Business & Economic Review 1996年12月号
【PERSPECTIVES】
経常黒字縮小の背景とその意味
1996年11月25日 飛田英子
要約
わが国の経常黒字は、1993年をピークに減少傾向が続いており、とりわけ、96年入り後はそのペースが加速している。経常収支を貿易収支、サービス収支、所得収支および経常移転収支の4つに分けてみると、経常黒字の縮小は、主として貿易黒字の縮小とサービス収支の赤字拡大によるところが大きいことが分かる。
貿易黒字縮小の要因を数量、価格の各要因に分けてみると、数量要因が93年以降黒字縮小に働いていることに加えて、価格要因が95年初めにマイナスの寄与に転化しており、足もとの貿易黒字縮小は数量、価格要因の双方によってもたらされている。その背景を整理すると、数量要因については、[1]海外直接投資の進展による効果、[2]消費者の輸入品に対する指向の強まり、[3]輸出先地域での需給緩和、などが黒字縮小をもたらすとともに、価格要因については、[1]円安進行を背景とした輸出価格を上回る輸入価格の上昇、[2]原油価格の上昇、[3]輸入品における高付加価値化の進展、等の要因を指摘することができる。
サービス収支は94年半ば以降傾向的に赤字の拡大が続いており、95年末以降は赤字幅の拡大ペースが一段と強まっている。これは、[1]輸出数量の低迷、輸入数量の増勢持続を背景とした輸送収支赤字の拡大、[2]海外旅行者数の急増に伴う旅行収支赤字の急拡大、[3]円安による支払額の水膨れや大型の仲介貿易案件の発生等によるその他サービス収支の赤字拡大、等による。
以上を要すれば、わが国の経常黒字急減は、海外直接投資の進展に伴う企業行動の変化や消費者の指向変化等の構造的な要因と、円安や原油高等の循環的な要因の双方が作用している結果であるといえる。経常収支の先行きを中期的に展望した場合、循環的要因が徐々に剥落すると見込まれるなかで、構造的要因が続く限り、経常黒字の縮小基調は変わらないと判断される。ちなみに、円相場が110円前後で安定する等の一定の条件のもとで、今後の経常収支の推移をシミュレートしてみると、緩やかな縮小傾向を続け、2000年には1.5兆円にまで減少するとの結果が得られる。
こうした経常黒字の縮小は、80年代後半に前川リポートや新前川リポートが目指した道であり、対外不均衡是正という観点からは好ましいとの判断が可狽ナある。しかし、対外バランスの裏側である貯蓄・投資バランス(ISバランス)面から検討すると、両リポートが目指した方向に沿ったものとは必ずしもいい難い面がある。すなわち、両リポートが目指した望ましい形での対外不均衡是正の姿は、内需拡大と国民生活の質の向上との両立であったはずである。しかるに現実の姿は、構造改革の遅れを背景に、超低金利と財政出動という政策効果に依存する形で家計部門の貯蓄超過幅縮小と政府部門の投資超過幅(=財政赤字)が急拡大した結果として経常黒字が縮小しており、企業部門は国内投資の低迷から貯蓄超過状態に陥っている等、歪みが生じている。
このままでは、わが国は80年代の米国が経験したように産業空洞化が進行する双子の赤字国に転落しかねず、そのツケは為替レートの急激な減価と国民の生活水準の大幅な切り下げという形で跳ね返って来ざるを得ない。わが国が経常黒字の縮小傾向定着と内需主導型の経済構造への移行、国民生活の質の向上を同時に達成していくためには、[1]規制緩和・撤廃による新規産業の育成、新しい投資機会の創出、[2]財政構造改革を通じた非効率な財政体質の改善、が喫緊の課題である。
1.はじめに
わが国の経常収支は、1993年の14.7兆円をピークに減少傾向が続いている。とりわけ、96年入り後は縮小ペースが加速しており、8月までの累計で年率7.2兆円(季節調整値)とピーク比半減、前年同期対比では約3分の2の水準に落ち込んでいる。
そこで以下では、現在の経常黒字急減の背景を整理しつつ、今後の行方を展望するとともに、ISバランスの観点からみた経常黒字縮小の意味について考察したい。
2. 経常黒字急減の背景
