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日本総研ニュースレター 2011年7月号

リスクマネジメント的安全考

2011年07月01日 鈴木 敏正


リスクマネジメントと安全性
 ここでは、リスクマネジメントの観点から社会の“安全”について考察してみる。リスクとは、未だ起きていない事態を指す言葉である。従って、リスクマネジメントとは、未だ起きていないことを、あたかも起きたかのように想像し、それに対して最も合理的な行動を用意することである。それは、“前例の無いことへの取り組み”に他ならない。我々は、“誰かの物まね”では、未知である未来の自分を守れないと知っているし、“前例の踏襲”が、将来の成功を約束しないことも残念ながら知っている。
 つまり、我々は、“絶対安全”が、未来に対する“思考停止”であることを、幾多の自然災害に遭遇した経験を基に、暗黙知として認識してきたはずであるが、一方で依然として“安全神話”を便宜的に信奉してきたのも事実である。それによる“安全担保”にも、多くの場合、納得してきた。同様に、自然災害が起きるたびに、当たり前のように“想定外”が強調され、免罪符のごとく使われてきた。しかしながら“安全”は、方便ではない。全ての不確実性を認識した上で、“安全である”と相互に合意し、その意識を共有することが、安全の本来の意味である。だからこそ“安全性”の担保は、その結果を受ける、社会あるいは“人”への思いや想像力抜きには、不可能である、と言えるのである。

リスクマネジメント的安全概念
 未知の事象を対象とするリスクマネジメントには、“絶対安全”という概念はない。安全の度合いは、ある事象が安全であると思うことと、反対に安全ではないと思うことのバランスで決まり、このバランスが、予め決めていた値より大きければ“安全”であると“個人的”に判断するのがリスクマネジメントの考え方である。
 この判断に使われる“バランス”は、必ずしも科学的に定められるものばかりはでない。時には、個人の志向性、社会の雰囲気や時の環境に左右される。例えば、大地震による甚大な被害に実際に遭遇すると、“安全と思うしきい値”(科学技術の進展と共に上にも下にも変化し得る値で、一般的には安全基準等で表現される)は高くなることが予想される。また、時として訪れる“安全ではない”事態を想定し、それがどのような結果を自分にもたらすか、を思い浮かべることでも、“安全と思うしきい値”が変化することもある。そもそも“安全”とは、合理的な判断基準で設定したしきい値をクリアすれば安全、そうでなければ“安全ではない”とする便宜的な指標に過ぎない。ある機械を設置している工場において、“この機械は、どんな地震にも安全に稼動させられるか?”という問いを設定してみよう。“ある機械”を“原子炉”に代え、“工場”を“原子力発電所”に代えると、設定はより現実的になる。ところが、その答えは、正確には“分からない”とせざるを得ない。ある想定した地震に対してだけは、恐らく大丈夫、と答えるのが精一杯であろう(もっとも、そう答えるだけでも勇気がいるが……)。
 原子力発電所の施設・設備などに係る安全性議論は、このような考え方に則ったもので、炉心溶融に至る可能性をある確率以内に抑えることで“安全性”の担保をしようとするものであり、残念ながら、炉心溶融の可能性は否定していない。その上で、そうした重大な事態に陥った際でも、その回避(被害が現実化しない)方策を用意し、その結果が社会的に許容されるレベルであるのを確認することで、“安全性を担保”する、という考え方に立っている。
 医療分野でも同様に“特定の疾病に罹るリスクをある量以下に抑えること”を目標として設定するが、“安全である”か“安全でない”かには直接言及しない。このような考え方の中では、科学技術の進歩を、いたずらに安全性の喧伝に使うのではなく、逆に“非安全”や“リスク”を明示することで、社会のそれぞれの成員に、他者に対する説明責任とその行動の合理的選択を迫っていると解することが出来る。

まとめ
 リスクマネジメント方法論は、未知の事象について、“起こったとしたら”の結果(受ける立場からは被害)を悪魔の想像力を持って想定し、それがもたらす被害を、社会の許容出来るレベルに抑える方策を準備する者のためにある。“安全である”ことに盲従しない行動が今、この不確実性の時代に求められている。


※執筆者の個人的見解であり、日本総研の公式見解を示すものではありません
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