クローズアップテーマ
第4回 脱構築というイノベーション その1【大林 正幸】 (2008/11/27)
2008年11月27日 大林正幸
1. ルールや規程を守れば責任は果たせるのか
「内部統制」という監査で使用されてきた用語が、一般的な経営管理の用語として使われるようになった。法律により、経営者が有効な内部統制を整備することが義務として定められたからだ。これにより、内部統制の整備活動で社内規程を整備することに取り組んだ会社は多い。しかし、規程やルールの整備を進めるにあたって、自由な活動を阻害するとして、規程の整備に対する抵抗も多くみられた。守れないルールはルールではないなどと言われることもある。会社の法律として定める規程?やルールは、本当にこれで良いのだろうか、また、規程やルールに従っていれば、社員としての責任を果たしたことになるのか、今後、この問題に、各企業は悩むだろう。
少し古くなるが1990年に「真実の瞬間」という本が出版された。経営を立て直すために展開したスカンジナビア航空のサービス戦略がなぜ成功したのかを解説している。この本の冒頭で、航空券をホテルに忘れたため空港で搭乗手続きができず困っている客に対して、航空券係員は、「航空券なしでは、搭乗できない」と指示している業務マニュアルがあるにも関わらず、客の事情を確認し係員自らの判断で搭乗カードを渡したケースが紹介されている。(注1)この例には、ふたつの教訓が述べられている。ひとつは、ルール・規程は常に正しいとは限らない点、ふたつ目は、この本の題名でもあるが、客との接遇のわずかな瞬間における、客に対する係員の意思決定は、誰にもごまかすことのできない真実であること、である。
2.再構築と脱構築
規程やルールは会社の法律であり、社員は規程やルールに従って行動することが求められるのだが、先程の例のように、必ずしもルールに従った行動が、常に、正しいとは限らない。「正しい」と「間違い」の両者の間に分水嶺のような「境界」はない。個々人によって判断の基準は異なるが、「その程度」の間違い、つまり、「その程度」のルールからの逸脱であれば、正しい部類に入るかもしれないという曖昧さの中での生活が、日常の状態ということになる。しかし、だからと言ってルールや規程を守らなくても良いというわけではないのだが。
視点を変えれば、このような曖昧さのなかで、意思決定をすることは、相当に高い責任を持った行為が要求されることでもある。ルールや規程に従うだけでは、期待される責任を果たしたことにならないケースも多々ある。組織の秩序を維持することは、決められたルールに従って行動することであると考えられ易いが、そもそも、秩序とは誰にとって正しい秩序なのかを意識することが大切である。客の目線なのか、会社の都合なのか、それとも、自分自身なのか、検証してみることも必要である。
ルールや規程が変わるのは、過去に定められたルールや規程に対して、ルールからの逸脱行為が起こり、それが判例として蓄積していく過程のなかでルール自体が変容して行く時である。つまり、逸脱の行為自体が、既存のルールに影響を残し、ルール自体が、なんらかの形で自ら変化を繰り返すのである。
このような変化は、突然、外部から影響を与えて強制的に変化させる再構築とは、明らかに異なる。昆虫の脱皮のように内部から変容していくことに近いわけで、このことを脱構築と呼ぶ。日常の活動の枠組みのなかで、創造的に変化に関わっていく脱構築が、危機的な状況に陥って行われる再構築よりも会社にとって望ましいのは言うまでもない。(注2)
3.責任ある行為
日常的活動のなかで創造的に変化しながら、組織を存続させていくには、責任ある意思決定行為ができるかどうかが鍵だ。先の例であったように、客との接遇の瞬間に適切な責任ある意思決定を行えることが不可欠になる。これは、過去のルールや規程に、判例としての痕跡を残すには、具体的な行為が必要であるということである。頭で考えているだけでは、痕跡は残せない。具体的な行為能力を社員が持たなければならない。会社の経験や知識また人材など資源の蓄積の厚みが決定的に影響を与える。
行為能力、つまり、正しいと判断し対応行動がとれる能力、表現をかえれば、リスクを識別し統制行動を実行できることが、会社の現場の末端の社員にまで行きわたっていることが、他社との差異を際立たせ、容易に追随を許さない会社と変容することを可能にする。
(注1)ヤン・カールソン 「真実の瞬間」 ダイヤモンド社
(注2)脱構築という言葉を使いはじめたのは、フランスの哲学者ジャック・デリダである。現状を否定することもできず、かといって、正しいということも断定できない、現代人の葛藤を克服するヒントを与えている。