経常収支を貿易収支、サービス収支、所得収支および経常移転収支の4つに分けてみると(図表1)、1993年以降の経常黒字縮小は、主として貿易収支とサービス収支の変動によるところが大きい。すなわち、1993年から95年半ばにかけては、貿易収支の黒字縮小がもっぱら経常収支の縮小に作用した一方、95年半ばから足もとにかけては、貿易黒字の減少ペースが加速していることに加えて、サービス収支の赤字幅拡大が経常収支の縮小に寄与している。
そこで、貿易収支、サービス収支についてさらに細かくみると、以下の通りである。
(1)貿易収支の黒字縮小
(イ)貿易収支は、92年の15.8兆円をピークに減少傾向が持続している。とりわけ、96年入り後は減少ペースが加速しており、96年1~8月期は年率8.9兆円(季節調整値)と前年同期対比約7割の水準にまで縮小している。
そこで、貿易黒字縮小の要因をみるために、以下では国際収支ベースではなく通関ベースの貿易収支について価格、数量別に検討していきたい。なお、通関ベースの貿易収支を対象とするのは、同統計は国際収支ベースの基礎データであり、[1]国別・商品別の輸出入額、[2]輸出入価格指数、[3]輸出入数量指数、等のデータが入手可狽ネためである(注1)。
通関ベースの貿易収支を価格、数量の各要因に分けてみると(図表2)、まず、数量要因は、93年以降一貫して貿易黒字の縮小に寄与してきた。輸出入別には、輸出数量要因は95年4~6月期をピークにプラスの寄与を急速に縮小し、95年末以降はほとんど中立的に作用(96年4~6月期には一時的にマイナスに寄与)している。一方、輸入数量要因は93年初にマイナスの寄与に転じて以降、94年から95年半ばにかけては大幅な黒字縮小に作用した後、95年末以降はマイナスの寄与が小さくなってきている。これらの結果、数量要因全体では、貿易黒字に対しては引き続き縮小の方向に働いているものの、その度合いは徐々に小さくなる方向にある。
一方、価格要因は、95年以降黒字拡大要因から黒字縮小要因に転化している。とくに、96年入り後はマイナスの寄与が拡大しており、本年9月までの9ヶ月間で▲1.6兆円と、すでに95年1年間の寄与(▲0.4兆円)の約4倍に達している。これを輸出入別にみると、95年半ば以降の円高是正を背景に、足もとでは輸出価格要因はプラス、輸入価格要因はマイナスと互いに反対の方向に働いているが、輸入価格の上昇ペースの方が輸出価格の上昇ペースを倍近く上回っていることを主因に、価格要因トータルでは大幅なマイナスの寄与となっている。
以上を要すると、わが国の貿易黒字は、93年から95年にかけてはもっぱら数量要因によって縮小傾向を持続していたが、96年入り後はこれに価格要因が加わったため、黒字の減少ペースに拍車がかかっているといえよう。
(ロ) 次に、足もとで価格要因、数量要因が黒字縮小に作用している背景についてやや詳しくみていきたい。
[1]数量要因
貿易収支のうち数量要因による部分(以下、数量収支と呼ぶ)を、対米国、対EU、対東南アジアと地域別にみてみると、対米国、対EUに加えて、95年末以降は対東南アジアについても黒字が縮小に転じている(図表3)。
まず、対米国については、93年以降数量収支が縮小を続けている。これを輸出入別にみると、輸出数量は自動車や自動車部品の輸出の落ち込みを主因に95年半ば以降大幅なマイナスの寄与に転じている。一方、輸入数量は、93年以降一貫して数量収支縮小に働いているが、とりわけ94年半ば以降は、半導体等電子部品、パソコンや同部品、自動車、肉類等をはじめとする輸入の好調を反映して、マイナス寄与が一段と拡大している。
次に、対EUについては、92年末に輸出数量の落ち込みを主因にマイナス寄与に転じた後、94年末から95年にかけては輸出数量回復、輸入数量増加のもとで、全体としては黒字の縮小ペースが鈍化する方向に向かった。しかし、96年入り後は、輸入数量の増勢が持続する一方で、輸出数量が再び減少に転じたため、数量収支全体では再びマイナス幅が拡大している。足もとの輸出数量の落ち込みは、
AV機器等の家電製品の輸出減少が大きく影響している。一方、輸入数量の好調を牽引している商品としては、自動車、高級衣料品等の繊維製品、香料・化粧品等の化学製品等を指摘することができる。
