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Business & Economic Review 1996年10月号

【(特集 香港返還)論文】
返還を控える香港経済の行方

1996年09月25日 調査部 呉軍華


1. はじめに

香港の主権返還が、いよいよ秒読みの段階に入った。「イギリス植民地としての香港を最後にこの目でみよう」と、今年に入ってから、海外、とりわけ日本からの観光客が香港に殺到しており、返還目前の香港を騒がしている。確かに、1997年7月1日午前零時をもって、第二次世界大戦時の日本の占領期間(1941年12月~45年8月)を除いて、1842年からの150年以上にわたって香港の空を漂ってきたユニオン・ジャック(イギリス国旗)が五星紅旗(中国国旗)に取って代えられ、ブリティッシュ・フォース・ホンコンに代わって、中国人民解放軍が香港の防衛に就く。香港は今、まさに歴史的重大な1ページを開こうとしている。ただし、香港の主権返還に関する外部社会の関心は別に今に始まったことではない。84年12月19日、香港返還に関する中国とイギリスの共同声明が調印されて以来、香港問題をめぐる内外の関心は、常にイギリス植民地から中国特別行政区へという主権移管に象徴される香港の政治システムの移行の集中してきた。しかしこの間、実際には、政治システムの移行と同時にもう一つの移行、製造業からサービス業への産業構造の「移行」も進行してきた。政治システムの移行を進めるに当たってこれまで、パッテン香港総督の民主化改革を始め、中国側とイギリス・香港側は多くの点で対立してきた。しかし、返還を間近に控えた今となっては、香港に巨大な権益を持つ中英両国にとって、香港の安定がむしろ共通の目標となっている。今後、中国側とイギリス・香港側との間で臨時立法評議会(議会)の選出方法や初代行政長官の人選などをめぐって、なお対立が生じる可能性はあるものの、それが深刻化する恐れは小さく、香港の政治システムの移行はもはや最終局面を迎えたと言って過言ではない。これに対し、製造業からサービス業への産業構造の移行はなお途上にあるばかりでなく、むしろこれからが正念場である。
そこで本稿では、中国への主権返還を前提に21世紀における香港経済の行方を展望するために、現下の香港経済の現状を明らかにし、次いで香港の直面する産業構造の調整問題を分析し、最後に香港経済の将来を展望したい。

2.景気低迷に苦しむ香港経済の現状

香港政庁は先日、96年1~3月期の経済実績と96年度の改定経済見通しを発表した。これによると、今年1~3月期の実質GDP(域内総生産、以下同)成長率は前年同期比で3.1%増と、四半期ベースでは1990年1~3月期以来6年振りの低い水準となった(図表1)。

この発表に際して政庁関係者は、96年1~3月期の景気スローダウンは、主として米ドル高に伴う香港の輸出産業の競争力の低下や最大の輸出先であるアメリカ市場の低迷、並びに中国大陸・台湾両岸関係の緊張に伴う中国大陸・台湾向け輸出の減少などといった特殊要因によって香港の輸出が大きく鈍化したことによるものであるとしている。現在は、中国大陸・台湾の両岸関係が改善に向かっていることに加え、新空港建設を中心に公的需要の一層の拡大が見込めるなど、年央以降は景気が徐々に回復すると見込まれ、政府は96年通年では今年3月に出した予測成長率5%を維持できるとして、強気の姿勢を崩していない(図表2)。96年に入ってからの輸出拡大ペースの鈍化に対する見方については、香港上海銀行など地場の金融機関も基本的に同調している。

また、景気循環の側面からみても、94年から始まった不動産・株式市場を中心とする調整局面が一巡し、香港経済はそろそろ新たな成長局面を迎えつつあると言えよう。ちなみに、政庁の発表によると、今年3月末現在、香港の住宅の平均価格はなおピーク時だった94年4月の水準を17%下回っているものの、底値といわれる95年10月末と比較するとすでに13%上昇したという。

しかし、構造調整の側面から香港経済の現状をみると、香港経済はむしろこれからが正念場である。

地域経済が貿易、とりわけ輸出に大きく依存している香港においては、輸出は民間消費と並んで、香港経済を支える主要な柱である。今回の景気後退の背景には、まさにこれまでの香港経済の成長を支えてきた民間消費と輸出の不振があった。具体的に、95年はGDPの約6割を占める民間消費支出の伸びが20年振りの低水準に陥ったことを主因に、同年の実質成長率は91年来の5%割れの4.7%にとどまった。民間消費支出不振の背景としては、不動産・株式市況の下落に伴う資産価値の下落が挙げられるが、加えて過去10年来の最高を記録した失業率の急上昇が消費行動に大きな打撃を与えてことを見逃すことができない。ちなみに、1995年の香港の失業率は3.2%であり、失業者数は9.8万人に達した(図表3)。この失業率の上昇こそは製造業からサービス業へと産業構造の移行途上にある香港経済の現実を象徴するものである。

