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ルールとブルシット・ジョブが蔓延する世界で
―いきいきとした社会を取り戻すために私たちに何ができるのか?―

2025年09月09日 野田賢二


 近所の公園を歩くと、掲示板に並ぶ禁止事項の数々が目につく。ボール遊び禁止、犬の散歩禁止、花火禁止、大声禁止。公園とは本来、自由な遊びや多様な交流が生まれる場であったはずだ。しかし、そこは今や厳格なルールが支配する退屈な空間となっている。

 ルールが日常の至る所で増大している。私たちの日常をとりまく学校や職場において、労働や環境、情報セキュリティなどに関するルールが追加され、業務マニュアルや契約などの手続きが複雑化し、その対応に要する労力は増加の一途をたどっている。うんざりしつつも、私たちはこの変化に当たり前のように順応しているが、本当にこのままで良いのか、立ち止まって考えるべき時を迎えているように感じる。そもそもなぜルールは、これほどまでに増え続けるのか。

 ルールは、社会や組織において、それらを維持し、その目的を達成するため、或いは、リスクや混乱に対処・予防するために設けられる。変化し続ける自然環境や経済・社会情勢、絶え間ない技術の進歩の影響で新たなリスクは発生し続け、それらに対応するために新たなルールが生み出される。一方で、ルールは一度生まれると、簡単にはなくならず、放っておけば増殖していく性質を持っている。

 たとえば、公園で何かトラブルが起きれば、管理者は今後、同じようなトラブルが起きないよう、新たな禁止事項を追加する。禁止した行為によるトラブルは、管理者の責任ではなく、ルールを守らなかった者の責任になる。管理責任を問われる管理者の側にしてみれば、責任を問われる事態が発生するのは避けたいから、当然の判断かもしれない。しかし、その結果、例えば子どもの自由な遊びが禁止されるようなことになると、公園の本来的な機能の発揮は阻害されることになる。そのことをどう考えるべきなのだろう。管理する側にしてみれば、トラブルはできるだけ避けたいからルールを増やす。その結果、ルールを守れないものは、逸脱者として排除されるようになる。それは多様性の排除につながらないだろうか。少なくともそこに公園利用者の個別の事情や文脈に対する眼差しはない。逸脱を認めないことで、管理者にとって都合の良い、従順でお行儀の良い人間しか存在できない空間に染め上げられてゆく危険性がある。

 これは何も公園に限られた話ではない。例えば、職場においても、ルールの増殖は顕著である。企業はリスク管理やトラブル対応の名の下に、新制度、報告書、会議、監査、決裁フローを際限なく積み上げる。その結果、実質的な価値を生まない仕事に多くの人が従事することになり、自分の仕事が社会に有益と思えないという感覚を持つ人が増えている。人類学者デヴィッド・グレーバーは『ブルシット・ジョブ』の中で「被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態」が現代に蔓延していると指摘し、そのような仕事をブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)と名付けた(※1)が、ルールの増殖が、ブルシット・ジョブを大量発生させているのである。仕事への積極的な意欲を持たず最低限の業務のみをこなす「静かな退職」や経済的な自立により早期に退職する「FIRE」が耳目を集めるのも、ルールが生み出したバカバカしい仕事が増えていることと無縁ではないだろう。

 本来、ルールとは、他者の自由や尊厳、安全や公正を脅かすことがない範囲で、個人の自由と創造性を保障するための手段としてあるはずだ。しかし、現代ではそれが自己目的化し、本来、ルールが何のためにあるのかは忘れ去られ、ルールに従ってさえいれば正しいという形式主義を生んでいる。また、逸脱を防ぐことにばかりに気がとられ、そこにリソースを割き始めると、新たな物事を生み出そうという前向きな組織の活力や信頼関係は損なわれていくように感じる。ルールの増殖が招くブルシット・ジョブの蔓延は、個人のやる気を削ぐだけでなく、組織の活力や信頼関係を損なうことにもつながるのである。

 経済学者の森川正之らは、日本の労働者がコンプライアンス対応のために総労働時間の約23%を費やしていることを明らかにし、その莫大なコストとイノベーションへのマイナスの影響を指摘している(※2)。多くの場合、ルールの追加はコストを増大させる。労働者は絶え間なく業績向上を求められながら、ルールが追加・更新される度に、時に理解が非常に困難な長く複雑な文章を読み、それに対応するために多くの書類作成などの追加業務を行っている。

 だからこそ、ルールの増殖を許すべきではないし、そのためにも、ルールは定期的に見直し、再評価して、廃止することをしていく必要があるのである。

 同時に、ルールに従う側が、その見直しや改廃に関われる余地があることも重要になる。なぜ、ルールが人を疲弊させるかと言えば、ルールの決定に関われる余地がないままに、ルールに従うことを求められるからだ。自分の納得していないものに従わせられる時、人は自由や尊厳が侵害された気分を味わう。それは人から生きる気力を奪う。しかし、ルールをつくる側、少なくともルールの制定・改廃に際し、ものが言え、それがきちんと聞き届けられるという感覚、自分もルールに関する意思決定に関われているのだという実感が持てれば、ルールによってそこまで疲弊させられることはない。ルールをそういう手触りのあるものにすることが、これからは求められる。

(※1) デヴィット・グレーバー, 『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』
(※2) 森川正之, 『経済の展望について 〈ESRI政策フォーラム資料〉』


本コラムは「創発 Mail Magazine」で配信したものです。メルマガの登録はこちらから 創発 Mail Magazine

※記事は執筆者の個人的見解であり、日本総研の公式見解を示すものではありません。
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