最後に、対東南アジアについては、94年10~12月期をピークに数量収支の拡大ペースは鈍化傾向を続け、95年10~12月期以降は減少に転じている。輸出入別にみると、輸入が93年半ば以降増勢を持続している一方、輸出数量は95年末以降急速に伸びが鈍化している。これを商品別にみると、輸出については、カラーテレビやラジオ等の耐久消費財に加えて、化学製品や鉄鋼等の素材のほか、原動機等の一般機械、半導体等電子部品等の資本財が減少に転じている。一方、輸入については、パソコンや同部品、カラーテレビやVTR等をはじめとする機械機器が好調を持続している。
以上の地域別数量収支の動きを踏まえて、足もとの数量収支縮小の背景を整理すると、以下を指摘することができる。
第1は、海外直接投資進展の効果である。すなわち、海外直接投資は初期段階では産業用資材や部品、設備機械等の誘発輸出拡大により数量収支の黒字を拡大させる効果がある。しかし、現地生産が本格化するに伴い完製品輸出が減少に転じ(輸出代替)、部品の現地調達が進展するにつれて部品輸出が減少し、さらには製品の逆輸入が行われるようになる。この結果、海外直接投資は黒字拡大効果を徐々に弱め、ついには黒字縮小に働くようになる(注2)。その代蕪Iな例が、自動車とカラーテレビである。
まず、自動車についてみると(図表4)、海外生産台数の増加に伴って輸出台数は減少傾向を続けており、輸出代替が進んでいる様子が窺える。さらに、部品輸出についてみると、92年以降増加傾向が続いていたが、95年に前年比で減少に転じた後、96年入り後は一段と減少ペースが加速している。地域別には、対米国に加えて、対東南アジアについても96年以降減少に転じている。この要因としては、日米自動車摩擦を背景にわが国の自動車メーカーが自主的に作成した部品の現地調達の拡大計画(ボランタリー・プラン)に加えて、円高による価格競争力の喪失やASEAN諸国等を中心としたローカルコンテンツ強化の動きに対応したわが国部品メーカーの海外シフトの強まりを指摘することができる。
また、カラーテレビについても海外生産台数、輸出台数および実質部品輸出の推移をみると(図表5)、自動車と同様、現地生産の本格化に伴ってわが国からの完成品輸出、続いて部品輸出が減少している。さらに、カラーテレビについては、マレーシアやタイをはじめとするアジア諸国からの製品逆輸入が急増しており、国内出荷に占める輸入品の割合は96年1~8月期で65.8%と、約7割に達している。
第2は、消費者の輸入品に対する指向の強まりである。すなわち、93年から95年半ばにかけて急速に進展した円高を背景に、これまで国産品対比極めて割高であった輸入車や衣料品、化粧品をはじめとするブランド製品等の価格が大幅に低下した結果、これら高級輸入品に対する需要が急増した。加えて、内外価格差の縮小を目指した製品価格の引き下げや国内メーカー対比低いローン金利の設定等、海外企業による販売努力が、国内消費者の購買意欲を盛り上げた点も見逃せない。
第3は、輸出先地域での需給緩和である。例えば、鋼材、樹脂等の化学製品については、アジア諸国の景気減速と欧米メーカーの輸出攻勢を反映して現地での需給が緩和しており、輸出メーカーは市況対策の意味合いもあって輸出を絞っている。また、半導体等電子部品については、世界的な需給緩和を背景に本年初来わが国からの輸出が落ち込んでいる。なお、国内での需給緩和にもかかわらず、米国からの半導体等電子部品の輸入が増加を続けているのは、米国製品の非価格競争力によるところが大きい。すなわち、わが国の半導体生産はDRAM(記憶素子)に特化しており、MPU(超小型演算装置)はもっぱら米国からの輸入に依存している。このため、わが国製品と競合しないMPUについては、依然として根強い需要が持続している。
[2]価格要因
次に、価格要因が黒字縮小に作用している要因についてみると、第1は、95年半ば以降の円安進行を基本的背景とした、輸出価格を上回る輸入価格の上昇である。すなわち、円安は円建ての輸出価格、輸入価格をともに水膨れさせる効果を持つが、輸出入各々の決済に占める外貨建て比率の違いにより、円建てでみた輸出入価格の上昇ペースが異なることとなる。わが国の場合、外貨建て決済比率は96年3月時点で輸出64.1%、輸入79.5%(なお、外貨の大半はドル建て)と輸入の方が高くなっているため、円安による価格上昇は、輸入の方が輸出に比べて大きくなる。
