Business & Economic Review 1996年09月号
【論文】
EVAにみる企業価値創造-わが国の大企業において資本コスト重視思考は定着するのか?
1996年08月25日 山下忠康
1.はじめに
企業財務の教科書では、しばしば企業経営者や財務責任者の最大の目標が「株主の富を最大化する」ことであると論理的に説明されているが、わが国の実務界では株主価値最大化を一元的な目標にするというよりは、むしろ株主を始めとした従業員や債権者、一般顧客、取引先等の幅広いステークホルダーの利益を総合的に考慮した多元的目標となっているという考え方が一般的である。
このようななかで、企業経営者の株主価値(株主利益)に対する考え方が相対的にプライオリティの低いものになり、結果として資本提供者の資金を非効率に利用してきた、言い換えれば資本コストを無視してきた可能性も否定できない面がある。
最近でこそ、コーポレートガバナンスの議論の高まりを背景に、わが国にも株主重視の方針を打ち出す企業が現れ始めており、このような流れ自体は歓迎すべきこととして受け取るべきであるが、まだまだ株主重視の本質的意味合いについて理解がないまま、横並び的に目標だけを振りかざしている企業もある。そもそも株主重視経営は資本コスト重視の姿勢と本質的に不可分の関係にあることから、「株主重視経営を標榜しながら資本コスト概念を無視することは明らかに株主に対する背信行為になること」を企業経営者は肝に銘じなければならない。
この意味において、資本コスト概念を組み込んだ株主の価値創造手法として米国企業を中心に採用されているEVA(Economic Value Added)(注1)という財務手法は示唆に富む。EVAを活用している企業(AT&T、Coca-Cola、QuakerOats等)は業績改善を通じて、株価パフォーマンスを向上し、株主の価値創造を行い、結果として、業績不振に喘ぐ米国企業経営者のEVAに対する強い関心を呼び起こしている(1993年9月20日号の米国経済誌“FORTUNE”のカバーストーリー「EVAThe Real Key To Creating Wealth」)。
本稿では、EVAという手法に解説を加えながら、わが国の大企業でこのような手法が受け入れられ、資本コスト重視思考が定着する可能性を探ることとする。
2.経営管理ツールとしてのEVA
EVA(経済的付加価値)とは、税引後の営業利益から資本コスト(注2)が控除された残余利益であり、金額ベースで定義される。この残余利益とは、債権者や株主という資本提供者のリスク負担に対するコストや公共サービスの提供者である国・地方公共団体に対する税金を差し引いた純粋な残余利益であり、これは株式会社の最終的リスク負担者である株主に本来全額帰属すべきものである。つまり、EVAがプラスであるならば、現時点で資本提供者(債権者、株主)に対して当然報いるべきリターンを確保したうえで、さらに株主に対しては超過利益を創出したことを意味するのである。
わが国においても馴染みある財務指標のROA(使用総資本事業利益率)、ROE(株主資本利益率)との比較においても、EVAは両指標の本質的機能を持ち合わせており、さらに資本提供者のコストまで勘案している優れた指標である。
つまり、ROAは他人資本・株主資本の合計である使用総資本を勘案しているという点ではEVAと共通性があるものの、ROAは他人資本・株主資本のコスト自体を考慮していない点が最大のウィークポイントである。なぜなら、ROAだけでは本当に効率的な資本活用、言い換えれば資本コストを上回るような資本利用が出来ているかどうかが判断できないからである。
また、ROEとの関係でも株主利益を重視するという考え方自体は基本的に同様であるが、やはり資本コストを考慮していないという問題を抱えている。
ただし、EVAにも資本コスト概念導入という長所を持つ一方、それ故ROA 、ROEという指標と比較すれば、計算容易性、操作性で劣る面もある。
次に、経営管理ツールとしてのEVA(EVAアプローチ)について考えると、財務指標としての意味合いだけでなく、その数字を最大化するプロセス自体も含む広範囲の概念となる。
つまり、EVAアプローチは財務指標としてのEVAを最大化するための企業の意思決定基準そのものになるのである。適用される意思決定機能は、投資決定機能と業務管理機能の2つに大別できる。前者は設備投資等の意思決定で以前から活用されてきたものであるが、後者においてはこれまで企業の財務的目標設定、業績評価、従業員の報酬制度等の評価がそれぞれ独自の指標で実施されてきたものをEVAという単一の指標で評価しようというものである。企業が複数の意思決定を単一指標で行うことにより、業務改善が期待できることも特徴の一つである。このような特徴が、1980年代の米国において企業競争力の再生に全力を傾注していた多くの経営者を引きつけたと考えられる。
