を事例として考えてみる。近年、地方の路線バスやローカル鉄道が衰退して高校生、高齢者、障がい者の移動の自由に著しい不便が生じていることがしばしば指摘されている。ただ、この問題はごく最近始まったものではない。ここに至るまで、私益と公益、もしくは私有財と公共財の一方を重視する社会価値が、収斂することなく、振り子の重りのように右に左へと行き来してきた経緯の結果だといえる。
ある程度の空席があれば、乗客が一人増えても他の乗客の利便性がすぐに損なわれるわけではなく、その機能で地域全体の経済活動が活発になり、住民生活の質が向上するといった「外部経済効果」も生み出すことから、公共交通は公共財的な性格が強いと理論的には説明される。
しかし、実際には、多くの人が自家用車を所有する現代において、個々の住民が利便性や時間、費用などを比較検討した結果、自家用車のほうが「合理的」だと判断すれば、公共交通機関の利用を控えるようになる。公共交通機関は「いざというときの選択肢」あるいは「運転できないときの代替手段」と位置付けられがちだ。
しかも、バスや鉄道は、時刻表があり、基本的に「いつ行っても利用できる」という感覚があることから「誰かが維持してくれるだろう」「誰かが利用するから存続するだろう」「自分一人くらい公共交通機関を利用しなくても、全体には影響ないだろう」という意識につながる傾向が強い。こうして個人の合理的な判断が積み重なることで、公共交通全体の利用者数は減少していく。
利用控えが進むと、公共交通事業者の運賃収入は減少する。一方で、運転士の人件費、車両の維持費、燃料費などは高騰し続ける。特に地方では、利用者の減少に加えて、少子高齢化による運転士不足も深刻な問題となっている。多くの公共交通事業者にとって赤字転落は避けられない事態となる。このとき、公共交通事業者や「交通弱者」「交通難民」からは「公共財なのだから行政がコストを負担すべきだ」という声が上がり、自治体も場当たり的に補助金を交付することを選択する。
そうなったとしても、補助金の財源は無限ではなく、自治体の財政状況も厳しいなか中で、十分にカバーできないケースも頻出するようになる。すると事業者は運行本数の削減、路線の廃止、車両の老朽化放置という手段を取らざるを得なくなり、それがサービスの質の低下になって、さらに利用者の減少を招くという悪循環を作りだす。
ただ、足元では、高校生、高齢者、障がい者の移動の自由が、ここまで制限されるようになると、真の意味で問題解決の処方箋を探ろうという試みがいくつかの地方都市で芽生えている。「地方公共交通の衰退は、交通事業者の問題だ」、「利用者が少ないから仕方ない」といった「責任の押し付け合い」では問題が解決しないことが自覚されるようになった。公共交通が、道路や水道、電気と同様に、地域社会の基盤となる重要なインフラであるという認識が、行政や住民のあいだで共有されるようになった。目先の赤字補填のための補助金交付では、根本的な解決策にならないことの理解が形成されるようになった。これらは、明るい兆しとなっている。
公共交通が「誰もが利用可能な公共的なサービス」として存在していて欲しいと認知されながら、個々の利用者の「自分自身の合理性」に基づいた行動(自家用車の利用や利用控え)が積み重なり、結果としてサービス全体の維持が困難になり、最終的に誰もが不便を被るという状況は、かつて、英国の経済学者ウィリアム・フォスター・ロイドが1833年の著書で触れた「共有牧草地」の状況と非常によく似ている。こうした状況は、のちに「共有地の悲劇」として概念化されるが、その問題解決のためにはいくつかの定石も導かれている。ならば、その定石を地域公共交通の衰退問題にも適用することは有効だろう。考えられる処方箋には、以下のようなものがある。
①利用の「管理」や「ルール」の強化: 利用者への啓発とインセンティブを強化(定期券利用割引、パークアンドライドの推進など)。
②全体を統括する「責任者」の明確化: 地域全体の交通網をデザインし、責任を持って維持・運営する主体(自治体や第三セクターなど)の役割を拡充。
③一部「私有化」的なアプローチの許容: 特定コミュニティや企業が、交通手段を「自分たちのもの」として支える意識を醸成(住民による維持組織の設立、企業による通勤バスの共同運行など)。