第2は、原油価格の上昇である。すなわち、原油の輸入価格(入着CIFベース)は95年末以降上昇傾向を続けており、96年7~9月期には1バレル当たり20.1ドルと、92年7~9月期(同20.7ドル)以来4年ぶりに20ドル台を記録している。本年9月以降は、米国のイラク攻撃により、イラクの原油輸出再開が年内は絶望的になったとの見方が強まったことから、先物価格(WTI)がジリ高基調をたどっており、当面は輸入価格の上昇傾向が続く公算が大きいとみられる。
第3は、輸入品における高付加価値化の進展である。すなわち、通関ベースの輸出入価格指数と卸売物価統計の輸出入物価指数の推移を比較してみると(図表6)、まず、輸出については、95年半ばまでは価格指数が物価指数を上回っていたが、95年末以降は両者はほぼ一致した動きをしている。一方、輸入については、92年半ば以降一貫して価格指数が物価指数を下回っていたが、95年7~9月期にその動きが逆転し価格指数が物価指数を上回った後、95年末以降はその格差が一段と拡大している。このことは、輸出品の高付加価値製品へのシフトが一段落する一方で、輸入品については東南アジア諸国の技術力の向上や国際水平分業の進展による資本財等付加価値の高い製品の輸入増大、ブランド品等消費者の高級輸入品に対する嗜好が再び強まる兆しが出てきている等、高付加価値化がここにきて急速に進んでいることを示唆している(注3)。
(2)サービス収支の赤字幅拡大
サービス収支は、94年7~9月期以降前年対比で赤字幅が拡大する傾向が続いており、95年度上期は前年同期差716億円減、下期同5,319億円減、96年4~8月期同6,624億円減と、95年末以降は赤字幅の拡大傾向が一段と強まっている(図表7)。その内訳を輸送、旅行、その他サービス別にみると、まず、輸送収支については、輸出数量の低迷と輸入数量の増勢が続くもとで、93年半ば以降は小幅の赤字拡大要因として作用している。旅行収支については、94年以降赤字幅拡大要因となっており、とりわけ95年下期以降マイナス寄与が拡大している。これは、円高による海外旅行の割安化、消費者の余暇重視指向の強まり等を背景に、海外旅行者数が急増しているためである。日本人の海外旅行者数の推移をみると(図表8)、湾岸戦争やバブル崩壊により91年から93年にかけて一時的に停滞した以外は、趨勢的に増加傾向が続いている。とりわけ94年以降は増加ペースが加速しており、90年の1,100万人から94年には1,358万人、95年には1,530万人と急増している。JTBの見通しでは、96年は1,700万人に達すると見込まれている。この結果、円高によって円ベースの一人当たり旅行支払額が減少しているにもかかわらず、トータルでは旅行支払額が増加を続けているわけである。なお、その他サービス収支については、95年末以降マイナス寄与が一段と拡大しているが、これは円安による各種サービスの支払額の水膨れや仲介貿易に絡む一時的な特殊要因によるところが大きいとみられる。
3. 経常黒字縮小の意味
(イ)以上みてきた通り、現下のわが国の経常黒字急減は、[1]国際水平分業の進展や消費者の嗜好変化、輸入品の高付加価値化等の構造的な要因(注4)と、[2]円安や原油価格の上昇等の循環的な要因の双方が作用している結果であるといえる。したがって、今後を展望した場合、円安や原油価格の上昇による効果が徐々に剥落するにつれて経常黒字の縮小ペース自体は徐々に鈍化していくとみられるものの、縮小基調自体は構造的要因が続く限り基本的に変わらないと判断される。そこで、簡単な国際収支モデルを使って、円相場が110円程度で安定する等一定の条件(注5)のもとで、今後の貿易・経常収支の推移をシミュレートしてみると、貿易・経常収支ともに緩やかな縮小傾向を続け、2000年には貿易黒字が95年(12.3兆円)の半分以下の5.5兆円に、経常黒字はサービス収支の赤字幅拡大が加わって、1.5兆円と95年(10.4兆円)のレベルのわずか15%の水準に減少するとの結果が得られる(図表10)。さらに、経常収支から所得収支を除いた貿易・サービス収支については、99年に赤字に転化することとなる。
