Business & Economic Review 1997年11月号
【PERSPECTIVES】
わが国物価の安定基調は続くか
1997年10月25日 調査部 蔭西義輝
1.はじめに
バブル崩壊以降、わが国経済は商品・サービスを問わず物価が下落もしくは上昇率が大幅に鈍化するという、かつてない局面を経験してきた。全国消費者物価指数の上昇率は、1991年以降大きく鈍化し続け、95年度には対前年度比▲0.2%と、比較可能な1971年度以降初めてマイナスを記録した。また、GDPデフレーターも94年度に▲0.2%、95年度には▲0.4%と、2年にわたってマイナスを記録し、いわゆる「名実逆転」現象がみられた。
もっとも、最近では上昇に転じている品目も出始めており、96年度には全国消費者物価指数が対前年度比+0.4%となるなど、物価はほぼ下げ止まる状況にある。こうした物価状況の微妙な変化は、バブル崩壊後の物価安定局面の終焉を意味するのか。それとも物価安定基調は今後も持続するとみるべきか。以下では、これまでの物価安定を支えてきた要因を探るとともに、今後の物価動向について展望してみた。
2.商品価格の動向
1)卸売物価の要因分析
一口に物価が安定的に推移しているといっても、商品とサービスでその様相や要因は異なる。そこで、まず商品価格が安定している要因についてみるために、需給ギャップや労働コストといった、景気変動に連動して変化する「循環要因」に着目して分析を行った。具体的に、卸売物価(工業製品、国内品と輸入品の合算)をとりあげて分析してみると、バブル崩壊後の商品価格の動向は、以下の3つの局面に分けて整理できる(図表1)。
(1) 価格破壊前期(92年~94年)
設備稼働率の大幅な低下に反映された需給ギャップの拡大、円高に伴う輸入物価の下落と製品輸入の急拡大、という物価下落圧力が大きく働き、景気後退に伴うユニットレーバーコスト上昇要因を相殺し、物価下落局面が持続した。
(2) 価格破壊後期(95年~96年前半)
ストック調整の進展により需給ギャップがやや縮小したものの、本格的なリストラの展開によるユニットレーバーコストの低下、製品輸入の増勢持続、等による物価引き下げ要因が強く作用し、物価下落が続いた。
(3) 物価安定期(96年後半~)
96年後半以降現在までは、超円高の是正や原材料価格の急騰により輸入物価が急上昇したことで、物価下落という状況には一応のピリオドが打たれた。もっとも、需給ギャップの縮小スピードが緩やかであること、パートタイマー比率の増加に代表される労働コストの抑制姿勢が持続していること、等を背景として、商品価格は安定基調が続いている。
2)分野別バラツキの要因
以上、商品価格安定の要因をマクロベースでみてきた。しかしながら、商品価格の動向を財別にみると、一部では上昇傾向にある財が存在するなど、分野別バラツキがみられる。以下では、こうした財別のバラツキ状況と、その発生要因についてみていくことにする。
まず、商品価格のバラツキ状況をみるために、卸売物価(国内需要財)について財別の寄与度分解を行った(図表2)。それによれば、97年4月の消費税率引き上げの影響を除けば、「最終財」は依然下落要因として作用しているものの、「素原材料」・「中間財」については96年央以降上昇要因に転じている。また、「最終財」をさらに詳しくみると、「耐久消費財」と「資本財」は下落要因であるが、「非耐久消費財」については96年以降上昇要因となっている。
では、こうした商品価格のバラツキがなぜ起きているのか。この要因をみるために、資本財・耐久消費財を産出する業種を「機械工業」、中間財・非耐久消費財を産出する業種を「機械工業を除く製造業」と捉え、これらの産業間に如何なる格差が存在するのかという観点から分析を行った。
まず、生産性上昇率の違いを、従業員1人当たりの売上高の推移によってみると(図表3)、「機械工業」「機械工業を除く製造業」ともに、92年に底を打った後足元まで改善傾向が続いているが、95年後半以降は「機械工業」の改善度合いがはるかに大きくなっている。一方、需給ギャップを反映する設備稼働率の推移をみると、足元では「機械工業」の上昇率が高くなっており(図表4)、需給面からは資本財・耐久消費財の方が物価上昇圧力は強いといえる。
こうしたことから、両者の動向の違いを生んでいる要因は、生産性上昇率の違いであることがわかる。すなわち、「機械工業」にとっては、景気回復に伴う需給ギャップの縮小、円安を背景とした輸入物価の上昇、といった物価上昇圧力があるものの、生産性の向上によってユニットレーバーコストを大きく引き下げることで低価格化を実現している。一方、「機械を除く製造業」については、生産性上昇率が低いもとで、需給ギャップや輸入物価の変動の影響を受けやすい体質となっており、特に足元の上昇については、円安の影響がラグをもって効いてきているものと考えられる。
