Business & Economic Review 1996年10月号
【論文】
再考:年金資産の運用規制緩和-投資リスクの時間分散効果論争からの視点
1996年09月25日 新美一正
要約
近代ポートフォリオ理論(MPT)においては、株式のような運用リスクの大きい資産であっても、長期に保有すれば運用リスクは縮小する(投資リスクの時間分散効果)とされている。したがって、年金のように長期運用を前提とした資産の運用対象として、一般に株式は好ましい存在であると考えられる。近年の年金財政の悪化傾向を背景に、年金運用における資産種別組み入れ上限規制(いわゆる5-3-3-2規制)の見直しが進んでいるのも、こうした時間分散効果の存在を自明とした動きであろう。本稿の基本的な目的は、こうした時間分散効果を巡る近年の論争のサーベイを通じて、確定給付型年金のように将来時点の給付額が予め確定している資産の運用に関してはこうしたMPT流のリスク測度は妥当性を欠くものであること、運用インフラ整備を伴わない安易なリスク運用傾斜が年金運用の健全性を損なう危険性をはらむものであること、の2点を示すことにある。
MPT流の投資リスクの捉え方は、時間でならした株式の収益率がある平均値に収束していくことを示しているに過ぎない。確定給付型年金のように将来の確定債務を抱えた資産に関して妥当なリスク測度は、資産残高がその確定債務に届かない(ショートフォール)事態であると考えられる。このリスク測度を採用し、期待効用理論を適用して投資家の効用を評価すると、リスク回避的な投資家にとって時間分散効果(投資期間の長期化による付加的な効用の増加)が存在しないという驚くべき結論が得られる。これが一般的な経済学の枠内での時間分散効果に対する評価でもあるが、この主張には投資家の効用関数を予め特定化している弱点もあって、実際に運用に携わる実務家サイドでは取り立てて注目されてはこなかった。
近年、ボストン大学のボディ教授が、オプション評価理論を用いて、「時間分散効果誤謬説」の正当性を改めて確認することに成功し、これが契機となって研究者・実務家間で再び「時間分散効果論争」が巻き起こされている。オプション評価理論の導入は、時間分散効果と投資家の効用を分離できる点で画期的だが、ボディの主張には数多くの批判も寄せられており、未だ論争の決着をみるには至っていない段階にある。
学術的な論争の帰結はひとまず置き、この論争が現実の年金運用に示唆する最大のインプリケーションは、時間分散効果肯定・否定のどちらの立場を採るにせよ、時間分散効果が一般に信じられているよりはかなり小さく、かつ長期の投資期間を必要とするという事実に集約される。成熟段階まで20年程度の猶予しか与えられていないわが国の年金運用においては、時間分散効果の存在を前提とした株式運用への過度の傾斜は、一般に信じられているような好ましい方向性とは考えにくく、逆に運用資産のリスク露出を増加させる結果のみをもたらす可能性すらある。
時間分散効果論争がわが国年金運用に突きつけた本質的な問題は、(1)投資判断能力とALM体制を兼ね備えた年金基金の整備、(2)機関投資家の運用能力の向上、(3)運用情報の公開促進、(4)機動的な運用を可能にする年金制度の改善・規制緩和、等の年金を巡るインフラストラクチャーの整備である。運用規制緩和という錦の御旗を押し立てるだけではなく、こうしたインフラ構築のための努力こそが急務である。