このようなシミュレーション結果を国際収支の発展段階説から説明すれば、わが国は今世紀中に「未成熟な債権国」から「成熟した債権国」に移行する可能性があるということである(注6)。さらに、こうした経常黒字の縮小トレンドが2000年以降も持続する場合には、21世紀初めには経常収支も赤字に転落し、わが国は「成熟した債権国」からさらに一歩進んだ「債権取り崩し国」の段階に到達する可能性を示唆しているといえよう。
(ロ) こうしたわが国の国際的ステイタスの変化は、対外不均衡の是正という観点からいえば、好ましいとの判断も可狽ナある。すなわち、86年に出された前川リポートでは、経常黒字の縮小をわが国の「中期的な国民的政策目標」として提示しており、わが国は10年以上経過して、ようやく同リポートが目指した国際協調型経済構造へ移行しようとしているかにみえる。
しかし、対外バランスの裏側である貯蓄・投資バランス(ISバランス)の観点から検討すると、現下の経常黒字縮小は必ずしも前川リポートが目指した方向に沿ったものとはいい難い面があることに留意する必要がある。すなわち、経常収支の対名目GDP比率が低下に転じた93年以降について、制度部門別の資金過不足額(資金余剰の場合は貯蓄超過、一方、資金不足の場合は投資超過)の同比率の推移をみると(図表11)、まず、民間部門では、個人部門の資金余剰幅がここ1~2年縮小に向かう一方で、法人部門の資金不足が急速に縮小し、95年には資金余剰に転じており、民間部門全体では資金余剰幅が拡大している。これに対して、政府部門ではここ数年で急速に資金不足幅が拡大しており、この結果として、全体の貯蓄超過額(=経常黒字)の縮小が進行する構図となっている。
87年に公表された新前川リポートでは、国際協調と国民生活の質の向上を目指すために規制緩和をテコとした内需主導型経済構造への転換と産業構造の転換を柱とした「経済構造調整」を推進する必要があるとした。しかるに、その後のわが国経済はバブル経済に溺れ経済構造改革が遅々として進まなかったばかりでなく、90年代に入ってバブル崩壊による大不況と経常黒字の再拡大を契機とする円高再燃に見舞われた結果、国民生活の質の向上の達成は望むべくもない状況に陥ったことは記憶に新しい。わが国経済は、新前川リポートが「為替レートの調整のみによって対外均衡を達成することは、国内均衡との両立を図る上では問題が多い」と指摘したまさにその道を歩んでしまったわけである。未送Lの低金利と公共投資の大幅な積み増しによって、わが国経済はようやくゼロ成長軌道を脱したとはいえ、そのツケは貯蓄率の低下による個人部門の貯蓄超過幅の縮小と政府部門の投資超過幅(=財政赤字)の急拡大という歪な形での経常黒字縮小につながっているわけであり、こうした形での黒字縮小の持続性には自ずと限界があるとみなければなるまい。
本来、前川リポートが目指した望ましい形での対外不均衡の是正の姿をISバランス面から描くならば、個人消費や住宅投資の拡大による個人部門の貯蓄超過幅縮小と民間設備投資の拡大による法人部門の投資超過幅拡大の双方によって、国内の貯蓄超過幅(=経常黒字)が縮小するといった姿であったはずである。しかしながら、構造改革の遅れが続く場合には、現在の歪な形での黒字縮小パターンがなかなか改まらない恐れがあろう。すなわち、今後を展望すると、個人部門については、高齢化の急速な進展等を背景に貯蓄率の低下に伴う貯蓄超過幅の縮小傾向が続く可能性がある。一方、法人部門については、情報化関連投資の拡大を背景に投資超過に転じることが卵zされるものの、国際水平分業の進展のもとで投資の海外流出の動きが根強く続くため、投資超過幅はかつてと比べて小幅にとどまるとみられる。また、政府部門については、消費税率の引き上げ等により投資超過幅(=財政赤字)は若干縮小することが見込まれるものの、硬直的な歳出構造が見直されない場合には、依然として大幅な赤字の状態が続く公算が大きい。その場合、わが国は80年代の米国のように産業空洞化が進行するもとでの双子の赤字国に転落しかねず(注7)、そのツケは為替レートの急激な減価と国民の生活水準の大幅な切り下げという形で跳ね返って来ざるを得まい。
4. おわりに
以上みてきたように、現在のわが国の経常黒字の縮小は、経済の構造改革を伴わない歪んだ形での縮小であり、その持続性や国民生活の質の向上という観点からみて、必ずしも望ましいとはいえない面がある。わが国が今後中期的にも経常黒字の縮小傾向定着と内需主導型の経済構造への移行、国民生活の質の向上を同時に達成していくためには、次のような経済構造改革を断行することが喫緊の課題である。
