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アジア・マンスリー 2011年4月号

【トピックス】
タイ・アピシット政権の低所得者層向け政策

2011年04月01日 大泉啓一郎


2011年1月、アピシット政権は「プラチャート・ウィワット(民進)」と呼ばれる都市低所得者層向け政策を発表した。バラマキ政策や選挙対策との批判があるが、福祉国家形成に向けた重要な第1歩である。

■依然大きい所得格差
近年、タイでは政局不安が続いているが、その原因の一つが所得格差にあることは疑いない。
国家統計局の家計調査では、バンコク首都圏(バンコク、ノンタブリ県、パトゥムターニ県、サムットプラカーン県)の世帯月平均所得が4万バーツ(約12万円)であるのに対し、東北タイ農村部は1万3,000バーツ(約4万円)と、約3倍の格差がある。これに対して、アピシット政権は、農家向けに価格変動による損害を補填する所得保障制度の適用、貧困層や高齢者への手当ての引き上げ、小中高校の授業料の無料化などを実施してきた。さらに2010年10月に発生した洪水に際しても、被害者救済のための補正予算を組んで対応してきた。
タイでは、所得格差は都市・農村間だけでなく、都市内部でも大きい。バンコク首都圏の世帯月平均所得を5分位に区分すると、所得の最も高い第5五分位層が全体の約半分を占める。加えて、保有資産の格差はさらに大きい。たとえば金融資産でみると、100万バーツ(約300万円)を超える金融資産を有する世帯の割合が4.7%である一方、1万バーツ未満(約3万円未満)の世帯数は29.2%と高い。
このようにバンコク首都圏では所得や資産の格差が大きく、このことが反政府運動を大規模化させる原因の一つとなってきた。

■都市低所得者層への支援の強化
これら都市の低所得者層に対して、アピシット政権は、1カ月の電力使用量が90ユニット(キロワット時)に満たない世帯の電気料金の免除、バンコク内73路線で800台の無料バスの運行、長距離列車1日8便の3等車の無料化などを実施してきた。さらに、2011年に入って原油価格高騰の影響を抑えるため、軽油の小売価格を1リットル30バーツ以下に据え置くことを公約し、石油基金からの取り崩しにより対応している。軽油価格の安定化のための投下資金は、2月時点ですでに50億バーツを超えている。
さらにアピシット首相は、2011年1月9日に「プラチャート・ウィワット(民進)」と呼ぶ低所得層向け政策を発表した。これは、①自営業者の社会保険加入の促進、②タクシー運転手向けの低利融資、③オートバイタクシー運転手向け低金利融資、④露天商向けに営業スペースの付与と低金利融資、⑤低所得家計向け調理ガス料金の据え置き、⑥低所得家計向け電力料金の無料化、⑦農産物価格保証を通じた食品価格の抑制、⑧生産コストの透明性の強化、⑨バンコクにおける犯罪発生率の低下の9項目からなる。
なかでも、自営業者の社会保険加入は、低所得者層にも社会保険制度を拡張しようとする新しい動きである。バンコク首都圏の就業人口のうち社会保険制度に加入している割合は50%程度にすぎない。今回の政策は、それ以外の人に毎月70バーツの積み立てを条件に、政府が30バーツを支援し、疾病や障害に関する保険サービスを提供するというものである。さらに年金給付を希望する者に対しては積み立て金を30バーツ上乗せし、政府の支援額も20バーツ増額する。積み立ては7月からスタートする計画で、集金は郵便局やコンビニエンスストアを活用する予定である。任意加入であるため、国民皆社会保険制度とはいえないものの、低所得者層にも社会保険加入の道が切り開かれたことは、高く評価すべきである。
さらに、低所得者層への金融支援としてタクシー運転手、オートバイタクシー運転手、露天商向け低利融資が含まれていることも注目される。与信総額は50億バーツ(約150億円)で、タクシー運転手には自動車購入の場合に最高80万バーツ(約240万円)、オートバイタクシー運転手と露天商に対しては、最高10万バーツ(約30万円)を貸し付ける。この低金利融資は2月からスタートした。

■「バラマキ」政策か、「福祉国家」への第1歩か
この都市の低所得者層を対象としたアピシット政権の一連の政策を「バラマキ」政策だとする批判がある。たとえば前述の電気料金免除のための補填金は、月約15億バーツ(約45億円)である。ただし、現在の政策は即座に財政負担を急増させるものではない。歳出全体が2兆バーツであることを考えると、それぞれの支出規模は小さい。2012年度予算(2011年10月~2012年9月)はGDPの3.8%に相当する赤字を見込んで編成されているが、公的債務残高の対GDP比は45%程度であり、ただちに債務危機に陥る可能性は低い。
また、この低所得者層向け政策は、選挙対策だという批判もある。アピシット首相は年前半にも国会を解散し、総選挙を実施したいとの意向を示しており、民主党は今後2年間に最低賃金を25%引き上げることを公約の一つとして発表した。さらに、2009年、2010年の農閑期(3~5月)にUDD(反独裁民主同盟:いわゆる赤シャツ)の反政府集会・デモが大規模化したことから、これらの政策は反政府運動の勢力を押さえ込むことを狙ったものであるとの見方もある。
選挙対策であったにせよ、今回の低所得者層向けの政策は、社会安定の維持と「福祉国家」への道を切り開いたものとして捉えるべきであろう。
今後は、その財源をいかに安定的に確保するかが焦点となる。タイの歳出規模は対GDP比で20%程度であり、世界平均の30%を大きく下回る。他方で、今後タイでは急速に高齢化が進むという事情を考えれば、①個人所得税の捕捉率の改善、②付加価値税率の引き上げ、③固定資産税の早期導入などの税収を確保する税制改革を急ぐ必要がある。税制改革が進まなければ、「福祉国家」の形成に向けた取り組みが、「バラマキ」政策に転じる可能性がある。
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