Business & Economic Review 2003年8月号
【POLICY PROPOSALS】
マイルド・デフレ下における「インフレ目標」論-短期フィリップス曲線の非線形性をめぐって
2003年07月25日 新美一正
要約
- わが国経済がデフレーションに陥って久しい。戦後の先進資本主義国において、これだけの長期間、一般物価水準が下落し続けたことはない。現在、わが国が直面する経済状況は、明らかに異常なものである。しかしながら、政策当局も一般市民も、こうした状況を必ずしも異常なものとは考えていないふしがある。それは、デフレの社会的コストに対する認識が国民的にいまだ熟成されていないためである。
- デフレのもたらす弊害のうち最も深刻なのが雇用への悪影響、すなわち失業率の上昇である。失業は単に雇用を失った労働者の経済的悪化をもたらすだけではなく、労働者の社会的な価値の低下をもたらす。さらに、とくに若年層の失業には教育・訓練機会の喪失という、人的資本論的にみたマイナス面もある。従来、望ましい物価水準、あるいは金融政策一般の方向性を考える際には、金融システムの安定性や所得分配のゆがみなどの視点が強調され、失業問題についてはや
や後景に置かれる傾向があった。しかしながら、失業がもたらす社会的コストの大きさを考慮すれば、マクロ経済政策の方向性を考えるうえで、失業を切り口とした分析の積み上げが不可欠である。 - 以上のような現状認識に基づき、本稿では、物価変動率と失業率との間のトレードオフ関係(いわゆるフィリップス曲線)について実証的な分析を行い、今後の金融政策の方向性に対する政策的インプリケーションの導出を試みた。
- 本稿における実証分析結果は以下の3点に要約される。
(1)わが国のフィリップス曲線は非線形であり、インフレ率がゼロ近傍に近づくと、失業率の上昇ペースは急速に高まる。
(2)このようなフィリップス曲線の変曲点は、前年比インフレ率で2%から0近傍までのゾーンに存在する可能性が高い。
(3)失業率への影響で評価する限り、ゼロ・インフレかマイルド・デフレかという政策選択肢にはあまり意味がない。前年比2%以上のマイルドなインフレ率を維持出来るかどうかという点が決定的に重要である。 - 本稿の分析結果から引き出されるマクロ経済政策へのインプリケーションは以下の3点である。
(1)今後、デフレ対応策の一環として明示的なインフレ目標ないしインフレ参照値などが導入される場合、その目標値をどの水準に置くかという点においては、通常重視される上限よりも下限の方が、より重要な意味を持つ。具体的には、インフレ目標値の下限はゼロではなく、前年比1~2%台の水準とすることが望ましい。
(2)いうまでもなく、中央銀行の基本的使命は物価の安定である。しかしながら、そもそもこの使命は、雇用の安定や経済の持続的成長に向けた基礎条件に位置付けられるべきものであって、物価安定と引き換えに失業を無視することが正当化されるわけではない。デフレのもたらす多大な社会的コスト、とりわけ雇用への悪影響を考慮すれば、金融政策のスタンスとしてゼロ・インフレの追求やマイルド・デフレの放置は容認されるべきではない。
(3)もちろん、雇用の安定を金融政策のみによって達成することは困難である。デフレからの脱出に際しては、財政政策をも含めたマクロ経済政策の機動的な発動が求められ、その実現のためには、政府と日銀の一体的協力が不可欠である。