第一は、規制緩和・撤廃による新規産業の育成、新しい投資機会の創出である。移動体通信や小売等、現在わが国の設備投資を牽引している産業は、規制緩和によりビジネス・チャンスが拡大した産業である。規制緩和・撤廃をさらに広範な分野に拡大することによって、これらに続く成長分野を開拓することが必要である。とりわけ、高齢化・少子化が進むなかで、医療、福祉、教育等は極めて有望な分野として指摘できる。
第二は、財政構造改革を通じた非効率な財政体質の改善である。経済構造の変化に合わなくなった硬直的な歳入・歳出構造を抜本的に見直していく必要がある。具体的には、[1]直間比率の是正を目的とする抜本的な税制改革、[2]公共投資の効率化と対象範囲の見直し、[3]医療・年金等現行の社会保障システムの抜本的な見直し、等が不可欠の課題である。
注
・国際収支ベースの貿易収支と通関ベースの貿易収支は、以下の点で異なる。
[1] 計上時点
国際収支ベースでは、所有権の移転が発生した時点で輸出入が計上される一方、通関ベースでは、税関を通過した時点で計上される。このため、委託加工貨物の輸出入等、所有権の移転を伴わない取引は、通関ベースでは計上されるが、国際収支ベースでは計上されない。
[2] 計上価格
国際収支ベースでは、輸出入はともに運賃と保険料を含まないFOB(Free On Board)価格で計上される。一方、通関ベースでは、輸出が国際収支ベースと同じFOB価格である一方、輸入は運賃と保険料を含むCIF(Cost,Insurance and Freight)価格で計上されている。このため、通関ベースの貿易収支は、国際収支ベースに比べて輸入にかかる運賃や保険料の分だけ縮小することとなる。
これらの相違点により、国際収支ベースと通関ベースの貿易収支は一致しない。ちなみに、95年のデータを比較すると、国際収支ベースでは12.3兆円(輸出40.3兆円、輸入27.9兆円)、通関ベースでは10.0兆円(輸出41.5兆円、輸入31.5兆円)である。
・通商産業省は、わが国企業の海外事業活動が貿易収支に与える影響を[1]輸出代替効果(現地法人により生産された製品が、わが国からの輸出を代替する効果)、[2]輸出誘発効果(現地工場に対し、わが国からの資本財・中間財輸出が増加する効果)、[3]逆輸入効果(現地法人により生産された製品が、わが国に逆輸入される効果)、[4]輸入転換効果(海外生産シフトにより、わが国で消費する原材料の輸入が増減する効果)、の4つに分け、各々の金額を試算している。これによると、海外事業活動は、90年代の初期には貿易黒字の拡大に働いていたが、92年度(2.7兆円)をピークにその寄与は徐々に弱まっており、95年度にはマイナス0.4兆円と、貿易黒字を縮小する方向に転じた見通しである(図表9)。
輸出入物価指数(日本銀行調査統計局により公表)と輸出入価格指数(大蔵省関税局により公表)は、ともに輸出入品の価格水準を表す指数であるが、以下の点で大きく異なる。
[1] 調査方法と調査品目
物価指数は、指定された特定の調査銘柄の価格を継続調査することにより算出されており、同一品目内の品質及び性能等の変化による価格変動が反映されていない。一方、価格指数は、品目ごとの平均単価を調査することにより算出されており、当該品目の品質及び性能等の変化が反映されている。
[2] 指数の算式
物価指数では、各告ャ品目の物価指数を集計して総合指数を作成する際、基準時の取引金額をベースに算出された基準時固定ウェイトが使用されている(ラスパイレス方式)。一方、価格指数では、基準時固定ウェイトと指数を算定する時点(比較時)の取引金額をベースに算出された比較時ウェイトの2つを幾何平均する方式が使用されている(フィッシャー方式)。このため、価格指数では、輸出入構造の変化による品目構成比の変化が反映されている。
以上を要すれば、物価指数は品質変化を除外した純粋な価格動向を表す一方、価格指数は品質や品目構成比等貿易構造の変化を反映した価格動向を表している。このため、価格指数の上昇率から物価指数の上昇率を差し引いた部分は、高付加価値製品へのシフトや個々の品目の品質向上を反映しているとみなすことが可狽ナある。
