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RIM 環太平洋ビジネス情報 2003年8月Vol.3 No.10

中国社会の流動化とSARS禍

2003年08月01日 環太平洋研究センター 顧問 渡辺利夫


現在の中国を象徴するキーワードの一つを私は「流動化」と名づける。

かつての中国は、農村では人民公社、都市では国有企業という、いかにも単純な図柄であった。しかし1992年以来の中国は、顕著な速度で市場経済化を進展させ、国有企業以外にも経営主体が多重的に形成され、それに応じて利害集団が多層化し、社会階層も錯綜化した。錯雑として「流動化」する現在の中国の社会は、共産党による一党独裁で統治出来るほど簡単なものではなくなったのである。

流動化を最も端的に表すものが人口流動である。中国では長らく厳格な戸籍(戸口)制度が採用され、農民戸籍を都市戸籍に変更することはほとんど不可能であった。現在でも基本は変わっていない。しかし農村が過剰人口を抱える一方、沿海部諸都市が急速に発展し、就業機会を豊富に創出したために、農村部から都市部へと向かう労働力の「移出圧力」が一段と強まっている。政府もこの圧力に抗することが出来ず、「暫住証」の発行等により期間を限定した移動を容認するようになった。法の目をかいくぐり無許可で都市に流入して住みつく人口も、相当数に上る。

2000年の人口センサスによれば、戸籍地を6カ月以上離れて他地域で暮らす人々が流動人口とされ、その数1億2,100万人に及ぶという。このうち自省を越えて他省に移動する人口は4,250万人である。流出人口比率の高いのは、四川省、安徽省、湖南省、江西省、湖北省のいずれも中西部の貧困地域であり、流入人口比率の高いのは、広東省、浙江省、上海市、江蘇省、北京市、福建省という沿海の発展地域である(この点については今井宏「大量失業時代にどう対処する」渡辺利夫編『ジレンマのなかの中国経済』東洋経済新報社、に詳しい)。省間移動はまぎれもなく、内陸部から沿海部へと向かう人口が主流であり、しかも、その数が毎年4,000万人以上だというのであれば、巨大な人口流動化が、中国の全土で開始されたと表現しても過大ではない。

なぜこんなことをいっているのかといえば、新型肺炎SARSの中国国内でのまん延が深刻化しているからである。SARSは広東省で発生し、香港、北京市に波及し、北京市からじわじわと内陸部の諸省へと流動人口の波に乗って広がっていったとみてまちがいない。

内陸部農村の所得水準は圧倒的に低い。上海市や北京市の一人当たりGDPが3万5,000元、2万3,000元である一方、広西省、貴州省のそれは 4,300元、2,700元である。内陸部の省内にもこれに類する都市・農村格差があり、すなわち、内陸部農村地域は古来の貧困をそのまま現在に引きずっているのである。医療設備の整った医療機関は内陸部では省都を除けばまずない。農民は医療保健制度の埒外にあり、仮に病院や診療所があったとしてもこれを利用出来るのは一握りの富裕層に限られる。

興梠一郎氏は近著『現代中国-グローバル化のなかで』(岩波書店)において「政府は、農村には衛生保健機関関連費用のわずか15%しか投入ぜず、病院などの医療施設は大半が都市部に置かれている。医療機関に加入していない農民は、病気にかかれば自費で治療するしかなく、家財道具を売り払い、借金をするといった手立てしかない。衛生部の調査では、農村では、治療を必要とされる者の37%しか治療せず、入院が必要とされる者の65%しか入院しないという実態が明らかになっている。病院も利益をあげるために製薬会社と結託し、患者には高い薬を購入させ、治療費を吊り上げる風潮が問題になっており、医療費の個人負担額の増加と相まって大きな問題となっている」と指摘する。

東京工業大学に勤務していた数年前のことだが、研究室の学生をつれて吉林省と北朝鮮との国境線沿いを1週間かけて旅行し、延辺市辺りでひどい大腸炎を患い激痛で身動き出来なくなったことがあった。同市党委の高い序列の人物と知り合いだったこともあり、この町で一番設備の整っているという病院に1晩入院させられるはめになったのだが、あまりに不潔な病棟、医師と看護士の手荒な立ち居振る舞いに腹を立て、こんな病院で治療されたらたまったものではないと痛みをこらえて逃げ出したことがあった。

SARSの恐怖に耐えられず、広東省や北京市から、一報道によれば300万~400万人の出稼ぎ農民が農村に回流したという。とはいえ逃げ帰った農村の方では、彼らを診断する能力もなければ、ましてや治療のための設備と人材は絶対的に不足している。4月末になって、政府は都市と農村の生活困窮者には無料での診断・治療の方針を打ち出したが、この方針自体、困窮者が医療機関にアクセス出来ない「貧困の核」であることを自認したに等しい。仮に無料であったとしても、内陸部農村にはアクセス出来る医療機関はなきに等しい。農村地域で当たり前のように行われたのは「囲い込み」であり、たとえ自村の出身者であっても他地域から帰ってくるものの入村を拒否し、村外の掘立て小屋に隔離するといういかにも手荒な自衛手段であった。

報道によれば、北京市を含めてSARSの新規患者が急減し、中国を半年にわたって震撼させてきたSARS禍もついに終息しつつあるという。これまでの情報隠蔽体質が急に変化したわけでもなかろうから、報道も事実をどの程度正確に伝えているのか心許ない。それでも一時の感染拡大が収まってきたことはWHOも認めており、多少は安心してもいいのかも知れない。

内陸部農村にSARSが幾何級数的に拡大する、そのほんの一歩前のところで事態は鎮静化した。中国の統治体制は皮一枚でつながったのである。振り返れば「亡国寸前」だったような気がする。

もう何度も報道されているので詳述はしないが、昨年11月に広東省仏山市で第1号の患者が発生し香港に広がり、WHOが広東省と香港への渡航延期勧告を出してもなお、中国では感染拡大を抑えることに成功したと衛生相が平然と語っていたのである。末端から最高指導部にいたる情報伝達の密度の濃いネットワークをもつ共産党が、SARSまん延の事実を知らなかったはずはない。それにもかかわらず情報を隠蔽し、隠蔽が不可能となってもなお過小報告をつづけ、この間にSARSを全土と海外に広げてしまった。

公、つまりかつては皇帝権力、今日においては党・政府に信をおかない民の間には、不正確、というより奇怪な病の情報がおどろおどろしく口コミによって瞭原の火のごとく広がり、デマ効果も加わって各地でパニックを引き起こした。

昨秋の第16回共産党大会の党活動報告が、異例の率直さで失業、分配不平等、農村貧困について語ったことは前号の当コラムで記した。党活動報告でこれらネガティブな要因を認めてその是正策に言及しなければならないほどに、民の怨嗟の声が強まっていることの反映である。しかし、新政権発足後、早速にして SARSへのまことに稚拙で愚劣な対応である。

党の政治権力が強いということと、危機管理能力が高いということとは同義ではない。情報を公開し機動力をもって細心の行政力を発揮し、民の厚い協力を得てことにあたるというシステムが中国には決定的に欠如している。このことを今回のSARS禍は図らずも世界に証してしまった。党・政府の信はますます薄い。 SARS禍は胡・温新体制の将来を暗示する不気味な予兆のように思える。現在の中国を象徴するキーワードの一つを私は「流動化」と名づける。
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