Business & Economic Review 1997年05月号
【OPINION】
少子・高齢化の進行は厳しい競争社会の前奏曲
1997年04月25日 -
厚生省が1月に発表した「将来推計人口」では、わが国の少子化が諸外国に類をみないペースで進展し、2049年には65歳以上の高齢者の割合が3人に1人に達する、100年後にはわが国人口が半減する、といったショッキングな予想数字が羅列されていた。
筆者のみる限り、こうした人口減少社会の到来に対する論調は以下の3つに大別できる。まず、労働人口による経済成長率の低下や年金制度の破綻を憂い、少子化の進行に歯止めをかけるべきという意見。この主張自体はまことにもっともなものであるが、子供をつくる・つくらないというプライベートな問題に国が口を挟むことに対する国民的な抵抗感も強く、ここから少子化の進行を前提とした社会システムの構築を進めるべきという第2の主張が生まれてくる。第3の主張は、むしろ人口減少社会のメリットを強調する立場である。もともと日本は人口が多過ぎる。人口が減少すれば、通勤地獄も住宅問題も一挙に解消に向かう。教育費負担が低下するので、親世代のライフ・スタイルの自由度が増す。わが国もスイスのように、小国でありながら国民が豊かな生活を享受する国家への脱皮を目指そう、という主張である。
諸外国の先例を検討しても、少子化を食い止めるための公的な出生・育児支援策には膨大な財政支出が必要だから、人口減少を前提とした社会システムを構築すべしという主張が勢いを持つのは当然かもしれない。まして、将来の人口減少社会が第3の主張のように豊かで自由な高齢化社会であればなおさらである。
残念ながら、現実の人口減少社会はこうした楽観的観測とは裏腹に、現在以上の厳しい競争社会となるだろう。現在の豊かさを維持しつつ、「相似縮小」的な人口減少社会の到来を展望することは難しい。
高齢世代に「豊かで自由な」生活を保障するためには所得の向上(百歩譲って現状維持)が必要だから、労働投入の減少を補うだけの生産性の向上が必要となる。生産性向上には技術革新が不可欠だ。高齢化社会では、技術革新の担い手は相対的に若年世代から壮年・高齢世代へ移行する。高齢世代だから技術革新を担うことができないとはいうまい。しかし高齢世代は、従来ならば引退していた年齢に達しても、常に新しい技術・知識を習得し、生産性向上に邁進しなければならない。老後をレジャー等で優雅に費やすことはもはや許されない。高齢化社会では高齢者もまたがんばって働かなければならないのである。
若年世代はどうか。人口減少社会では中長期的な経マ成長の継続を前提とした企業経営はできない。企業の経営視野は短期化し、長期的に限界生産性と乖離した賃金を労働者に支払うことが困難になるので、年功序列賃金制は崩壊する。労働者が所得を向上させるには、やはり不断の努力によって自らの生産性を常に向上させていくしか方法がなくなる。このメカニズムが初任給に持ち込まれれば、より高い知識・技術を求めて進学熱が高まり、受験戦争は現在以上に激化するだろう。その一方で、高い水準の教育を行い得ない二流校は厳しい淘汰の波に直面することになる。
人口減少社会では、女性の社会進出は当たり前の現象である。もはや「腰掛け就職」が許される状況ではなく、貴重な労働人口として男性と同様に厳しい競争メカニズムに晒されることになる。このことは晩婚・非婚化率の上昇を通じて、さらなる出生率の低下をもたらすだろう。高齢者人口比率の高さが容易には解消されないので、社会における厳しい競争状態もまた相当長期間にわたって維持されることになる。
生活水準の向上は人間の基本的欲求である。「乏しきを等しく分かち合う」社会がさらなる生活水準の低下をもたらし、破綻まで行き着くことは、旧社会主義国の惨状をみれば明らかだ。だが、人口減少社会における豊かさの維持は、従来以上に国民全てが「がんばって働く」競争社会の到来を不可避とする。少子化を食い止めるには膨大な財政支出が必要だ。われわれは、これら3つの選択肢のなかから1つを選択しなければならない時期に来ているのである。