・こうした輸出入の構造変化がどの程度進んでいるかをみるために、輸出数量、輸入数量の各々について所得弾性値を推計してみると、80年代半ばまでは輸出が1.51と1を上回り、輸入が0.57と1を大きく下回っていたが、90年代にはこの関係が逆転し、輸出が0.44と1を大きく下回る一方、輸入が3.23と急上昇しており、この間のわが国の経済構造が「輸出が増えやすく輸入が増えにくい体質」から「輸入が増えやすく輸出が増えにくい体質」に構造的に変化していることが裏付けられる(図12)。
・2000年までの経常収支シミュレーションの前提条件は以下の通り。
[1]為替相場は、1ドル110円で一定。
[2]国内卸売物価、世界輸入物価は、各々足もとの水準で一定。
[3]国内実質総需要、世界実質輸入は、過去5年間の平均増加率(各々年率1.8%増、6.9%増)で伸びると想定。
[4]輸出入数量の価格弾性値および所得弾性値は(図・2)の90年代のものを使用。
・国際収支の発展段階説とは、一国の貯蓄・投資バランスが経済の発展に伴って変化することに着目した議論である。すなわち、この説の提唱者の一人であるクローサーによると、一国の対外的なステイタスは、経済の発展に伴って、債務国から債権国へ、さらには債権取り崩し国へ移行する。このように経済が移行するもとで、当該国の対外バランスは、財・サービス収支、投資収益収支の変化により、以下の6段階を経験する(図表13)。
[1] 未成熟の債務国
経済発展の初期においては、まず、財・サービス収支は、輸出産業の国際競争力が不十分であるため赤字となる。一方、投資収益収支についても、国内貯蓄の不足から経済成長に必要な資本は外資に頼らざるを得ない(債務国)ため、赤字となる。この結果、両収支の合計である経常収支は赤字となり、その裏返しで長期資本収支は黒字(流入超)となる。
[2] 成熟した債務国
経済が発展し、産業の国際競争力が強化されるに伴って、財・サービス収支は黒字に転じる。一方、投資収益については、依然として生産に必要な資本の大半は外資に依存しているため、大幅な赤字の状態が持続する。この結果、経常収支は引き続き赤字、また、長期資本収支は黒字である。
[3] 債務返済国
財・サービス収支の黒字が一段と拡大し、投資収益収支の赤字を上回るようになると、当該国の経常収支は黒字に転じる一方、長期資本収支は赤字(流出超)となる。この段階では、当該国はストック・ベースでは依然として債務国であるものの、フロー・ベースではこれまでの債務を返済する債務返済国である。
[4] 未成熟の債権国
経常収支の黒字が持続するもとで、債務が全て返済されると、当該国は債務国から債権国に転じることになる。その結果、投資収益収支は黒字となり、経常収支の黒字は一段と拡大する。
[5] 成熟した債権国
経済が成熟し、国際水平分業の進展等を背景に財・サービス収支が赤字に転じると、当該国は海外資本からの収益(投資収益収支の黒字)により経常収支の黒字を維持するようになる。この段階が成熟した債権国である。
[6] 債権取り崩し国
やがて、財・サービス収支の赤字が投資収益収支の黒字を上回るようになると、経常収支は赤字に、長期資本収支は黒字に転じる。この段階では、当該国はこれまで蓄積した債権を食いつぶすことにより生きながらえることになる。
・米国では、80年代前半に財政赤字が急拡大し、これが高金利を通じて異常なドル高と経常赤字の急速な拡大を招来するとともに、産業空洞化をもたらしたとされている。しかし、90年代に入ると80年代に精力的に行われた各種の規制緩和の効果が顕在化してきたことに加え、財政赤字の削減が長期金利の低下につながり、これが情報化投資を中心とする民間設備投資の持続的な拡大をもたらし、経済・産業の再活性化に結びついていると判断される。これを、ISバランス面からみると(図表4)、92年以降政府部門の赤字が急減する一方で、法人部門の投資超過幅が急速に拡大しており、投資の主体が政府から民間企業に移行している様子が窺える。このような民間投資の増加を背景に、米国では企業の競争力が回復するとともに、情報化・サービス化に対応した産業構造調整が進展しているといえよう。