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アジア・マンスリー 2014年7月号

【トピックス】
中所得国の罠と所得格差の是正

2014年07月01日 大泉啓一郎


近年、アジア新興国は「中所得国の罠」を回避するための政策を実施しているが、所得格差是正策との整合性が取れない場合もあり、政策間の調整を怠れば、社会不安や政治不安に発展するリスクがある。

■中所得国の罠とは何か
「中所得国の罠(middle income trap)」とは、世界銀行が2007年に『東アジアのルネッサンス』のなかで提示した枠組みであり、安価な労働力や外資誘致などを活用して経済成長を実現したアジアの中所得国が、産業構造の高度化や技術革新への努力を怠れば、時間とともに成長が鈍化し、高所得国への移行が困難になるという考え方である。

中所得国の罠を回避するための施策としては、高等教育制度の整備、研究開発費の増加促進、都市のインフラ整備、自由貿易協定(FTA)を含む規制緩和の推進、政府主導から民間主導の産業構造転換などがあげられる。

アジア開発銀行は2011年に発表した『アジア2050』のなかで、2050年にアジアのGDPは世界の52%を占めるものの、中所得国の罠に陥った場合には31%にとどまるというシナリオを提示した。その後、中所得国の罠への認識が深まり、各国の政策に反映されるようになっている。例えば、世界銀行が中国国務院発展研究センターと共同で『中国2030』を作成し、それは現在の中国の構造改革の基礎にもなっている。

ASEANではタイとマレーシアが中所得国の罠に陥る可能性が指摘されている。中所得国の罠を回避したとされる韓国と一人当たりGDPを比較すると、1960年代の3カ国の水準は、ほとんど変わらなかった。ところが、1970年代から1990年代にかけて韓国が高成長を持続し、高所得国に移行したのに対して、マレーシアとタイの成長は緩慢で、中所得国から抜け出せていない。

こうした状況を踏まえ、マレーシアとタイ政府は、中所得国の罠を回避する観点から対策を立案し、すでに実施している。マレーシアでは、ナジブ政権が「新経済モデル(NEM)」として産業高度化を目指した政策を実施しており、タイでは、自由貿易協定(FTA)の推進、産業集積地の強化によるグローバル・サプライチェーンへの参加など、競争戦略が実施されてきた。

■所得格差是正といかに両立させるか
ただし、マレーシアやタイなどの中所得国にとって、限られた予算のなかで多くの政策を同時に実施することは容易ではない。加えて、国内では所得格差の是正が求められており、そのための所得底上げ策が中所得国の罠を回避する政策と整合性がとれない場合もある。それはときとして社会不安や政治不安に発展する危険性をはらんでいる。

マレーシアでは、新経済モデルにおいてブミプトラ政策(現地住民への優遇措置)の縮小が計画されていたが、所得格差是正と国民の支持獲得のために、2013年5月の総選挙前にブミプトラ政策は逆に強化された。さらに、低所得者向けの補助金を拡大させるなどの政策も実施され、財政を圧迫している。2013年の財政赤字は対GDP比4.6%、政府債務残高は同60%に達しようとしている。

タイでは、所得格差是正策が政局不安の長期化の遠因となった。注意したいのは、政局不安は、政府が所得格差を軽視したことではなく、むしろ是正に積極的に対応する過程で生じたことである。

政局不安定化の起点とされるタクシン政権は、所得格差是正策を通じて地方・農村で幅広い支持基盤を確立した。2002年に健康保険制度の対象外にあった自営業や農家に30バーツ医療制度(年間30バーツの支払いで一人約1,500バーツ程度の医療サービスが受けられる制度)を実施するとともに、すべての村落に100万バーツ(約300万円)の基金を設立した。  
その後、タイのいずれの政権も所得格差是正に積極的に取り組んできた。2006年のクーデターでタクシン政権が崩壊した直後のスラユット政権は30バーツ医療制度を無償化し、反タクシン派の民主党主導で成立したアピシット政権でさえ、米価格保証制度を通じて農家の所得底上げを図った。現在では、タイの選挙戦では、いずれの党も大胆な格差是正策を公約に掲げることが一般化している。インラック政権の籾担保制度(実質的な高価買い上げ)は過度な所得格差是正策と批判されたが、クーデターで全権を掌握した国家平和秩序維持評議会は同制度を当面継続した。このことからも、所得格差是正への積極的な取り組みなしにタイの政治運営が困難であることがわかる。

■所得格差是正といかに両立させるか
このようななか、アジア開発銀行は『アジア開発展望2014』のなかで「包摂的な(排除のない)財政政策」という特集を組み、アジアの中所得国は所得格差是正のための資金源を、税制改革と徴税力の強化によって確保すべきと指摘した。OECD(経済協力開発機構)もASEAN諸国の財政の持続性に注意を払い始めている。

ただし、現実問題として、中所得国では上記のような財政改革は容易ではない。なぜなら、中所得国の罠を回避するためには大都市の国際競争力強化が不可欠であり、企業誘致のための法人税率の引き下げを含む減税措置との整合性を図ることが難しいからである。

中所得国の罠を回避する政策の遅れは、中長期的な成長力に確実に悪影響を及ぼす。タイでは2006年に灌漑システムを含む大規模な治水プロジェクトが計画されていた。しかし、その後の政局不安はプロジェクトの実施先送りを招き、それは2011年の大洪水被害拡大の遠因になった。

また、インラック政権下で始まった「創造的経済」をスローガンとする産業構造改革と投資政策の見直しは、政局不安で一時棚上げになった。国家平和秩序維持評議会は、当面の経済運営は官僚主導により対処するが、国民の意見を反映できる政策立案には、民主的な手続きを経た政権への移行が必要なことはいうまでもない。

中所得国の罠の回避に必要なのは、具体的な政策だけでなく、所得格差是正策などとの諸政策間調整や国民への中期ビジョン開示などの統治能力である。これらが欠けると政局が不安化しやすいことをタイのケースは示唆している。
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