3.サービス価格の動向
1)分野別の動向
次に、サービス価格の動向についてみると、96年度平均の企業向けサービス価格の対前年度上昇率は▲0.7%、同年度のサービスの消費者物価は1.0%(95年度は1.3%)と、マクロ的には安定基調が持続している。しかし、一口にサービスといっても性格の異なる分野が混在しており、商品のケースように、一つのマクロ指標をとりあげてその変動要因を分析することは困難である。そこで、サービス価格については、分野別の動向をみることからはじめたい。
まず、企業向けサービス価格指数(不動産賃貸、リース・レンタルを除くベース、注)の財別寄与度の最近の動きをみると、消費税率引き上げの影響を除いて考えれば、金融・保険、運輸、通信については物価安定要因として作用しているが、情報サービス、放送・広告、諸サービス(自動車修理等)を合わせた狭義サービスでは上昇要因に転じている。また、消費者物価のサービス(公共サービス、家賃を除くベース)については、外食は足元やや上昇率が高まっているものの、個人向けサービスについては総じて安定した動きを示している。このように、サービス分野については、マクロ的には物価安定が続いているといっても、分野別にかなりの温度差が生じていることがわかる(図表5)。
(注) ここで目的は一般的な景気変動要因による物価変動の分析であるため、オフィス需給や金利動向・コンピューター価格といった特定要因に大きく作用される「不動産賃貸」および「リース・レンタル」は控除した。また、「金融・保険」、「運輸」、「通信」については、価格規制の対象となっている分野もあるが、消費者向けの公共料金に比べれば、概ね市場メカニズムを反映していると考えられるため、ここでの分析の対象とした。
2)バラツキの要因
では、サービス価格についてこうしたバラツキが生じているのはなぜか。その要因を探るために、まずユニットレーバーコストに着目してみた。その分野別の動きをみると、(1)前年対比で上昇基調にある企業向け狭義サービスと(2)下落傾向が持続している運輸、金融・保険、通信、という2つのグループに分けられ、企業向けサービス価格の動向とほぼマッチした動きをしている(図表6)。
こうしたことから、多くのサービス価格が総じて安定している背景には、リストラの継続によるコスト削減の動きがあるといえる(ニュアンス的には、主体的にコスト削減に取り組んでいるというよりも、生き残りのためにコスト削減を強いられている状況であろう)。一方、情報サービスなど企業向けの狭義サービス分野の物価が上昇傾向にある背景として、この分野におけるユニットレーバーコストの上昇が作用しているものと考えられる。もっとも、こうしたコスト上昇圧力が実際の物価上昇につながるかどうかは、価格転嫁の問題である。したがって、企業向けの狭義サービスの価格が上昇傾向にあるのは、景気回復の持続を背景に需給環境が改善するもとで、価格転嫁が実現したためであると判断される。
しかしながら、ここでさらに考慮しなければならない点は、次章で詳しくみる通り、90年代入り後のマクロの物価動向の特徴として、景気回復の割には物価が上がりにくくなっていることである。このことは、価格転嫁の度合いが以前に比べて構造的に困難化していることを意味している。この点を踏まえると、現在みられる企業向け狭義サービスの価格上昇は、単に需給改善に伴う限界的な価格転嫁によるものなのか、あるいは、マクロ的にみられる価格転嫁の困難化という現象自体がこの分野では当てはまらなくなっているためなのか、についてはなお検討する必要があるといえよう。
4.物価安定の構造要因
1)成長率と物価の関係の変化
以上、バブル崩壊後の財別物価動向について、景気変動に左右される循環的側面に着目して分析を行ってきた。そこでは、マクロ的には物価安定は持続しているが、分野別にはバラツキが生じてきていることが示された。もっとも、前章の終わりでもふれたように、物価動向をより長期的な視点からみると、90年代以降のわが国物価には、それ以前にはみられない強い安定性が認められる。