もう一つの特徴は、EVAが株式市場を介して、MVA(市場付加価値:Market Value Added)という概念の予測指標として機能することである(注3)。ここで、MVAとは資本提供者のCashout(投下資金の市場価額)とCashin(資本提供者の実際投下額)の差額であり、資本提供者の立場からみれば、EVA よりMVAの方が企業が本当に株主の価値を創造している(MVAがプラス)のか、あるいは価値を破壊している(MVAがマイナス)のかの判定ができる特性を有している。
しかし、企業経営者の立場では、逆に直接的に株式市場の影響を受けるMVAより、自らの経営努力を反映できるEVAの方が経営管理ツールとして操作しやすい面がある。つまり、企業経営者としては、経営努力によりコントロール可能なEVAの最大化を当面の目標にすることにより、MVAの最大化を最終的に達成しようとするわけである。
しかし注意しなければならないのはEVAの最大化が経営者の最終目標である株主価値の最大化に直接的に結び付くのではなく、そこには市場原理が機能し、情報に対しても効率的である株式市場の判断が加味される点である。そのため、たとえ現時点のEVAがプラスの値でも、株式市場から将来の成長性を否定されれば、MVAがマイナスになることもある。また積極的なリストラ等を行った結果として、逆に現時点のEVAがマイナスになったとしても株式市場が好意的な判断をすれば、MVAがプラスになることもありうるのである。
3.米国企業の動向
米国では、株主の富を高めることが、株主の代理人たる経営者としての最重要課題であるという考え方が定着している。しかし、現実には業績評価、従業員報酬、資本予算決定等の一連の経営意思決定において単一の評価尺度を活用している企業は相対的に少なく、実際には数種類の評価尺度を状況に合わせて複合的に適用しているということが実態である。
このような状況にも関わらず、積極的にEVAを全社のあらゆる意思決定ツールとして利用している米国企業としてはコカコーラ社が最も有名である(注4)。コカコーラ社においてEVAが全社的に統一業績尺度として導入されたのは1987年で、現CEOのロベルト・ゴイツエータ(Roberto C. Goizueta)が1981年に就任してから、従来のROAやROE等の資本利益率による管理からEVAへの転換を実現した。この背景には1980年代、コカコーラ社がライバルのペプシコ社の激しい脅威にさらされ、シェアは低下傾向にあり、企業競争力も弱まりつつあった事実があり、ゴイツエータはこの状況を克服するために新しい手法導入に踏み切ったものと思われる。現在では、EVAを全社レベル、事業部レベル、個人レベルでの目標設定におけるドライバー(作用因)として、また、インセンティブ・ボーナスの算定基礎としても利用されるまでに定着している。
具体的にEVAを高めるためのキードライバーとして、(1)資本コストを上回る収益率を生み出すプロジェクトへの集中投資、(2)効率性の向上を通じた営業利益率の改善・集中購買による経費削減、(3)運転資本の削減、低収益事業部門からの撤退による使用資本の節約等をあげている。
その結果とも言うべきコカコーラ社の最近のEVAと株価をみると、株主にとっては非常に好ましい状況が創出されていることが理解できる。ちなみに、コカコーラ社のEVAは1987年の490ドルから1995年には2172ドルへ、株価は同期間において9.53ドルから74.25ドルに増加しており、年平均成長率はそれぞれ20%、29%となっている。
ただし、コカコーラ社においてもEVAは、一朝一夕に定着し効果を発揮してきたというものではなく、多大な企業努力を払っているようである。例えば、EVAを日常業務でファイナンスに関係しない部門の従業員にも財務会計・管理会計等についての研修をケーススタディ・ディスカッション方式等で実施することにより徹底的に理解を深めさせている。
4.日本企業の導入における問題点と可能性
最近、わが国でも株主重視経営を標榜する企業が現れてきている。しかし、その大部分はROE、ROA等を中心とした資本利益率であり、資本コストを考慮した上で本当に株主の価値創造を実現しているのかどうかにまで踏み込んだアピールをしている企業といえば皆無に近いであろう。実際、米国に上場している本邦企業でさえアニュアルリポートをみると、株主の価値を創造する、最大化するという株主重視を意識させる表現が多く使われているが、結局それが意味するところは企業の時価総額の最大化であり、資本コストにまで言及している企業はほとんどない。
それでは、なぜ、本邦企業は資本コストを業績評価等に利用してこなかったのだろうか。