民間消費の不振が95年の香港経済の足を引張ったのに対して、96年入り後は輸出拡大ペースの鈍化が景気回復の最大の足枷となっている。確かに、香港政庁などが指摘されている通り、1米ドル=7.8香港ドルに固定されている為替リンク制度のもとで、米ドル高はそのまま香港ドル高を意味し、また中国大陸・台湾両岸関係の緊張により台湾向け輸出の伸びが落ち込んだのは事実である。しかし、それらが輸出拡大ペースを鈍化させる直接的な要因であったとはいえ、その背景に構造的な問題も潜んでいる。過去20年間余りの、製造業からサービス業への産業構造の移行の結果として、香港の製造業、なかでも労働集約型製造業のほとんどが中国に移転した。一方、中国側はハードとソフトの両面において良好な貿易基地を持っていなかったことから、香港をもっとも重要な対外経済交流の窓口として活用した。この結果、香港と中国の間に、「中国の成長加速→中国の輸出拡大→香港の再輸出拡大→香港経済の成長加速」というサイクルが形成された。しかし、90年代に入ってから、とりわけ近年は上海や天津、大連などの中国の沿海都市が発展するのに伴って、徐々にではあるもののこうしたサイクルが崩れ始めた。輸送時間や輸送コストなどの面において、上海、天津、大連などが次第に香港よりも優位に立つようになり、中国の輸出ルートが多様化してきた。この意味において、96年入り後の輸出の伸び悩みは短期的な現象というよりも長期的な傾向と言っても過言ではない。返還を目前に控える香港は、今後とも国際貿易センターとしての地位を維持するために、シンガポールを始めとする外部社会との競争のみならず、上海や天津、大連など中国の沿海都市との内なる競争にも打ち勝っていかなければならないという構造的な課題にも直面している。

3. 正念場を迎える産業構造の移行

96年に入ってからの輸出拡大ペースの鈍化は、中国の輸出ルートの多様化という比較的シンプルな要因が背景であった。これに対し、失業問題に象徴される産業構造の移行に伴う問題はより複雑である。

今日の香港は世界有数の国際金融・貿易センターとして名を成しているが、その成長の過程においては製造業が大きな役割を果たしてきた。南シナ海に浮かぶ小さな漁村として出発した香港は、1842年にイギリスの植民地になってからも長い間、中国、なかでも南中国の対外貿易の中継拠点に過ぎなかった。ちなみに、1950年代初期までの香港の対外貿易総額に占める中継貿易のシェアは常に8割以上に達していたといわれる(注)。

香港経済が工業化に向けて本格的に始動したのは第二次世界大戦以後のことであった。この背景として、次の2つを指摘することができる。

第一は、中国の朝鮮戦争への義勇軍派遣を契機に、国際連合が中国に対して戦略物資の禁輸措置を実施したことである。1951年に実施されたこの対中禁輸措置は中国の対外貿易に破滅的な打撃を与えたにとどまらず、それまで中国の対外貿易に大きく存在してきた香港経済にも重大な影響を及ぼした。ちなみに、禁輸措置が実施された51年の香港の対中輸出は16億香港ドルであったが、52年に5.2億香港ドル、55年に1億香港ドルといったように急速に縮小し、60年代に入ってからは1億香港ドルを割り込んだといわれる。

第二は、当時の香港には紡績関連製造業の技術、人材の蓄積があったが、1949年の中華人民共和国の誕生に前後して、共産党政権下での生活を嫌って、上海を中心に中国大陸の工業都市から多くの産業資本や人材が香港に流れ込んできた。なかでも、紡績関係の資本と人材はもっとも多かった。こうした大陸からの資本と人材は、後の香港の製造業、とりわけ紡績やアパレルなど労働集約型製造業の発展を支えるうえで大きな柱となった。

このように、香港の製造業は国際連合による対中戦略物資の禁輸という「外圧」のもとで、中国大陸から流れ込んできた資金、人材、技術を主な内なる力として生かし発展したのである。

さらに、こうした香港の製造業を産業別就業者構成を通して具体的にみてみよう。図表4に示す通り、1970年代を通じて、製造業の総就業者に占める紡績関連産業のシェアが常に40%以上となっており、紡績関連産業は香港の製造業を支えるうえでの最大の産業であったことがわかる。しかし、さらにその内訳をみると、1970年から79年にかけて、紡績産業のシェアは23.2%から14.6%へと大きく低下したのに対して、アパレル産業のシェアが20.2%から28.9%へと大きく上昇した。70年代初期から同末にかけて、香港の紡績産業の高度化が進展したことをうかがい知ることができよう。