このことは現象的には、経済成長率と物価上昇率の関係が、バブル崩壊以前とそれより後で大きく変化している点に示されている。この点を確認するために、実質GDPを横軸、GDPデフレーターを縦軸とする平面上に、1983年以降現在までの3つの景気循環サイクルごとに両者の関係をプロットし、最小二乗法による両者の関係式を推計してみた。その結果によれば、80年代の2つの景気循環サイクルにおいては、実質GDPとデフレーターの関係式の傾きが急であるのに対して、93年秋を起点とする今回の景気循環サイクルでは関係式の傾きが急速に緩やかになっている(図表7)。このことは、90年代に入って、成長率が高まっても物価が上がりにくい構造になってきていることを示している。例えば、実質成長率が2%のときのGDPデフレーターの上昇率を比較すると、83年から86年にかけては0.9%、86年から93年にかけては0.7%上昇したが、93年以降は0.1%しか上昇しなくなっている。
こうした物価動向を巡る情勢変化は、メガコンペティションを背景とする競争の激化や消費者の低価格志向の定着を受けて、期待インフレ率がほとんどゼロに近くなってきていることを示唆しているといえよう。このように、バブル崩壊後、価格形成プロセス自体に大きな構造変化が生じていると考えられ、現在の物価安定基調持続の基本的背景として、こうした構造要因を無視することはできない。
2)価格転嫁行動の変化
以上のような物価安定の構造要因の存在は、ミクロの行動様式の変化としては、価格転嫁の困難化として現われるはずである。そこで以下では、投入コストの上昇率と産出価格の上昇率の相関をみることにより、分野別の価格転嫁の状況を検討したい。なお、この点を明らかにすれば、前章の終わりで提起した問題に答えることにもなろう。
(1) 商 品
まず、商品分野の価格転嫁状況をみるために、81年度からの製造業投入産出物価指数(対前年度比)をプロットし(図表8-1、2、3)、長期的な価格転嫁の状況をみた。このグラフでは、45度線より上部に位置していれば、投入物価上昇率が産出物価上昇率を下回っていることとなり、価格転嫁がスムーズに行われていることを意味する。逆に、下部に位置していれば価格転嫁が困難化していることを示す。
これによれば、「機械工業」では、90年代以前から概ね45度線を下回っている状況にある。一方、「機械工業を除く製造業」については、かつては45度線より上にあったが、95年度以降は下にあり、最近になって価格転嫁が困難化してきていることがうかがわれる。
次に、小売業の価格転嫁状況をみるために、卸売物価指数の推移と消費者物価指数の推移をそれぞれ横軸、縦軸にとってプロットした(図表8-4)。これも、製造業投入産出物価指数と同様、95年度以降現在まで、45度線より下部に位置しており価格転嫁率が低下していることがうかがわれる。
以上より、製造業から小売業に至るまで、商品については総じて価格転嫁が困難化しているということができる。したがって、商品の物価については、総じて安定化圧力が強く働いているため、2章で指摘した分野別のバラツキは一時的な性格が強く、上昇率格差がさらに拡大していく可能性は小さいと考えられる。
(2) サービス
次に、サービスについてみるために、投入コストとしてユニットレーバーコストを採用し、価格転嫁状況の推移をプロットした(図表9)。それによれば、まず、個人向けサービスについては、96年度では45度線の下部に位置しており、商品分野でみられたのと同様に、コスト上昇分を価格に十分転嫁できていない状況にある。小売業にもみられたように、消費者の低価格志向はこの分野でも働いていることが背景にあると考えられる。 一方、情報サービス、放送・広告、諸サービスといった企業向けの狭義サービス分野では、95年度以降45度線より上部に位置しており、構造的にみても価格転嫁がやりやすくなってきているという、他分野には見られない動きが観測される。したがって、企業向けの狭義サービス分野における最近の物価上昇傾向の背景には、単に需給の改善といった循環要因が働いているのみならず、これまで物価安定を支えてきた構造要因が弱まる兆しがうかがわれる。
5.おわりに
これまでの分析によれば、現在まで物価安定基調が続いている基本的な背景には、構造的なファクターが大きく作用しており、今後ともマクロ的には物価の安定基調が持続する公算が大きいといえよう。特に、分野別にみると、商品分野においては、既往円安の影響等を背景に素材関連でやや上昇する動きもみられるが、構造要因が強く働くもとで基本的には物価安定が持続する可能性が高い。
一方、サービス分野については、総じて安定基調が持続しているものの、企業向け狭義サービス分野において、物価安定を支えてきた循環要因のみならず構造要因も弱まる兆しが認められる。このように、商品価格の安定性と比較すると、サービス価格の安定性には脆弱性が潜在していることを否定できない。こうした分野における動きが、全体の物価上昇につながっていく可能性は当面低いとみられるが、今後のサービス価格の動向については十分注視していく必要があろう。