第1の要因としては、本邦企業の経営者自体が資本コストの重要性に対する明確な意識を持っていなかったことが考えられる。この背景には、戦後高度経済成長の中で企業経営者の目標は売上やマーケットシェア等の規模的拡大を目指していく方向にあり、事実本邦企業はこの間、企業規模等の量的な面で飛躍的な成長を遂げている。そのため、資本コスト問題に目を遣る必要もなかったのである。つまり、経営者は積極果敢に投資を行っていれば結果的に高いパフォーマンスを手に出来る状況下で、自ら進んで資本コストという計算問題を解くことに頭を悩ませることは時間の無駄と考えていたのかもしれない。
第2の要因としては、株式市場の企業評価機能を業績評価や従業員の報酬決定等に効果的にリンクさせるインセンティブ・システムの整備が遅れていることがあげられる。この点はわが国の株式市場の制度的な問題や税制から派生するものであるが、米国においては経営者や従業員に対するストックオプションや株価値上がり受益権(SAR)等の制度が既に定着しており、企業が経営システムの一部として株式市場を利用することは当然の状況となっている。
第3の要因としては、資本コスト自体の概念が不明確で、測定が非常に困難を極めることがある。資本コストは負債コストと株主資本コストを資本構成のウェイトで加重平均することにより求めることができるが、現実にそれぞれのコストの推計は、事後的なデータを前提に行っているため、現在時点で利用可能なのか、という問題が常に付随する。
このように、資本コスト概念が本邦企業に理解され定着するにはいくつかの問題が残されており、基本的には経営者の意識改革と株式市場等の制度改革、資本コスト計算の精緻性の向上等のハードルをクリアしない限り、わが国おける資本コスト概念の定着にはまだ時間がかかる可能性が高い。
5.おわりに
現在の米国企業経営者と本邦企業経営者との認識には、株主の利益に対する考え方、株式市場への理解等の面で大きな差異が存在することは事実である。このようななか、本邦企業経営者の多くは、今、資本コスト概念をビルト・インした米国流の財務手法をわが国に導入することは時期尚早であり、想定していたようには機能しないと考えるかもしれない。
ただし、最近の企業を取り巻く環境をみている限りでは、株式市場の長期低迷とコーポレートガバナンスの議論の高まりを背景に株主による企業監視の目が厳しくなったこともあり、本邦企業の経営者は株主の利益を重視せざるを得ない立場に追い込まれる可能性が高まっており、EVAの概念を経営に取り入れている米国企業の例は示唆に富む。
現状で本邦企業のEVA適用を考えるならば、企業目標としてのROEが資本コストをクリアしているかどうかの監視機能等の限定されたものになる公算が大きいが、今後目指すべきEVAの運用方向は、従来のROEを株主に対する経営者の最低限果たすべき目標(初期目標)として位置付けつつ、社内においては資本コストを考慮した全般的な意思決定の判断基準(中間目標)として、株主の価値の最大化(最終目標)を目指す体制(図表4)が望まれる。このような動きは、既に株主の価値創造を積極的に行っている企業、資本効率を追求している企業にとっては、ライバル企業との財務戦略における差別化によって全社的な競争優位の実現につなげうるであろうし、この行動を通じて株主との長期的、総合的なコミュニケーションも維持・向上できると期待されるからである。
注
・EVAはStern Stewart & Coの商標である。
・資本コスト(Cost of capital)とは、「資金提供者を満足させるために最低限必要な、投資プロジェクトの税引き前収益率」で、実務的には負債コストと株主資本コストを資本構成比で加重平均することにより測定する。株主資本コスト部分の推定においては、EVAアプローチではCAPM(資本資産評価モデル)を適用している。特に資本コストの概念自体については、日本銀行月報1995年12月号において、概念整理が簡潔に行われている。
・G.Bennett Stewart,"EVA:FACT AND FANTASY"Journal of Applied Corporate Finance,Summer 1994
EVA をコンサルティング・ツールとして理論的に構築したStewart氏によるMVAと各種の財務数値(EVA、ROE、ROA、キャッシュフロー、一株当たり利益等)との関係では、EVAとの間で最も強い相関が認められたという実証結果が導出されている。
・コカコーラ社の事例の部分は、FORTUNEのEVA、MVAの特集記事(1993年9月20日号、1993年12月27日号、1995年12月11日号)、および日本コカコーラ(株)取締役副社長 望月達氏の講演(1996年5月10日)、コカコーラ社のアニュアル・レポートをもとに要約したものである。ただし、コカコーラ社ではEVAという用語を使わず、Economic Profitという用語を使っている。また、コカコーラ社におけるEVAという用語は、Economic Profitの年増分という意味で理解されている。