香港経済が伝統的に輸出に大きく存在してきたこともあって、香港における製造業の発展の軌跡を検証する場合、輸出構造の変化が重要な手掛かりとなる。統計上、香港の輸出は地場輸出、すなわち香港で製造された製品の輸出と香港を中継点とする再輸出に分けられている。前述した通り、輸出総額に占める地場輸出のシェアは1950年代初期、すなわち国際連合が中国に対して禁輸措置を実施するまでは多くて2割程度に過ぎなかった。しかし、それ以降、とりわけ50年代後半から70年代半ばにかけて同シェアが急上昇し、なかでも71年には81%を占めるに至った。ただし、80年代半ばに入ってから、こうした香港の輸出構造に大きな変化が生じ、再輸出が再び輸出産業を支える主役となった。この背景に、製造業からサービス業への産業構造の移行があった。具体的に、香港の輸出総額に占める地場輸出のシェアをみると、同シェアは81年の65.8%から85年の55.2%を経て、96年1~6月期には15.3%にまで低下した(図表5)。

こうした製造業からサービス業への産業構造の移行はまた、香港の産業別就業者構成の変化にも反映されている。統計資料の制約から、1950年代ないしそれ以前の香港の産業別就業者構成を明らかにすることができないが、60年代入り後の推移をみてみることとする。図表6の示す通り、60年代から70年代までの香港の総就業者に占める製造業のシェアは常に50%以上をキープしていた。しかし、80年代以降、とりわけ90年代に入ってから、同シェアは急速に低下し、95年に至ってはわずか16.1%となっている(図表6)。

もっとも、香港に限らず、1980年代に入ってからアジアNIEsと呼ばれた韓国、台湾、シンガポールでも労働集約型産業に依存するそれまでの経済発展が大きな曲がり角を迎え、産業構造の調整に直面した。しかし、後背地を持たない韓国や台湾、シンガポールと違って、香港は労働集約型製造業にとっての格好の移転先として改革・対外開放された中国が現れたため、実際の構造調整は、他のアジアNIEsと異なる道筋をたどることとなった。すなわち、韓国や台湾、シンガポールが政府主導のもとでハイテク産業の育成などを中心に産業構造の高度化を図ったのに対して、香港はあくまでも「より安いコスト・より高い利益」という資本原理に基づいて、競争力を失った製造業を中国、とりわけ香港に近隣する広東省の珠紅デルタ地帯に「北上」させた。ちなみに、80年代を通じて、香港の製造業の80%以上が中国に移転され、また96年現在、これらの香港企業に雇用されている中国人は香港の就労者(除く公務員)の約2倍に相当する400万人に達しているといわれる。このもとで、香港は再び加工貿易の拠点から中継貿易の拠点へと変わった。香港の製造業は、紡績を中心とする労働集約産業の中国への移転を通じて、コスト上昇に伴う競争力の喪失という危機を容易に回避できた半面、産業構造高度化の好機を逃す結果となった。

それでは、香港の産業構造の転換がすでに1980年代に始まっていたにもかかわらず、なぜ95年になって失業問題が初めて経済成長の足を引っ張る大きな要因として浮上したのであろうか。この背景には、それまで好調に発展してきたサービス業が不振に陥ったことがあった。

すなわち、1980年代以降の香港において、製造業の中国への移転が進む一方で、中継貿易や金融、飲食、ホテル、小売などを中心とするサービス部門が急拡大した。90年代に入ってからサービス部門の拡大ペースは一層加速した。ちなみに、90年末から94年にかけて、香港の不動産価格は3倍以上に上昇し、またハンセン指数も同じく約3倍となった。不動産市場と株式市場のバブル的拡大に伴って、個人所得もハイペースで上昇した。これを背景に、小売、飲食、ホテルなどの消費需要が急拡大をみせ、香港経済はまさに反映を極めたかのようにみえた。この結果、93年には、名目GDPと就業者全体に占める製造業のシェアはそれぞれ11.1%、17.1%まで低下したのに対して、サービス業は生産高においても雇用の吸引力において最大の産業になった。そしてサービス業のなかでも、金融、保険、不動産関連産業とホテル、飲食、小売関連産業の雇用吸収力の拡大が顕著であった。ちなみに、90~94年の間に、全就業人口に占めるサービス部門のシェアは40.8%から47.8%まで約8ポイントも増加した。いわば、好調な経済成長パフォーマンスを背景に、急速に拡大するサービス業が製造業から遊離した労働力、とりわけ単純労働力の受け皿として機能してきたのである。しかし、95年に入ってから、情勢が一変した。香港経済を取り囲む内外の経済環境が大きく変化するもとで、香港経済の拡大ペースは鈍化に転じた。内外の経済環境の変化を具体的にみると、まず、香港経済の内部における最大の問題は1994年までの繁栄に実体経済の成長が伴っていなかった点である。たとえば、90~94年の間の不動産市場と株式市場の価格上昇は同じ時期のGDP成長率をはかるに上回っており、また不動産価格も一般の消費者の支払い能力を超えるレベルに達した。加えて、外的要因として、中国経済のマクロ引き締めの影響の顕在化、米金利の上昇など、香港経済の成長にとってマイナス・ファクターが現れた。