④外部経済効果評価と対価支払いの導入: 公共交通機関がもたらす地域全体の便益(医療アクセス確保、高齢者の社会参加促進、環境負荷低減など)を定量的に評価し、その便益に見合った公的資金の投入や、地域住民全体で支える仕組みを構築。
加えて、最近の技術革新の成果も利用して、地域全体の多様な移動手段を連携させ、より便利で効率的な移動サービスを提供すること(MaaS: Mobility as a Service)で、自家用車依存からの脱却を促すアイデアも有効だろう。
こうした真の意味での問題解決の処方箋に至るためには、いま目の前にある異なる価値観やその連関性を、感度高く、包括的に把握して、可視化することが第一歩になる。社会価値を再構築してみることの意義は、既存概念の対立や悪循環から生じる閉塞状況を突破することへの貢献にあるだろう。
社会価値の分断や対立を、あえてポジティブに受け止める
この半年ほど、世界では「社会全体が共有してきた価値観」が「全く別の価値観」に取って代わられるかのような出来事が相次いでいる。これまで世の中の常識とされてきた社会価値が覆されているかのような印象を受ける。
戦後80年、少なくとも多くの先進国は、国際協調主義や多国間主義を世界秩序形成や外交の拠り所にしてきた。また、グローバリズムと自由貿易には良い面と悪い面があるとしながらも、その推進がもたらす利益が大きいと考え、経済政策の前提に置いてきた。それに関連して、人や文化の多様性を許容することが価値創造につながるとも考えてきた。さらには、民主主義、人権、科学、法治といった普遍的価値に基づいた社会制度を築いてきた。
それが、足元では、自国第一主義、二国間取引外交、「力」に基づいた秩序形成、ナショナリズム、保護貿易、そして多様性や科学を否定し、権力や自己利益を優先する社会制度が支持を集めるようになっている。その典型は米国であり、2024年11月の大統領選挙結果が、いわば戦後80年の常識を、次々と覆している状況を私たちは目の当たりにしている。
2025年3月4日の国連総会で、「平和的共存国際デー」を記念する決議を議論するなか中、同決議が「持続可能な開発目標(SDGs)を再確認している」ことに懸念を表明した米国政府国連代表部の発言は、極めて象徴的だった。それは「簡単に言いえば、アジェンダ2030やSDGsといったグローバリストの試みは、選挙で敗北しました。したがって、米国は持続可能な開発のための2030アジェンダと持続可能な開発目標を拒否し、非難します。そして、今後はこれらを当然のこととして再確認することはありません」と発言したのだった。
戦後80年の常識を覆そうとする同様の傾向が、日本を含む他の先進国においても、顕在化していることは否定できない。また、そうした支持層が、従来の社会価値を、執拗に非 難、嫌悪、否定する発言を繰り返すことも、特徴的だ。「社会全体が共有する価値観」の掛け替えが、これ程、過激に企てられたことは、戦後80年のあいだに無なかったがゆえに、私たちは、これを「社会価値の分断や対立」と捉え、ときに動揺し、「明日何が起こるか分からない」という不安に苛まれている。
しかし、単純に恐れ戦いているだけでは時間の浪費に他ならない。毎日、報道される出来事を横目に、冷静になって考えてみると、この混乱をポジティブに受け止める余地も大きいことに気づかされる。なぜなら、私たちは、いつの間にか「社会全体が共有している価値観」に対して、それを空気のようなもの、常識だと見做して、深く洞察することに無頓着になっていたと言いえるかもしれないからだ。「社会全体が共有してきた価値観」が「全く別の価値観」に掛け替えられようとするとき、私たちは、どのような社会価値を選択すべきかという問いに、嫌でも答えざるを得なくなる。分断や対立を意図的に煽るわけではないが、分断や対立によって初めて社会価値の選択肢が提示されるという側面は確かにある。
そこから、本稿で例にあげたような、社会価値を凝視することの意義、社会価値を再構築してみることの意義が生まれる余地は十分にあるのではないか。当研究所の「社会全体が共有する価値観の行方」を探究するというミッション達成へのハードルがすっかり高くなったことは否めないが、この探究の意義は、現下の状況だからこそ、一層大きくなっていると考えたい。
※記事は執筆者の個人的見解であり、日本総研の公式見解を示すものではありません。
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