不動産・株式市場の低迷や企業の経営環境の悪化などに伴って個人収入が伸び悩み、これにつれて、個人の消費意欲が低下した。これはホテルや飲食、小売など製造業から遊離した単純労働力の受け皿として機能してきたサービス部門に大きなダメージを与えた。九龍半島側のツェムシャツイにある三越デパートの閉鎖を始め、外資系、地場を問わず、多くの小売、飲食関連の店が整理・縮小されるようになった。ちなみに、95年9月の時点における飲食・ホテルと小売関連のサービス部門での就業者数は前年同期に比べてそれぞれ6%、5%も減少した。

(注)周八駿等「香港:伴随政治過渡的経済過渡」、三聯書店(香港)有限公司、1992年8月。

4. 今後の展望―脱レッセ・フェール時代を迎えて

このように、香港の産業構造問題が1995年になって失業率の上昇を契機に顕在化したが、その病巣はすでに十数年前にあった。香港経済が返還を乗り越えて更なる発展を志向する以上、産業構造の高度化は避けて通れぬ道であり、これを実現するためには政府の果たすべき役割を今一度検討する必要がある。

香港は長い間、香港は自由主義の最後の牙城と称され、また多くの人はレッセ・フェール(政府の積極的不干渉主義)の経済政策こそが香港の成功の最大の要因であったと考えてきた。確かに、質の高い労働力や低い税率などと並び、レッセ・フェールの経済政策が香港の経済発展を促すうえで大きな役割を果たしてきたことは間違いない。

しかし、レッセ・フェールの経済政策では失業問題を始め、現在の香港が直面する構造問題を解決することができなくなっている。返還後の香港は、「一国両制度」、すなわち中華人民共和国という一つの国家のなかで社会主義、資本主義の二つの制度が併存するもとで資本主義制度を維持していく、脱レッセ・フェールの時代に入るのは不可避と思われる。

この背景としては主として次の2点を指摘できる。

第一は、今後の香港の経済発展と社会安定にとって教育がこれまでになく重要となってきたことである。香港の直面する失業問題は単なる求人の減少にとどまらず、需要と供給の間に大きなミスマッチが生じていることにもあった。過去十数年の間に、貿易や金融・保険を中心とするハイレベルのサービス業は急拡大したが、製造業から遊離した単純労働力の受け皿はない。香港は、単純労働力を中心に失業問題が深刻化する一方、貿易や金融・保険などハイレベルのサービス部門では人手不足に悩まされるという状況になっている。この意味において、失業問題は香港にとって循環的というよりも構造的な問題である。こうした構造的失業問題を抜本的に解決できるのは、政府主導の教育を通じた人材育成だけである。

第二は、メガ・コンペティション時代のなかで、地域の特性を生かした発展戦略の策定が今までになく重要となっているという点である。今後の香港に製造業が必要かどうか議論の余地があろう。筆者は人件費や不動産の賃貸料などビジネスコストの面において世界有数の高水準に達している香港で、大規模な製造業をこれから育成していくのは非現実的であると考える。ただし、残り一年弱で中国の一部になる香港経済の将来を考える場合には、香港を「狭い香港」、すなわちイギリスの植民地としての原形の香港と、広東省を中心とする中国の華南地域、ないし武漢などの華中地域を含む中国大陸の一部の地域を後背地に持つ「広い香港」という二つの視点からとらえる必要があろう。国際市場との競争のみならず、上海や大連などとの内なる競争も激しくなるもとで、サービス産業中心の「狭い香港」経済を持続的拡大させていくためには、強い製造業を持つ後背地の育成が不可欠である。換言すれば、「広い香港」経済圏の行方は香港の将来を決めるうえで極めて重要な意味を持つということである。「広い香港」経済圏を育成していくためには、香港の実情に適した経済政策の策定から中国中央政府、関係地方政府との折衝まで、返還後の香港特別行政区政府の果たすべき役割は極めて大きい。香港は脱レッセ・フェールの時代を迎えているのである。
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